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第40話 人類憲章

 ニューヨークは、奇妙な熱気に包まれていた。

 あの日、邪神の気まぐれな奇跡によって、物理的な傷跡は全て消え去った。摩天楼は再び天を突き、イエローキャブが街を彩り、セントラルパークには緑が蘇った。だが、この街に住む者、そしてこの街を訪れる全ての者の魂には、決して癒えることのない巨大な傷跡が、今もなお生々しく刻み込まれていた。

 ソーニャ・ペトロヴァが消滅したタイムズスクエアの一角は、いつしか「聖女の礎」と呼ばれるようになり、世界中から訪れる巡礼者の花と祈りが途絶えることはなかった。ある者は彼女の自己犠牲に涙し、ある者は彼女を魔王へと変えた社会の歪みを告発し、またある者は、彼女の死の上に成り立つこの「完璧な世界」の欺瞞を静かに糾弾していた。

 街は、再生された。だが、人々の心は再生されていなかった。

 その傷だらけの聖地の中心、イーストリバーのほとりに、その殿堂はそびえ立っている。国際連合本部ビル。

 今日、この場所で、人類の未来を決定づける歴史的な総会が開かれようとしていた。議題は、日本政府が主導して提唱した新たな国際憲章――通称『人類憲章』の、採択の是非を問う緊急特別総会。


 会場へと向かう黒塗りの防弾仕様のリムジンの中、黒田は、窓の外を流れるニューヨークの街並みを硬い表情で見つめていた。彼の隣には、この歴史的な大博打のもう一人の主役、高坂総理大臣が、目を閉じ、静かに精神を集中させている。

「……まるで、凱旋将軍ですな。我々は」

 黒田が、皮肉を込めて呟いた。沿道には、日の丸の小旗を振る大勢の人々の姿があった。彼らは、日本政府を、「奇跡」の呪縛から世界を解き放とうとする新たな時代のリーダーとして、熱狂的に支持していた。日本が主導する「プロジェクト・プロメテウス」は、この一ヶ月で着実に世界に浸透しつつあった。テレビやネットからは、神や奇跡といった扇情的な言葉が意図的に排除され、代わりに、人間の地道な、しかし偉大な営みが、これでもかというほど繰り返し報道され続けていた。

「凱旋か。むしろ、これから始まる本当の戦場へと向かう、一兵卒の気分だよ」

 高坂は、目を開かずに答えた。

「今日、我々は世界に踏み絵を迫る。神の物語につくのか、人間の物語につくのか。……どちらに転んでも、世界は二度と元には戻らん。我々は、自らパンドラの箱を開けようとしているのだからな」

「覚悟の上です」

 黒田の答えに、迷いはなかった。

 この一ヶ月、彼らは水面下で死に物狂いの外交戦を繰り広げてきた。特に、安全保障理事会の常任理事国――アメリカ、イギリス、フランス、そして何よりもロシアと中国。この二大国を取り込むことが、この博打の最低条件だった。

 彼らは、粘り強く説いた。邪神の混沌も、スキル神の秩序も、どちらも我々人類を、神の気まぐれな庭で飼育される家畜へと貶めるものだと。国家の主権、民族の自決、それら全てが、神の御心一つで覆される世界を、本当に望むのかと。

 対立を繰り返してきた大国たちが、この一点において、奇妙な、しかし確かな利害の一致を見た。彼らもまた、自らの国家という「秩序」を、神の介入によって破壊されることを、何よりも恐れていたのだ。

 車が、国連本部の正面に静かに停止する。

 黒田と高坂は、車を降りた。無数のフラッシュが、二人を包む。世界の全ての目が、今、この東方の島国の二人の男に注がれていた。

 彼らは、互いに一度だけ短く頷き合うと、人類の未来を決めるその議場へと、重い、しかし確かな足取りで歩を進めていった。


 国連総会議場。

 その象徴的な、緑色の大理石で覆われた空間は、かつてないほどの静謐な緊張感に支配されていた。世界193カ国の代表が自席に着き、その視線は一点、演壇の中央へと注がれている。

 議長による開会宣言の後、ついにその男が、ゆっくりと演壇へと向かった。

 日本国、内閣総理大臣、高坂啓介。

 彼は、深々と議場に向かって一礼すると、マイクの前に立った。その背後の巨大なスクリーンに、彼の深い皺が刻まれた、しかし鋼の意志を宿した顔が、大写しになる。

 彼は、用意された原稿には一切目を落とさなかった。


「……議長、並びに加盟国の代表の皆様。そして、この中継を世界の片隅で見守ってくださっている、全ての『人間』の皆様」


 その静かで、しかし澄み切った声が、議場に、そして全世界に響き渡った。


「我々は、この一ヶ月、神の時代に生きてきました。我々は、死者が蘇り、街が再生するという、絶対的な奇跡を目の当たりにしました。そして、その奇跡が、一人の女性のあまりにも悲劇的な犠牲の上に成り立っていたという、残酷な真実も知りました」

