第36話 神々の不在証明
ヴァチカンがあの矛盾に満ちた「新たな福音」を世界に提示してから、一ヶ月が経過した。
世界は、熱病に浮かされていた。
超常事態対策室室長、黒田は、自室のモニターに映し出される光景を前に、頭を抱えていた。【プロジェクト・プロメテウス】という、あまりにも壮大で、あまりにも過激な計画の素案を練り上げてはいるものの、それを実行に移すだけの「大義名分」も、「絶望的な必要性」も、まだ世界は共有していなかった。彼はただ、日々悪化していく世界の狂騒を、無力に観測し続けるしかなかった。
熱狂は、キリスト教という一つの器から溢れ出し、全世界のあらゆる信仰を巻き込んだ、壮大な神学論争へと発展していく。
口火を切ったのは、イスラム世界だった。
サウジアラビアのメッカから、最高位のウラマー(イスラム法学者)会議が、全世界のムスリムに向けて厳格なファトワ(宗教令)を発したのだ。
『唯一神アッラーの他に神はなし。かの世界を混乱させる者、すなわち「邪神」とは、コーランが預言する終末の日に現れる最大の偽善者、『ダッジャール(偽メシア)』に他ならない。彼の行う奇跡は全てまやかしであり、信じる者は地獄の業火に焼かれるであろう』
この声明は、シンプルで力強かった。世界中の18億のムスリムにとって、混沌の時代を読み解く明確な指針が示されたのだ。
この動きに黙っていなかったのが、東洋の叡智だった。
インドの聖地バラナシの高名なグル(導師)たちは、ガンジス川のほとりで瞑想を続けた末、一つの「神託」を世界に発信した。
『かの者たちは、対立する二柱の神ではない。宇宙の真理、ブラフマンの異なる顕現である。邪神の混沌は、破壊神シヴァの踊り(ターンダヴァ)であり、世界を次なる時代へと生まれ変わらせるための、聖なる破壊に他ならない。スキル神の秩序は、維持神ヴィシュヌの慈悲である。善悪を超えた偉大なる神々の遊戯、それこそがこの世界の真の姿なのだ』
さらにチベットからは、ダライ・ラマの名代として、高僧たちが声明を発表した。
『かの者たちは、神ではない。彼らもまた、我々と同じく輪廻の輪の中にある、強大な力を持った衆生である。邪神は、仏法を破壊せんとする『天魔』の類であり、スキル神は、仏法を守護する『護法善神』、すなわち帝釈天や梵天の顕現であろう。そして、かの聖女ソーニャは、衆生の苦しみを一身に背負い、自らの犠牲によって我々に法を示された、まさしく『観音菩薩』の化身であった』
キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教。
世界の四大宗教が、それぞれこの未曾有の事態を、自らの「物語」のレンズを通して解釈し、世界に提示し始めた。
最初は、それは多様な価値観として共存していた。
だが、人間の信仰心とは、悲しいかな、極めて排他的な性質を帯びるものだった。
事件は、エルサレレムで起きた。
嘆きの壁で祈りを捧げるユダヤ教徒の集団と、「ここは我らが預言者ムハンマドが昇天した地である」と主張するイスラム教徒の集団が、小競り合いを起こした。
だがその日、一人の狂信者が叫んだ。
「お前たちこそ、偽メシア・ダッジャールに与する者どもだ!」
その一言が、引き金だった。殴り合いが始まり、石が投げられ、やがてはどこからともなく持ち出された銃が火を噴いた。聖地は、一夜にして血で汚された。
その報道をきっかけに、世界中の人々は気づいてしまったのだ。
自分たちが信じる神の物語こそが、「唯一の真実」でなければならない、と。
そこから、世界の転落は早かった。
テレビの討論番組では、世界中の宗教家たちが、前代未聞の罵り合いを繰り広げた。
「スキル神は、我らが主イエス・キリストの再臨の先触れです! 仏陀だのヴィシュヌだの、ありえません!」
「何を言うか! あの超越的な沈黙と観察の姿勢こそ、悟りを開いたブッダの境地そのものではないか!」
「黙りなさい、偶像崇拝者ども! そもそも、あなた方の神は本当に存在するのですか!?」
SNSは、もはや巨大な宗教戦争の戦場と化していた。信者たちは、#うちの神様が最強、#邪神はダッジャール、#シヴァ神マジ卍 といったハッシュタグで互いの教義をこき下ろし、聖典の都合の良い部分だけを切り貼りして、相手を論破した。
やがて、その論争は致命的な問いへと行き着く。
「そもそも、スキル神や邪神は、うちの神様が遣わした下僕か天使か化身なんだけど? お前らの神様、関係なくない?」
もはや、論理も神学もそこにはなかった。
あるのは、ただ自分たちが信じる物語こそが至上であるという、剥き出しの信仰心だけだった。
神々の代理戦争は、いつしか人間たちの滑稽で、そして救いのない「うちのの神様が一番偉い」代理戦争へと、完全にすり替わっていた。
黒田は、対策室でその光景を、死んだ魚のような目で見つめていた。
「……馬鹿げている……」
彼は、吐き捨てるように言った。
人間の叡智を信じようにも、その人間たちが、神の名を借りて、先史時代から何一つ変わらない愚かな縄張り争いを繰り広げている。
「人間とは……。これほどまでに物語を、神を求める、救いようのない生き物なのか……」
黒田の心は、今度こそ本当に折れかかっていた。
そして。
そのあまりにも人間的で、あまりにも滑稽で、あまりにも救いのない全世界規模の宗教大戦を。
全ての元凶である空木零は、自室の安アパートで、腹を抱えて大爆笑していた。
「あーはっはっはっは! 面白い! 実に面白いじゃないか!」
彼は床を転げ回り、涙を流しながら笑い続けていた。
モニターには、真剣な顔で罵り合う宗教家たち、聖地で殴り合う信者たち、そして頭を抱える黒田の姿が、同時に映し出されている。
「僕が何もしなくても! 僕が、ちょっと昔に矛盾した物語の種を蒔いてやっただけで! 君たちは、勝手にここまで壮大で、ここまで馬鹿馬鹿しい戦争を始めてくれるんだから!」
彼は、笑いすぎて苦しくなった呼吸を整えると、モニターに向かって、実に楽しそうに語りかけた。
「うんうん、頑張れ頑張れ! どっちの神様が本物か、よーく見といてあげるからさ! いやあ、人間って本当に最高のエンターテインメントだねえ!」
神は、不在だった。
だが、人々は、その不在の玉座を巡って、血を流し続ける。
空木零の退屈な日常は、今日もまた、人間たちの愚かで愛おしい狂騒によって、完璧に満たされていた。