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第39話 人間の物語

 20XX年X月XX日、午前3時27分。

 東京、千代田区永田町。

 日本の政治の中枢であるその一角は、深夜の闇と静寂に支配されているはずの時間だった。だが、総理大臣公邸の固く閉ざされた一室だけは、煌々とした照明の下、まるで心臓部のように、この国の終わらない悪夢を処理し続けていた。

 内閣総理大臣執務室。

 高坂啓介は、深く身じろぎもせず、巨大な戦略モニターに映し出された世界地図を睨みつけていた。地図の上には、無数の赤い光点が、まるで悪性のウイルスのように瞬く間にその版図を広げている。一つ一つの光点が、「カオス教団」に感化された者たちによる小規模な暴動、あるいは狂信的な儀式の発生地点を示していた。

 机の上には、飲み干されたコーヒーカップが三つ、無造作に置かれている。灰皿には、押し潰された煙草の吸殻が山を成していた。もはや、健康に気を遣う余裕など、彼には残されていなかった。この一ヶ月、彼の平均睡眠時間は二時間を切っていた。ワイシャツは皺だらけで、その目の下には、もはや化粧では隠しきれない深い隈が刻まれている。一国の指導者というよりも、敗戦処理に追われる老いた将校のようだった。


「……入れ」


 ノックの音に、高坂は嗄れた声で応じた。

 静かに入室してきたのは、彼と同じくこの国の眠らぬ番人、超常事態対策室室長、黒田だった。黒田の姿もまた、惨憺たるものだった。その、常に鋼鉄の意志を宿していたはずの瞳の奥に、拭いきれない疲労と、そしてどこか虚無的な色が深く沈んでいる。

「……深夜に申し訳ありません、総理」

「構わん。どうせ眠れん」

 高坂は、黒田にソファを勧めるでもなく、ただモニターを指さした。

「……見たまえ。南米は、もうほぼ全域が赤く染まった。ブラジル政府は事実上の戒厳令を敷いたが、軍の一部が既に教団側に寝返っているとの情報もある。ヨーロッパでも、フランスとイタリアで大規模なデモが暴徒化。彼らは、ソーニャ・ペトロヴァを『第二の聖母』として掲げ、『我々にも奇跡の生贄を』と叫んでいるそうだ。……馬鹿げている」

 高坂は、吐き捨てるように言った。

 黒田は、無言でその地獄絵図を見つめた。彼が、毎日、毎時間、毎分向き合い続けている現実。それが、今改めてこの国の最高責任者の口から語られることで、その絶望的な重みを再認識させられていた。


「黒田君……」

 高坂が、ぽつりと呟いた。その声には、珍しく弱々しい響きが混じっていた。

「……まだ、『シャンプーの泡立ちが異常に良くなる』スキルに頭を悩ませていた頃が、懐かしいな」


 その、あまりにも唐突で、あまりにも場違いな言葉に、黒田は一瞬、虚を突かれた。

 シャンプーの泡立ち。ああ、そんなこともあった。

『神々の戯れ』が出現し、世界がまだくだらない奇跡で溢れていた、あの混沌の初期。あの頃は、確かに大変だった。ご近所トラブル、珍事件、意味の分からない通報。現場は、疲弊しきっていた。

 だが。

「……ええ。全くですな」

 黒田の口から、乾いた笑みが漏れた。

「あの頃は、まだ笑えました。『鼻毛が七色に光る』オッサンをどう職務質問するか、部下と真剣に議論したこともありました。確かに、あの頃は……まだ良かった」


 良かった。

 そう、良かったのだ。なぜなら、あの頃の敵は、まだ「人間の物差し」で測れる、滑稽な混乱に過ぎなかったからだ。

 法で裁けるか、裁けないか。危険か、無害か。その判断基準は、まだ我々人間の側にあった。

 だが、今はどうだ。

 彼らが今、戦っている相手は、もはや犯罪者ではない。スキルでもない。

 彼らが戦っているのは、「信仰」という名の巨大な怪物だ。

 邪神がもたらした、「悲劇は奇跡を呼ぶ」という、あまりにも甘美で悪魔的な「物語」。

 その物語を信じる者たちにとって、法も、国家も、理性も、全ては「偽りの秩序」であり、乗り越えるべき障害でしかない。彼らは、自らの信じる「正義」のために、喜んで身を投げる。