「以来、我々の世界は、二つの巨大な物語に引き裂かれています。『混沌こそ、神が与えたもうた真の奇跡である』という物語。そして、『秩序こそ、神が与えたもうた真の奇跡である』という物語。……どちらもが、ヴァチカンが示した通り、『神の言葉』であるとされています」

「人々は戸惑い、迷い、そして対立しています。どちらの神を、信じるべきか。どちらの奇跡に、祈りを捧げるべきかと」


 彼は、そこで一度言葉を切った。そして、議場にいる全ての代表の顔を、一人一人見渡すように、ゆっくりと視線を動かした。


「……本日、私がこの人類史において最も神聖な演壇に立たせていただいたのは、そのどちらの物語が正しいかを議論するためではありません」

「私が皆様に問いたいのは、ただ一つ」


「――我々は、いつまで神が描いた物語の上で踊り続けるのですか?」


 その、あまりにも根源的な問いに、議場は水を打ったように静まり返った。


「考えても、みてください。混沌の物語も、秩序の物語も、その主役は常に『神』です。我々人間は、その物語の中で、ただ力を与えられ、救済され、あるいは生贄にされるだけの、か弱い脇役でしかありません。……我々は、それで本当に良いのでしょうか」

「私は、そうは思いません。私は、信じています。我々人間には、我々自身の物語があると」

「それは、神が与えてくれるような、華々しい奇跡の物語ではありません。それは、時に間違いを犯し、時に醜く争い、そして遠回りばかりを繰り返す、不完全で泥臭い物語です」

「だが、その物語には、神の物語には決してない、一つの絶対的な輝きがあります」


「――それは、『我々自身の意志で紡いでいる』という、尊厳です」


 高坂の声に、熱がこもり始めた。


「我々は、神に祈る前に、自らの頭で考え、対話してきました。我々は、奇跡を待つ前に、自らの手で科学を発展させ、病を克服し、宇宙にまで到達しました。我々は、生贄を捧げる代わりに、法と民主主義という血の流れない秩序を、不完全ながらも築き上げてきました。……それら全てが、我々人類が何万年という時間をかけて、自らの意志で紡いできた、偉大なる我々の物語なのではないでしょうか」

「私は、今日、この場で全世界の人々に提案したい。そして、選択を迫りたい」

「もう、神の物語から降りようと。そして、もう一度、我々自身の、不完全で泥臭い、しかし尊厳に満ちた人間の物語を始めようではないかと!」


 彼は、演台のボタンに触れた。

 全ての代表の手元のモニターに、一つの極めてシンプルな、しかし人類の未来の全てが懸かった憲章の草案が、表示された。


【人類の主権に関する国際憲章(通称:人類憲章)】


 第一条:我々国際連合加盟国は、人類の未来に関する全ての意思決定において、神、あるいはその他の超越的な存在による奇跡、啓示、その他一切の超常的な介入を根拠としないことを、ここに誓う。

 第二条:我々は、人類が直面するあらゆる困難に対し、我々自身の理性、対話、そして科学的知見に基づき、その解決にあたることを、ここに誓う。

 第三条:我々は、いかなる状況においても、「生贄」という概念を断固として拒絶する。一人の人間の尊厳は地球よりも重く、いかなる奇跡、いかなる大義名分をもってしても、それが意図的に損なわれることを決して容認しない。


 高坂は、叫んだ。その声は、もはや一人の政治家のものではなかった。それは、人類という種そのものの、魂の叫びだった。


「――我々は今日、神と決別する! そして今日、我々はもう一度、ただの『人間』として、自らの足でこの荒野を歩き始めるのだ! ご清聴、感謝する!」


 演説は、終わった。

 一瞬の、完全な沈黙。

 そして次の瞬間、議場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。

 アメリカ、イギリス、フランス、各国の代表が次々と立ち上がり、そのあまりにも勇敢で、あまりにも人間らしい演説に、最大の敬意を示していた。

 ロシアと中国の代表もまた、硬い表情のままではあったが、静かに、しかし力強く拍手を送っていた。

 黒田の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 勝った。

 少なくとも、この最初の戦いは。


 採決は、歴史的な光景となった。

 議場の巨大なスクリーンに、加盟国の名前と、その投票結果が次々と表示されていく。

「UNITED STATES OF AMERICA ... YES」

「UNITED KINGDOM ... YES」

「FRANCE ... YES」

「RUSSIAN FEDERATION ... YES」

「PEOPLE'S REPUBLIC OF CHINA ... YES」

 安全保障理事会常任理事国、満場一致。

 その瞬間、事実上、人類憲章の採択は決定した。

 その後も、賛成の緑色のランプが、ドミノ倒しのように次々と灯っていく。西欧諸国、南米、アフリカ、アジア。イデオロギーや国益を超えて、人類は今、確かに一つの意志の下に団結していた。

