第32話 神々の観測と人の理
ニューヨークに「奇跡」が起きてから、一週間が経過した。
世界は、その甘美な毒に完全に酔いしれていた。
超常事態対策室の巨大モニターが映し出す光景は、黒田の理解を、そして理性を、日々少しずつ蝕んでいた。画面の中では、完全に再生されたニューヨークが、今や「聖地」として世界中から巡礼者を集めていた。人々は、ソーニャ・ペトロヴァが消えたタイムズスクエアの一角に、花を、祈りを、そして感謝を捧げていた。悲劇の魔王は、いつしか「自己犠牲によって世界を救った聖女」として神格化されつつあった。
何よりも異常なのは、人々の「死」に対する価値観の変容だった。
700万の人間が一度完全に死に、そして完璧に蘇生した。その事実は、人類の歴史に決して消えないバグを埋め込んだ。「死は終わりではないのかもしれない」「強大な存在の気まぐれで、覆るものなのかもしれない」。そのかつてはSF小説の中だけの空想だった概念が、厳然たる事実として世界に認知されてしまったのだ。
自殺率は、世界的に奇妙な現象を見せていた。ある地域では、絶望した人々が「奇跡の再現」を願って集団で命を絶つという、本末転倒な事件が頻発した。またある地域では逆に、人々は死を恐れなくなり、刹那的な享楽に身をやつすようになった。金融市場は、未来予測の不可能性から、かつてないほどの乱高下を繰り返している。社会のあらゆる基盤が、根底から揺らぎ始めていた。
そして何よりも、黒田を苛んでいたのは、邪神に対する世論の評価だった。
当初こそ、ニューヨークをデスゲームの舞台に変えた「悪魔」として非難の対象だった。だがあの完璧な奇跡の後、その評価は完全に逆転した。
『GM_Chaos』の配信サイトは、今や世界最大の宗教団体と化していた。コメント欄には、邪神を「真の救世主」と崇める狂信的な書き込みが、24時間絶え間なく流れ続けている。
『邪神様は、我々に試練をお与えになったのだ』
『ソーニャ様の尊い犠牲は、我々が新たなステージへ進むために必要だったのだ』
『あの地獄があったからこそ、我々は本当の奇跡の価値を知ることができた』
『全ては神の深遠なる御心。我々愚かな人間には、計り知れないだけなのだ』
彼らは、自分たちに都合の良い「物語」を勝手に紡ぎ上げていた。7日間の地獄も、流された血も、ソーニャの悲しみも、全てはこの輝かしい奇跡のための壮大な前振りに過ぎなかったのだと。そのあまりにも自己中心的で、傲慢な解釈が、今や世界のスタンダードとなりつつあった。
対策室の部下たちですら、その空気に少しずつ毒され始めていた。
「室長……。結果的にニューヨークは救われ、死者は一人もいませんでした。これは、もしかしたら我々が考えるような単純な『悪』ではないのかも……」
若手の分析官である佐伯が、恐る恐るそう口にした時、黒田は初めて彼に対して剥き出しの怒りをぶつけそうになった。
違う。断じて違う。
黒田の脳裏には、7日間のあの陰惨な光景が焼き付いて離れなかった。疑心暗鬼にかられ、隣人を魔女として告発する人々。絶望の囁きに、次々と自らの命を絶っていく兵士たち。そして何よりも、たった一人でその全ての罪と悲しみを背負わされ、誰にも看取られることなくこの世界から「消去」された、ソーニャ・ペトロヴァという一人の女性の最後の表情。
あれが、ただのハッピーエンドのための演出だったなどと、断じて思えるはずがなかった。
「……奴は、何がしたかったんだ……」
黒田は、誰に言うでもなく呟いた。彼の執務室には、この一週間で山のように積まれた、世界中のアナリストたちによる「邪神の意図」に関するレポートが散乱していた。
ある者は、「人類に対する壮大な社会実験」だと言った。ある者は、「新たな宗教の創生による世界支配」が目的だと。またある者は、「高度な文明による低レベル文明への、気まぐれな介入」に過ぎないと結論付けていた。
どれも、一理あるように聞こえる。だが、黒田にはそのどれもが的を射ていないように思えた。もっと根源的な、人間の理解を超えた何かがある。あのニューヨークでの一連の出来事には、あまりにも悪趣味で、あまりにも作為的な「物語」の匂いが染み付きすぎていた。
恐怖、絶望、疑心暗鬼、そして悲劇のヒロインの自己犠牲による、完璧な奇跡。その後に残された、罪悪感と後味の悪さ。
なぜ彼は、最後にあの「遺言映像」を見せたのか。ただ奇跡だけを起こして去ることも、できたはずだ。なぜわざわざ、ソーニャの悲しみと、彼女が背負ったあまりにも理不尽な契約を、全世界に公開したのか。
まるで、観客である我々に宿題でも残していくかのように。
考えても、答えは出ない。思考は堂々巡りを繰り返し、黒田の精神を、少しずつ、しかし確実に削り取っていった。
