第38話 光魂の寓話
ニューヨークの奇跡から、二ヶ月が経過していた。
世界は、熱病の後の悪夢のような倦怠期に沈んでいた。ソーニャ・ペトロヴァという名の聖女にして魔王の記憶は、人類の集合的無意識に、決して癒えることのない深い傷と、そして歪んだ希望を刻み込んだ。「悲劇は奇跡を呼ぶ」という、あまりにも甘美で悪魔的な物語は、もはや全世界に蔓延する精神のウイルスと化していた。
東京、永田町の地下深く。超常事態対策室の空気は、淀みきっていた。室長の黒田は、この二ヶ月、ほとんど太陽の光を見ていない。彼の執務室の壁を埋め尽くす巨大モニターには、世界の終わりを告げるカウントダウンのように、リアルタイムで更新される地獄絵図が映し出され続けていた。
フランス、マルセイユ。港湾地区で、イスラム教系の移民集団とキリスト教系の右派市民団体が、大規模な衝突を起こした。きっかけは、些細なことだった。一人の若者が、壁にスプレーでこう殴り書きしたのだ。『邪神はダッジャール(偽メシア)なり』。それに、キリスト教系の青年が反発した。『否、彼は再臨を告げる天使である』。言葉はすぐに石となり、やがては火炎瓶となった。報告によれば、死傷者は既に百名を超え、市警の機能は完全に麻痺しているという。彼らが憎み合っているのは、互いの肌の色や信じる経典ではない。彼らが憎み合っているのは、自分たちが信じる「神々の物語」の、ほんの僅かな解釈の違いだった。
インド、バラナシ。ガンジス川のほとりでは、ヒンドゥー教の聖者たちが、「邪神は破壊神シヴァの化身である」と宣言。その「聖なる破壊」を歓迎するための、大規模な儀式を執り行っていた。儀式の内容は、凄惨を極めていた。信者たちが自らの身体を鞭打ち、灼熱の炭の上を歩き、その苦行を神に捧げている。彼らの顔には苦痛はなく、ただ法悦の表情だけが浮かんでいた。その狂気に満ちた光景は、全世界に配信され、新たな信者を獲得し続けている。
「……馬鹿げている……」
黒田は、吐き捨てるように言った。
人間は、理性を信じてなどいなかった。人間は、叡智を求めてなどいなかった。
彼らが求めていたのは、この混沌とした世界を分かりやすく説明してくれる、単純で刺激的な「物語」だけだったのだ。そして、邪神が提示した物語は、あまりにも甘美で、あまりにも魅力的すぎた。
もはや、打つ手はないのか。
彼が諦念の淵に、魂ごと沈み込もうとしたその時だった。
対策室のすべてのモニターが、一斉に緊急速報のテロップに切り替わった。
『速報:イラン・ヤズドより、ゾロアスター教最高神官が三千年の沈黙を破り、緊急声明を発表へ』
「……ゾロアスター教?」
部下の一人が、訝しげに呟く。古代ペルシャの宗教。信者数も少なく、世界の動向に影響を与える存在とは、到底思えなかった。
だが、黒田の背筋を、説明のつかない悪寒が走り抜けた。
彼のプロファイラーとしての直感が、警鐘を鳴らしていた。これは、ただのニュースではない。これは、次なる物語の始まりの合図だと。
イラン中央部、ヤズド。
砂漠の風が古代の沈黙を運び続けるこの街は、今、歴史上類を見ないほどの喧騒と緊張に包まれていた。世界の果てから集まった何百台もの中継車が、一つの場所に向けて無数のケーブルを伸ばしている。その先にあるのは、ゾロアスター教の聖地「沈黙の塔」と、その麓に佇む小さな拝火神殿だった。
神殿の内部、最も神聖な一室。そこでは、決して消えることのない聖なる炎「アータシュ・バフラーム」が、この三千年間、一日も休むことなく静かに揺らめいていた。
その炎の前に、一人の老人が静かに膝をついていた。
彼の名は、アルダシール。この聖火を守護する最高位の神官、「マギ」の長。その顔に刻まれた深い皺は、人類の歴史そのものを刻み込んでいるかのようだった。彼の隣には、次代のマギ長と目される若き神官キアヌが、緊張した面持ちで控えている。