 最終結果。

 賛成181カ国。

 反対8カ国。

 棄権4カ国。

 人類憲章は、圧倒的な賛成多数で採択された。

 議場は、再び歓喜の渦に包まれた。人々は、抱き合い、涙を流し、この人類の新たな独立記念日を祝っていた。


 だが、その熱狂の片隅で、世界に新たな、そして決定的な「亀裂」が刻まれた瞬間でもあった。

 反対票を投じた、8カ国。

 それらは、いずれも国内に深刻な問題を抱え、国際社会から孤立している独裁国家や宗教国家だった。

 採択が決定した、まさにその直後。

 その中の一国、中央アジアに位置する軍事独裁国家「ヴァルダニア共和国」の大統領が、国営放送を通じて全世界に向けて声明を発表した。

 その顔は、怒りと、そして狂信的な熱に歪んでいた。


「――断じて認めん! 本日、国連で採択されたいわゆる『人類憲章』は、神に対する許されざる冒涜であり、欧米の傲慢な大国たちが、我々弱小国家から奇跡という名の最後の希望を奪い去るための暴挙である!」

「彼らは、『秩序』を謳う! だが、彼らの言う秩序とは、強者が弱者を支配し続けるための、欺瞞に満ちた偽りの秩序に過ぎない! 我々が何十年も貧困と理不尽な経済制裁に苦しんできた間、彼らは何をしていた!?」

「我々は、見た! ニューヨークで! 邪神様が、たった一日で全ての罪を洗い流し、全ての病を癒やし、完璧な世界をお創りになるのを! それこそが、真の平等! それこそが、真の救済ではないか!」

「そうだ! カオスこそが、世界の真の姿なのだ! 全てを一度無に帰し、ゼロからやり直す! それこそが、神が我々虐げられた者たちに、お与えくださった、唯一にして最大のチャンスなのだ!」

「我々ヴァルダニア共和国は、本日をもって人類憲章を完全に拒否する! そして、我々と志を同じくする全ての同胞たちに呼びかける! 共に、立ち上がろう! 偽りの秩序を破壊し、混沌の神の御名の下に、真の世界革命を始めようではないか!」


 その狂気の演説は、始まりに過ぎなかった。

 ヴァルダニアに続き、他の反対国からも次々と同様の声明が発表される。

 中東の、原理主義国家。アフリカの、内戦に喘ぐ軍事政権。

 彼らは、公式に人類憲章への反旗を翻し、そして「混沌」の思想にその身を捧げることを、全世界に宣言したのだ。

 世界は、二つに分かれた。

『人類憲章連合』と、『カオス同盟』。

 神々の代理戦争は、今や人間同士の、国家と国家のイデオロギーを賭けた、新たな「冷戦」の時代へと、その姿を変えた。


 公邸へと戻る、リムジンの中。

 黒田と高坂は、どちらからともなく、深い、深いため息をついた。

「……始まったな」

 高坂が、呟いた。

「ええ。ですが、これでようやく戦うべき敵の姿が、はっきりとしました」

 黒田の答えに、迷いはなかった。

「我々は、今日、確かに勝利した。だが、それはこれから始まる長い、長い冬の時代の始まりを告げる号砲でもあったというわけか」

「その通りです。ですが、我々には進むべき道が見えています。……それで、十分です」

 二人の顔に、疲労の色はあった。だが、絶望の色は、もはやなかった。

 彼らは、自らの意志で、この最も困難な道を選んだのだ。


 その人間たちの、あまりにも健気で、あまりにも愚かで、そしてあまりにも気高い決断の一部始終を。

 日本の安アパートの一室で、一人の男が腹を抱えて笑っていた。

 空木零。

 彼の目の前のモニターには、国連総会の感動的な採択の瞬間と、ヴァルダニア大統領の狂気に満ちた演説が、同時に映し出されている。


「はは……あははははは! 素晴らしい! 実に、素晴らしいじゃないか!」


 彼は、涙を流して笑っていた。

 彼の想像を、遥かに超えていた。

 まさか、人間たちが自らの手で、こんなにも綺麗に二つの陣営に分かれて、新しい戦争ごっこを始めてくれるとは。

『人類憲章連合』対『カオス同盟』。

 善と悪。秩序と混沌。

 なんと、分かりやすい対立構造だろうか。

 彼は、ただほんの少し、物語の種を蒔いただけ。だが、人間たちは、その種から、これほどまでに壮大で、血なまぐさい、最高のエンターテインメントの舞台を自分たちで作り上げてくれた。


「うんうん! これでこそ、俺の最高のオモチャだ!」


 彼は、新しいカップ焼きそばにお湯を注いだ。

 3分間待つ間、彼は考える。

 さて。

 綺麗に二つに分かれた、このチェス盤の上で。

 次の一手は、どこに、どんな面白い駒を置いてやろうか。

 神の退屈しのぎは、まだまだ終わらない。

 むしろ、本当のゲームは、今、始まったばかりだった。



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