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第37話 神の観劇、人の絶望

 東京千代田区永田町。

 日本の政治の中枢であるその一角は、本来であれば深い眠りに等しい闇と静寂に支配されているはずの時間だった。だが、総理大臣官邸の地下深くに設けられた『内閣官房・超常事態対策室』の固く閉ざされた一室だけは、煌々とした無機質な照明の下、まるで巨大な機械の心臓部のように、この国の終わらない悪夢を処理し続けていた。


 室長執務室。

 黒田は身じろぎもせず、巨大な戦略モニターに映し出された世界地図を睨みつけていた。地図の上には、もはや数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの無数の赤い光点が、まるで悪性のウイルスのように瞬く間にその版図を広げている。一つ一つの光点が、「混沌」を是とする邪神カルト、あるいはそれに感化された者たちによる小規模な暴動、テロ、そして狂信的な儀式の発生地点を示していた。それは、人類という名の肉体を蝕む精神の癌だった。


 机の上には、飲み干されて冷え切ったコーヒーカップが三つ、無造作に置かれている。灰皿には、根本まで吸われ押し潰された煙草の吸殻が、小さな絶望の山を成していた。もはや、健康に気を遣う余裕など彼には一欠片も残されていなかった。この一ヶ月、彼の平均睡眠時間は限りなく二時間に近かった。上質な仕立てであるはずのワイシャツは皺だらけで、その目の下には、もはやどんな高価な化粧品でも隠しきれない深い隈が、まるで地層のように刻まれている。一国の危機管理を担う指揮官というよりも、敗戦処理に追われる老いた将校。その姿はあまりにも痛々しく、そして惨めだった。


 彼は深く椅子に身を沈めた。重力が増したかのように、身体が重い。

 このまま世界は、狂信と混沌の渦に飲み込まれて崩壊していくのか。自分たちが必死に守ろうとしてきた法も秩序も、人の命の尊厳も、全ては神々の退屈しのぎの前に、塵となって消えていくのか。

 彼の脳裏に、対策室で仮眠も取らずにモニターと向き合い続ける部下たちの、疲弊しきった顔が浮かんだ。神崎勇気の、あのまだ幼さの残る、しかし世界の宿命を背負わされた苦悩に満ちた顔が浮かんだ。そして、もう何週間もまともに顔を合わせられていない、妻と娘の笑顔が霞むように浮かんだ。

 守れない。

 何も、守れはしない。

 その絶対的な無力感が、鉄の爪となって黒田の心を深く、深く抉った。

 もはや、これまでだ。

 彼がそう諦念の淵に、魂ごと沈み込もうとしたまさにその瞬間だった。


 部屋の空気が、ふわりと密度を変えた。

 蛍光灯の光が僅かに揺らぎ、モニターから発せられる電子のノイズが、一瞬だけ完全に消えた。

 黒田はもはや驚きもせず、ただ静かにその気配の主へと視線を向けた。

 彼の目の前、何もない空間に、あの白い和装の老人が音もなく、いつの間にかそこに立っていた。


『――地上の出来事は全て確認しておるが……。なかなか面白い論争をしておるのう』


 スキル神の声が、疲弊しきった黒田の脳内に直接響き渡った。その声には、嘲笑ではない純粋な好奇心、あるいは古い骨董品を眺めるかのような、どこか楽しげな響きがあった。

「……面白いと?」

 黒田の声には、隠しきれない、そして隠そうともしない剥き出しの棘があった。

「我々人類が、貴方がたのその正体不明な存在の解釈を巡って、血を流さんばかりに愚かな争いを繰り広げているこの様が、面白いとおっしゃるのか」


『うむ。何より……』

 スキル神は、黒田の敵意などまるで春風のように受け流し、穏やかに微笑んだ。

『神の証明か。ワシが誰の化身やら下僕やらで喧嘩してとるのを見て、懐かしい気持ちになったわい』


「……懐かしい気持ち?」

 黒田は訝しげに眉をひそめた。その言葉の意味が、全く理解できなかった。この人類史を根底から覆す未曾有の危機的状況のどこに、懐かしさなどという感傷が入り込む余地があるというのか。


『そうじゃ』

 老人は、まるで遠い昔のアルバムを一枚一枚慈しむようにめくるかのように、目を細めた。

『ワシは今、お主たちの間で「スキル神」と名乗っておるが、もちろんこれは借りの名。この姿もな。あやつもまた然り。これまでもワシらは、数え切れぬほどの名前を持っておったし、数え切れぬほどの姿も持っておった』

 スキル神は、ふわりと空中に腰を下ろした。彼の周囲だけ、物理法則が意味を失っているかのようだった。

『例えばそうじゃな。ある二つの太陽が巡る赤い砂の惑星では、ワシは『沈黙の風』と呼ばれ、あやつは『謳う大地』と呼ばれた。彼らは、風が大地を侵食するのか、大地が風を生み出すのかで、数千年争い続けた』

『またある水の無い結晶生命体の世界では、ワシは『秩序の光』、あやつは『混沌の響き』と呼ばれた。彼らは、光が響きを生むのか、響きが光を屈折させるのかで、互いの結晶体を砕き合った』