「……師よ。本当に、よろしいのですか」
キアヌが、震える声で問うた。
「『光魂の寓話』を世界に解き放つなど……。それは、神々の真実を不敬な者たちの目に晒すこと。我らマギが、三千年間命を賭して守り抜いてきた、沈黙の誓いを破ることになります」
アルダシールは、答えなかった。ただ、揺らめく炎の奥に何かを見ていた。
数日前、彼は夢を見た。開祖ザラスシュトラが彼の枕元に立ち、ただ一言、こう告げたのだ。『時は満ちた』と。
そして彼は、長老たちだけに口伝で伝えられてきた、あの「公開の条件」を改めて反芻した。
『人の子が、天より降り立ちし光と闇の名を巡り、自らの兄弟に刃を向け、世界が二色の旗のみで染め上げられんとする時……』
まさに、今のこの世界の姿そのものではないか。
キリスト教徒とイスラム教徒が、互いを「偽善者」と罵り合う。ヒンドゥー教徒と仏教徒が、互いの解釈の浅さを嘲笑う。秩序と混沌。善と悪。光と闇。世界は、あまりにも単純な二色の旗の下で、血を流し始めている。
「……キアヌよ」
アルダシールは、静かに口を開いた。
「我らが守ってきたのは、沈黙ではない。我らが守ってきたのは、この寓話が正しく『鏡』として機能するための、『時』なのだ。……そして、今こそその時が来た。人類が、自らのあまりにも歪んだ顔を、直視すべき時が」
彼は、ゆっくりと立ち上がった。その足取りは、老齢にも関わらず揺らぎなかった。
神殿の外には、全世界の目が注がれている。
彼はこれから、世界に救いではなく、ただあまりにも残酷な「真実」という名の鏡を突きつけるのだ。
アルダシールが、神殿の前に設けられた簡素な演台の前に立った瞬間、全世界の時間が止まったかのように感じられた。
何億、何十億という人々が、テレビやスマートフォンの画面を、固唾を飲んで見守っている。
東京対策室。黒田は、椅子から身を乗り出し、その老マギの一挙手一投足を見つめていた。
ヴァチカン、使徒宮殿。教皇グレゴリウス17世は、私的な礼拝堂で、巨大なスクリーンに映し出されたその光景を静かに見つめていた。彼の表情は、神の新たな啓示を待つ信仰者のそれか、あるいは自らの判断が招いた次なる混沌を恐れる指導者のそれか、誰にも読み取ることはできなかった。
メッカ、マスジド・ハラーム。居並ぶウラマーたちが、巨大なモニターの前で腕を組み、厳しい表情でその異教の神官の言葉を待っていた。
ニューヨーク、タイムズスクエア。完全に復興を遂げたその広場では、多くの人々が足を止め、巨大なビルボードに映し出されたヤズドからの生中継に、釘付けになっていた。
アルダシールは、一度深く息を吸い込んだ。そして、震える声で、しかし全世界の隅々にまで響き渡るような厳かな口調で、古の言葉を語り始めた。
「……我らが始祖ザラスシュトラが、主アフラ・マズダーより賜りし最後の叡智を、今こそ世界に伝えます。これぞ、『光魂の寓話』」
その、神話の始まりを告げるかのような一言に、世界は完全に沈黙した。
「人の子らよ、汝らが『神』と呼ぶものを、思い違いしてはならない。
大いなる唯一の御心とは、純粋なる『無限光』そのものである。それは、色も形も名も持たぬ、ただ存在するだけの始まりの光」
その言葉が響き渡った瞬間、ヴァチカンの教皇がわずかに目を見開いた。無限光。それは、古代のグノーシス派が語った、名もなき至高存在の概念に、あまりにも近かったからだ。
「人の魂とは、不浄なものではない。汝らの魂とは、神が作りたもうた完璧な『水晶』である」
バラナシの、ガンジス川のほとり。瞑想していたグルの一人が、ゆっくりと瞼を開き、隣の弟子に呟いた。「……アートマン(真我)は、ブラフマン(宇宙の真理)と同一である。……やはり、そうであったか」