その夜だった。
対策室の全てのモニターが、一斉に砂嵐に変わった。
非常警報が、けたたましく鳴り響く。
「何事だ! 外部からのサイバー攻撃か!?」
「いえ、違います! 回線は全て正常! ですが、全てのデータが……文字化け……いえ、これは……」
部下たちが混乱の極みに陥る中、黒田だけが冷静にその異常事態の中心を見据えていた。
部屋の中央の空間が、歪んでいた。
物理法則が、その場所だけ意味を失っている。空気中に、金色の光の粒子が舞い始めた。それは、ニューヨークに降ったあの「奇跡の光」と同じものだった。
やがて、その光はゆっくりと人の形を成していく。
現れたのは、質素な、しかしシミ一つない白い和装を身にまとった、一人の穏やかな老人だった。
彼の顔には、深い皺が刻まれている。だが、その瞳は、まるで生まれたての星々を無数に湛えているかのように、どこまでも深く、そして若々しく輝いていた。
彼の口は、動いていない。だが、その声は部屋にいる全員の脳内に、直接響き渡った。
それは、声というよりも、意味そのものの奔流だった。
『――そう慌てるでない。お主らに、害を成しに来たわけではないでの』
そのあまりにも超越的な存在感に、誰もが身動き一つできなかった。
黒田だけが、震える唇で問いかけた。
「……貴様……は……。スキル神か……」
老人は、にこりと優しく微笑んだ。
『いかにも。お主たちが、そう呼んでおるものじゃ』
スキル神と名乗った老人は、まるで自分の家の縁側で茶でもすするかのような自然な仕草で、空中にふわりと腰を下ろした。彼の周囲だけ、重力という概念が存在しないかのようだった。
対策室の武装した隊員たちが、恐る恐る銃口を向ける。だが、黒田はそれを手で制した。
無意味だ。この存在の前では、人間の作り出したどんな兵器も赤子の玩具に等しい。それを、肌で、魂で理解したからだ。
「……何のご用ですかな」
黒田は、努めて冷静に問いかけた。
「我々人類を、助けにでも来てくださったのですか。あの邪神とやらから」
その言葉に、スキル神はくつくつと喉の奥で笑った。
『助けるか。ふむ。お主たちの言葉で言えば、そうなるのかもしれんのう。じゃが、ワシはお主たちの言う絶対的な『善』というわけでもない。ただ、ワシはワシの価値基準で動いておるだけじゃ』
「価値基準……」
『そうじゃ。ワシは秩序を好む、成長を好む。混沌の中から理を見出し、積み上げていく、その健気な営みを好ましいと思うておる。じゃから、神崎勇気のような、その理を守ろうとする者に、ささやかな力を与えておるのじゃ』
その言葉は、黒田にとって一つの衝撃的な啓示だった。
スキル神は、人類の味方ではない。彼はただ、人間という種が持つ「秩序を構築しようとする性質」を観測し、それを「良し」としているに過ぎない。
ならば。
「……ならば邪神は……。貴方とは、逆に……」
『うむ』
スキル神は、頷いた。
『あやつは混沌を好む、停滞を嫌う。完成された理が、自らの重みで崩れ落ちていく、その劇的な瞬間を何よりも美しいと思うておる。じゃから、ケイン・コールドウェルのような破壊者に力を与える』
「……まるで、光と影……」
『ふふ。お主たちの好きな、分かりやすい二元論じゃな。じゃが、本質は少し違う。あやつとワシは、敵対してはおらん。ただ、好みが違うだけじゃ。同じ庭を眺めておる、二人の好事家とでも思うておくのが一番近かろう』
庭。
その言葉に、黒田は背筋が凍るような悪寒を覚えた。この地球、この人類社会そのものが、彼らにとってはただの観賞用の「庭」でしかないというのか。
「……お尋ねしたい。単刀直入に、お聞きします」
黒田は、覚悟を決めて核心の問いを口にした。
「ニューヨークでの一連の事件。あれは、一体何だったのですか。邪神は、一体何がしたかったのですか」
その問いに、スキル神は少しだけ遠い目をした。まるで、つい先日の出来事を、何万年も前の神話の時代を思い出すかのように。
『……あやつが、したかったことか』
老人は、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。その声は静かだったが、宇宙の始まりの音のように重く、そして絶対的な響きを持っていた。
『おそらく、あやつは……。人間というものを、測りにかけてみたかったのじゃろうな』
「……測る……?」
『そうじゃ。お主たちという、不可解な生き物の魂の物差しを知りたかったのじゃ』
スキル神は、指を一本立てた。
『まず、あやつはお主たちの「恐怖」と「絶望」の底の深さを測った。魔王という理不尽な脅威を与え、お主たちがどこまで醜く争い、殺し合うかを見た』