『そしてある高度な精神生命体が暮らすガス状の星雲では、ワシは『集合意識』、あやつは『個』そのものと呼ばれた。彼らは、個が集まり意識となるのか、意識が個を夢見るのかという永遠の哲学的問答の果てに、互いに混ざり合い、一つの巨大な狂った意識となって消滅した』


 そのあまりにも壮大で、あまりにも超越的な時間軸と空間軸で語られる言葉に、黒田は完全に言葉を失っていた。

 自分たちが今直面している、この血を吐くような苦悩。人類の存亡を賭けた、この絶望的な戦い。それがこの存在にとっては、何度も、何度も、何度も繰り返されてきた「お約束の展開」の一つに過ぎないというのか。

 黒田の足元が、ぐらりと揺れた。いや、足元だけではない。彼がよすがとしていた人類の歴史、文明、その全ての価値観が根底から崩れ落ちていくような感覚。


『ワシらのような存在を観測した知的生命体の反応の典型じゃな。「あれはかくあるべきだ」「いや、こうであるはずだ」と。自らのあまりに小さな物差しで我らを測ろうとする。そして、自分たちの解釈こそが唯一絶対の真実であると信じ込み、隣人と争い始める。……実に愛おしく、そして実に愚かじゃ』

 スキル神の言葉には、侮蔑はなかった。ただ、絶対的な上位者から下位者へと向けられる、ある種のどうしようもない愛情にも似た憐憫の響きがあった。


「……では……。我々のこの苦しみは……。この戦いは……。貴方がたにとっては、ただの繰り返される茶番に過ぎないと……。そうおっしゃるのか」

 黒田は、絞り出すように言った。

『茶番というには、少々物悲しいのう』

 スキル神は、静かに首を振った。

『ワシらは、ただ観ておるだけじゃ。庭師が庭の木々を眺めるように。ある木は天を目指して真っ直ぐに伸び、ある木は隣の木に絡みつき枯らしてしまう。ワシらはそれを、ただそうかと眺めるだけ。どちらが良いとか悪いとか、そういう物差しはワシらにはない。ただ、ワシは真っ直ぐに伸びようとする木の方が、好みじゃというだけのこと』


 黒田は唇を噛み締めた。自分たちが人類の叡智と理性の象徴として育て上げようとしている神崎勇気やジョシュア・レヴィン。彼らもまた、この存在にとっては数多の庭の木々の中の、ほんの一本に過ぎない。


『まあ、安心せい』

 スキル神が、ふと話題を変えるように言った。

『騒動は、そのうち収まるじゃろ。物語に熱狂するのも飽きるのも、またお主たちのさがじゃからな。……あやつがまた、何かしなければな』


 その、こともなげに付け加えられた一言。

 それが、黒田の麻痺しかけていた危機察知能力を鋭く突き刺した。

 背筋を、冷たいものが走り抜ける。


 ゴクリと、乾いた喉が嫌な音を立てた。

「……何かすると? 邪神はまた何かを企んでいると、そうおっしゃるのですか!?」

 黒田は、思わず身を乗り出していた。今の彼にとって、それは唯一意味のある情報だった。


 スキル神は、そのあまりにも人間的な反応を見て、くつくつと楽しそうに喉の奥で笑った。

『ワシでも、今の人間たちのこの壮大な神学論争を「面白い」と思うておるのだ。あの退屈を死よりも嫌うあやつが、この最高のエンターテインメントをただ黙って指をくわえて眺めているだけで、我慢できるとは到底思えんのう』


「……!」

 黒田の心臓が、警鐘のように激しく鳴った。そうだ、その通りだ。ニューヨークでの、あのあまりにも悪趣味で、あまりにも手の込んだ演出。あれを仕掛けた存在が、この最高の舞台をただの観客として見ているだけで満足できるはずがない。必ず、何か次の「脚本」を用意しているはずだ。


『まあ……』

 スキル神は、立ち上がりかけた黒田を手で制するように続けた。その星々を湛えた瞳に、悪戯っぽい光が宿っていた。


『ニューヨークほどの事ではあるまい。もっと小さい事じゃろ。……安心せい』


 その言葉を最後に、スキル神の姿はすぅっと陽炎のように掻き消えた。まるで、最初からそこには誰もいなかったかのように。

 後に残されたのは、絶対的な静寂と、そして黒田の心に新たに、そしてより深く刻み込まれた巨大な不安だけだった。


「……小さいこと……?」


 黒田は震える声で、その不吉な言葉を反芻した。

 神の尺度で言う、「小さいこと」。

 ニューヨークという都市一つを、7日間地獄の釜に変えることが「大きいこと」なのだとすれば。

 それよりも、「小さいこと」とは一体何を指すのか。

 一つの国か? 一つの街か? あるいは、たった一人の人間か?

 安心など、できるはずがなかった。

 それは安心させるための言葉ではない。それは、次なる悲劇の、あまりにも残酷な予告状だった。

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