「そして、汝らが『信仰』と呼ぶもの。それは、無限光が、汝ら一人一人の魂という水晶を通り抜ける時に起きる、奇跡に他ならない。
純粋であったはずの光は、水晶を通り抜ける時、その光は七色、あるいは七万色にも分かたれる。赤き光、青き光、黄金の光、そして光の届かぬ深き闇。
その分かたれた光の一つ一つこそが、汝らが『神々』と呼び、信じるものの正体なのだ」
そのあまりにも革命的な宣言に、世界は震撼した。
対策室で、分析官の佐伯が、信じられないというように声を漏らした。
「……まさか……。全ての宗教の根源は、一つだと……? そんな……」
アルダシールの言葉は、続く。
「ある者は、その最も輝かしき光を『アフラ-マズダー』と呼び、その光から生まれる影を『アンラ-マンユ』と呼んだ。
ある者は、その厳格なる光を『ヤーウェ』や『アッラー』と呼び、契約を交わした。
ある者は、その光が持つ創造、維持、破壊という三つの側面を、『ブラフマー』、『ヴィシュヌ』、『シヴァ』として敬った。
またある者は、全ての光が消えた無色の静寂の中にこそ真実を見出し、それを『ブッダの悟り』と呼んだ」
メッカのウラマーたちの間に、激しい動揺が走った。唯一神アッラーの名が、異教の神々と同列に語られた。これは、冒涜か。それとも、自分たちの理解を超えた真理なのか。
「人の子らよ、聞くが良い。
汝らの争いは、あまりにも愚かだ。
赤き光を信じる者が、青き光を信じる者を、『偽りだ』と断罪する。だが、青き光もまた、始まりの無限光から分かたれた、真実の光の一色なのだ。
汝らの神々は、全て本物である。
汝らの信仰は、全て正しい。
なぜなら、汝らは皆、同じ一つの光から分かたれた、異なる色を見ているに過ぎないのだから」
その、あまりにも寛大で、あまりにも残酷な宣告。
それを聞いた瞬間、エルサレムで睨み合っていたユダヤ教徒とイスラム教徒の若者たちが、同時に顔を見合わせた。目の前の男が信じる神もまた、「本物」であると、今、告げられたのだ。では、自分たちがこれまで流してきた血は、一体何だったのか。
「汝らの役目は、自らが授かりし光の色を尊び、同時に、隣人が見る異なる色の光の存在を認めることにある。そして、いつの日か、全ての色が再び一つに交わり、始まりの無限光へと還るその日まで、この世界の多様な彩りを、ただ祝福することにある」
その言葉は、まるで美しい詩のように人々の心に響いた。だが、その詩が持つ本当の意味の重さに、人々はまだ気づいていなかった。
「汝らが『邪神』と呼ぶもの。それは、水晶を通った光ではなく、水晶そのものを己の欲望の色に染め上げんとする、傲慢の現れ。
汝らが『スキル神』と呼ぶもの。それは、水晶がより美しく、より多くの光を映し出すことを、ただ静かに望む摂理の現れ」
「これこそが、世界の真実。
これ以上の真実はなく、これ以下の真実もない。
さあ、人の子らよ。汝らは、このあまりにも彩り豊かな世界で、これからどう生きるのか」
アルダシールの最後の問いかけが、砂漠の風に乗り、全世界へと届けられた。
彼は、深く、深く一礼すると、何も語ることなく、再び聖なる炎が燃え盛る神殿の闇の中へと、その姿を消した。
寓話が終わった後、世界は三度、完全な沈黙に包まれた。
タイムズスクエアも、渋谷のスクランブル交差点も、メッカの広場も、人々はスマートフォンやスクリーンを見上げたまま、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。
黒田は、対策室の椅子に深く身を沈めていた。
終わった。
彼は、そう思った。
だが、それは希望の始まりではなかった。
沈黙を破ったのは、SNSの匿名の書き込みだった。
『……つまり、うちの神様も本物ってこと!? やったぜ!』