「嘆いても仕方がないが……」

 高坂は、深くソファに身を沈めた。

「……正直に言って、私はもう打つ手が分からん。軍を動かせば、内戦になる。情報統制を強めれば、国民はさらに政府を信じなくなり、教団の甘言に耳を傾ける。対話をしようにも、相手は我々を『偽りの秩序の番人』としか見ていない。……八方塞がりだ。我々は、神の掌の上で、ただゆっくりと衰弱死させられているだけなのかもしれん」


 最高指導者の、そのあまりにも率直な弱音。それは、黒田の心にも氷のように突き刺さった。

 そうだ。その通りだ。

 我々は、負けている。それも、完膚なきまでに。

 スキル神の警告は、正しかった。『物語と物語の戦い』。そして、我々「秩序」の側の物語は、邪神の「奇跡」の物語の前に、あまりにも無力で、色褪せて見える。

 希望は、ないのか。

 このまま、世界は狂信と混沌の渦に飲み込まれて、崩壊していくのか。

 黒田の脳裏に、対策室で眠れぬ夜を過ごす部下たちの顔が浮かんだ。神崎勇気の、あのまだ幼さの残る、しかし重い宿命を背負った顔が浮かんだ。そして、もう何週間も会えていない妻と娘の笑顔が浮かんだ。

 ここで、諦めるわけにはいかない。


「……しかし、総理」


 黒田の声は、静かだった。だが、その声には、虚無の底から絞り出したような、確かな意志の光が宿っていた。

 高坂が、ゆっくりと顔を上げる。


「嘆いてばかりでは、ダメですな」


 黒田は、立ち上がるとモニターの前に立った。そして、狂ったように点滅を続ける赤い光点を、まるで憎むべき敵兵を睨みつけるかのように見据えた。


「……確かに、我々は負けています。ですが、それは我々がまだ敵の土俵の上で戦っているからです」

「……敵の土俵?」

「はい。我々は、邪神が作り出した『奇跡』と『生贄』という物語に対して、ただそれを『否定』することしかできていない。『それは間違っている』、『冷静になれ』と。ですが、物語の力は、正論では決して打ち破れません。物語を打ち破れるのは……ただ、それ以上に強靭で、魅力的な、別の『物語』だけです」


 それは、スキル神が彼に与えた唯一のヒントだった。

 黒田は、この一週間、眠らない頭で考え続けていた。

 我々の「秩序」の側の新しい物語とは、一体何なのか。


「総理。我々は、発想を根本から転換しなければなりません。邪神に対抗するのではなく、彼を、そして彼の信者たちを、『無視』するのです」

「……無視だと?」

 高坂の眉が、訝しげにひそめられた。

「はい。彼らがどれだけ奇跡を叫ぼうと、どれだけ神の御心を語ろうと、我々は一切それに付き合わない。彼らを、存在しないものとして扱うのです。そして、我々は我々の信じる『物語』を、ただ淡々と、しかし圧倒的な規模で、全世界に提示し続けるのです」


 黒田の瞳に、狂気にも似た熱が宿り始めた。


「邪神の物語の主役は、『神』と、選ばれた『アルター』です。ですが、我々の物語の主役は違います。我々の物語の主役は、スキルを持たない、ごく普通の、名もなき『人間』です」


 彼は、モニターの表示を切り替えた。

 そこに映し出されたのは、赤い光点ではなく、世界中で今この瞬間も人々の生活を支えている、無数の青い光点だった。

 病院で患者の命を救おうと戦っている、医師や看護師。

 災害現場で瓦礫を撤去している、消防士やボランティア。

 研究所で、未知のウイルスに対するワクチンを開発している科学者。

 アトリエで、人々の心を癒やす音楽を奏でている芸術家。


「彼らこそが、我々の物語の真のヒーローです。神の気まぐれな奇跡ではなく、人間の地道な努力、知性、そして他者を思いやる心。それこそが、世界を本当に動かしてきた本物の『奇跡』なのだと。我々は、そのあまりにも当たり前で、あまりにも尊い真実を、もう一度、全世界の人々に思い出させなければならない」

「……具体的に、どうする」

 高坂の声から、弱々しさが消えていた。彼の目にもまた、政治家としての闘争の本能の光が、戻り始めていた。


「二つの巨大なプロジェクトを、提案します。日本の、いやG7の全ての国力を、ここに集中させるのです」


 黒田は、震える手でタブレットを操作し、二つの企画書をモニターに表示させた。


【プロジェクト・プロメテウス】

 目的: 神の「奇跡」に対抗する、人間の「叡智」の可視化。

 内容:

 1.全世界のメディアネットワークを、半ば強制的に政府の管理下に置く。

 2.「カオス教団」や「奇跡」に関する報道を、徹底的に縮小・制限する。

 3.代わりに、人間のあらゆる分野における「偉業」を、24時間365日、これでもかというほど大々的に報道し続ける。難病を克服した医療チームのドキュメンタリー。不可能を可能にした、巨大建造物の建設プロジェクト。紛争地帯で、子供たちに教育を施すNPOの活動。

 4.報道の中心には、必ず「スキルを持たない普通の人々」の姿を据える。


「……つまり、壮大なプロパガンダだな」

 高坂が、呟いた。

「その通りです。報道の自由などと、悠長なことを言っている場合ではない。これは、思想戦です。我々は、人々の脳に、直接我々の『物語』を刷り込むのです。神の奇跡よりも、人間の叡智の方が、よほど尊く、そして信頼に値するのだと」


 そして、黒田は二つ目の企画書を指さした。


人類憲章ヒューマニティ・チャーター

 目的: 「神への依存」からの、公式な決別宣言。

 内容:

 1.国連総会の、緊急特別議会を招集する。

 2.そこで、日本が主導し、新たな国際憲章の採択を全世界に呼びかける。

 3. その内容は、ただ一つ。『我々人類は、神の奇跡や超越的な存在の介入に頼ることなく、我々自身の理性と対話と科学の力によって、あらゆる困難に立ち向かうことをここに誓う』。

 4.この憲章への署名を、各国の「踏み絵」とする。署名しない国家は、事実上「カオス教団」の思想に与するテロ支援国家と見なし、あらゆる経済的、政治的制裁の対象とする。


「……狂っているな」

 高坂は、そう言った。だが、その口元には、獰猛な笑みすら浮かんでいた。

「……面白い。実に面白いじゃないか、黒田君。神の土俵から降りるのではない。我々が、新しい土俵を無理矢理作り出してしまうというわけか」

「はい。そして、その土俵の上では、我々の方が圧倒的に有利です」

「……神崎勇気君は、どうする。彼は、我々の物語の最大の矛盾点とならんか。彼は、神に選ばれた奇跡の象徴だ」

「彼には、新たな役割を与えます」

 黒田は、きっぱりと言った。

「彼は、もはや神の代理人ではない。彼は、『人間の可能性の最高到達点』としての象徴と、なってもらうのです。彼の訓練も、ただの戦闘訓練ではない。科学者、哲学者、芸術家、世界中のあらゆる分野の人間の叡智の結晶を、彼の脳に叩き込む。そして、彼がその超人的なスキルを行使する時は、必ず、スキルを持たない我々人間の専門家チームの緻密な分析と計画の下でのみ行使される。彼の力は、神の気まぐれな奇跡ではない。人間の知性と理性が、完全にコントロールした科学の延長なのだと。全世界に、そう見せつけるのです」


 狂気の沙汰だった。

 だが、その狂気には、確かな戦略の光があった。

 高坂は、ゆっくりと立ち上がった。そして、黒田の肩を強く叩いた。

「……分かった。やろう。……いや、やらせてくれ、黒田君。私も、まだこの国の総理大臣だ。ただ神の気まぐれに国民の運命を委ねて、指をくわえて見ているつもりは毛頭ない」

「……ありがとうございます」

 黒田は、深く、深く頭を下げた。


 二人の男は、再びモニターの世界地図を見つめた。

 それは、もはや絶望的な敗戦地図ではなかった。

 それは、これから自分たちが全く新しい「物語」で塗り替えていくべき、巨大な、そして挑戦しがいのあるキャンバスに見えた。

 夜が、明けようとしていた。

 執務室の窓から、東京の新しい朝の光が差し込んでくる。

 その光は、まだ弱々しい。だが、それは確かに、闇の終わりと新しい戦いの始まりを告げる、狼煙の光だった。


「……見ていろ、邪神。スキル神」

 黒田は、心の中で、二柱の超越的な観測者に向かって呟いた。

「お前たちが、面白い物語を見たいというのなら、見せてやる。神の気まぐれに最後まで抗い続けた、愚かでしぶとい人間たちの、泥臭い物語の結末をな」


 嘆きと絶望の夜は、終わった。

 日本の、いや人類の、神に対する静かな、しかし最も壮大な反逆が、今、始まろうとしていた。

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