その、あまりにも能天気な一言が引き金だった。
『ああ! 俺たちの信仰は、間違ってなかったんだ!』
『だが待て。ということは、あの忌まわしい異教徒どもの神も、「本物」だというのか……?』
『そんなはずはない! 我々の神こそが、「始まりの無限光」そのものだ! 他の神々は、そこから零れ落ちた不純な光に過ぎない!』
争いは、終わらなかった。
それどころか、新たな、そしてより根深く、より解決不能な泥沼の戦いが始まろうとしていた。
「偽りの神を討つ」という、分かりやすい大義名分は消えた。
代わりに現れたのは、「どちらの光がより純粋か」、「どちらの信仰がより始まりの光に近いか」という、永遠に答えの出ない解釈・格付け戦争だった。
テレビでは、各宗教の指導者たちが眉間に皺を寄せ、こう語り始めた。
「寓話が示す通り、我が神こそが最も原色に近い純粋な光であることは、疑いようがありません。他の混ざり合った色の光とは、その『格』が違うのです」
ネット上では、「あなたの信仰光の純度ランキング!」などという悪趣味なサイトが、瞬く間に立ち上がった。
黒田は、その光景を、もはや何の感情もなく見つめていた。
これは、救いの福音などではない。
これは、人類から「共通の敵」や「絶対的な悪」という分かりやすい概念すら奪い取り、代わりに、永遠に答えの出ない哲学的な問いを突きつける、究極の「思考の牢獄」だ。
彼は、悟った。
神々の物語に付き合っている限り、人類に未来はない。
神の奇跡も、神の真理も、どちらも人類を救いはしない。
ならば、残された道はただ一つ。
神という存在そのものから目を背け、決別し、我々人間だけの、不完全で泥臭い物語を紡ぎ始めるしかない。
彼の脳裏に、長く、そして暗いトンネルのその先に、ようやく一つの小さな出口の光が見えた気がした。
【プロジェクト・プロメテウス】と【人類憲章】。
もはや、それはただの計画ではない。
それは、神々の不在証明がなされたこの世界で、人類が生き残るための、唯一の、そして最後の蜘蛛の糸だった。
その全ての光景を。
東京の安アパートの一室で、一人の男が、最高のエンターテインメントとして観測していた。
空木零は、モニターに映し出された新たな解釈戦争に熱狂する人々と、その果てにようやく一つの覚悟を決めた黒田の険しい表情を、実に満足げに見比べていた。
「あー、面白い! 実に面白い! 俺が三千年前に、あの敬虔なゾロアスター教のジイさんの頭にちょこっとだけ吹き込んでやった、たった一つの『設定』で、君たちはここまで壮大に、そして見事に踊ってくれるんだから!」
彼は、食べ終えたばかりのカップ焼きそばの容器を、ゴミ箱へと綺麗に投げ入れた。
「いいねえ、実に良い! これで君たちは、永遠に殺し合う大義名分を失い、同時に、永遠に手を取り合うこともできなくなった。その宙吊りのまま、矛盾の中で、永遠に俺を楽しませておくれよ」
彼は椅子をくるりと回転させ、窓の外のありふれた夜景を見つめた。
「そして、あの黒田ちゃん。ようやく、気づいたみたいだねえ。このゲームの、本当の攻略法に。神様なんて無視して、自分たちだけのルールで新しいゲームを始めようってさ。……ああ、なんてことだ。面白くなってきた。実に面白くなってきたじゃないか!」
彼の口から、もはや抑えることのできない、心からの歓喜の笑いがほとばしった。
人間たちが、自らの意志で、神々の物語から降りようとしている。
それは、彼の退屈な日常にとって、何物にも代えがたい最高のスパイスだった。
神が不在のまま、神の名の下に行われる、終わりなき狂騒。
そして、その狂騒から逃れようとする、一握りの理性の信奉者たち。
そのどちらの物語も、彼は心ゆくまで味わい尽くすつもりだった。
彼の神としての退屈な遊戯は、まだ当分終わりそうになかった。