彼は、二本目の指を立てる。
『次に、お主たちの「希望」と「目的意識」の高さを測った。魔王という明確な敵を与えることで、お主たちがどれほどの自己犠牲を払い、どれほど気高く死地に赴けるかを見た』
そして、三本目の指。
『さらに、あやつはお主たちの「物語」への依存度を測った。「魔王は悲劇の復讐者である」という、甘美な、しかし偽りの物語を与え、お主たちの倫理観や正義感が、いともたやすくそれに上書きされてしまう様を楽しんだ』
最後に、四本目の指を立てた。
『そして、最後の仕上げじゃ。あやつは、お主たちの「罪悪感」と「欺瞞」の質量を測ったのじゃ。ソーニャ・ペトロヴァという一人の悲劇的な犠牲の上に、完璧な奇跡という免罪符を与える。そのあまりにも出来すぎたハッピーエンドを、お主たちが心の底から本当に受け入れることができるのかどうか。その魂の葛藤を、値踏みしたのじゃ』
黒田は、完全に言葉を失っていた。
全てが、繋がった。あの不可解で、悪趣味な一連の出来事の全てが。
邪神は、ただ見ていたのだ。
様々な極限状況という試薬を、人類というビーカーに次々と投入し、その化学反応をただ楽しんで観測していたのだ。
「……な……。なんという……。我々の命も、悲しみも、喜びも……。全てが、奴の実験のデータでしかなかったというのか……」
黒田が、震える声で呟いた。
そのあまりにも人間的な絶望の言葉に、スキル神は少しだけ不思議そうな顔をした。
そして、心底理解できないという口調でこう言ったのだ。
『何を、そんなに驚いておる?』
『お主らには奇跡に見えようが、死人が生き返ろうが、あやつやワシのような存在からすれば、大したことではないのじゃ。死すら、我らの手の中にある、ただの事象に過ぎん』
『そうじゃな……。お主たちに分かりやすく言うなれば……。粘土をこねて人型を作り、それを一度ぐしゃりと潰して、また新しくこね直す。ワシらにとって、お主たちの生と死とは、その程度の作業でしかないのじゃよ』
その瞬間、対策室の全ての人間が、本当の意味での「神」という存在の恐ろしさを理解した。
それは、慈悲深い父でもなければ、裁きを下す審判官でもない。
ただ、圧倒的な力と圧倒的な時間の中で、退屈を持て余した超越的な観測者。
人間が、アリの巣を眺めるように。
子供が、虫かごの中の虫を眺めるように。
彼らは、ただ我々を眺めている。
そのあまりにも巨大で、あまりにも残酷な真実。
それは、どんな物理的な攻撃よりも、深く黒田の魂を凍てつかせた。
黒田の心に宿った、深い絶望と畏怖。
それを見透かしたかのように、スキル神はふむと頷いた。
『ようやく、理解したようじゃな。お主たちが今立っておる、戦場の本当の姿を』
「……戦場……?」
『そうじゃ。ニューヨークでの一件は、あやつにとってはただの序章に過ぎん。あやつは、あの壮大な茶番劇を通じて、全世界の人間の無意識の奥底に、一つの極めて危険な「物語」を植え付けた』
「危険な、物語……」
『うむ。「悲劇は奇跡を呼ぶ」、「一人の尊い犠牲は世界を救う」、「神の気まぐれは全ての理を超越する」。この甘美で、麻薬のような物語じゃ』
スキル神の瞳が、初めて鋭い光を宿した。
『これから、世界はどうなると思う?』
『人々は、第二、第三のソーニャを探し始めるじゃろう。自らのコミュニティを救うために、誰かを「悲劇の生贄」に仕立て上げようとする者たちが現れる。あるいは、邪神のご機嫌を取るために、より劇的な悲劇を自ら演出しようとする狂信者も生まれよう』
『あやつは、物理的な破壊を望んでおるのではない。お主たち人間が、自らの手で自らの尊厳や倫理観を破壊し、堕落していくその過程こそを、最高のエンターテインメントとして楽しみたいのじゃ』
黒田は、戦慄した。
邪神の本当の狙い。それは、人類社会の内側からの崩壊。
彼が作り出した、「奇跡」という前例。それが、人類にとって最もたちの悪い呪いとなっていたのだ。
「……では、我々は……。どうすれば……。貴方は、我々に何をしろと言うのですか」
黒田は、絞り出すように問いかけた。
「神崎勇気に力を与えたように、我々にも奴と戦う力を……」
『力かね?』
スキル神は、静かに首を振った。
『お主たちは、まだ分かっておらん。この戦いは、力の戦いではない。物語と、物語の戦いなのじゃ』
『あやつが「悲劇と奇跡の物語」を提示したのなら、お主たちはそれとは全く別の、新しい物語を世界に示さねばならん』
「……新しい、物語……」
『そうじゃ。地道で、退屈で、骨の折れる営みかもしれん。じゃが、それこそがお主たち人間の本来の美しさじゃったはずじゃ。奇跡に頼らず、犠牲を前提とせず、ただ対話し、理解し合い、時には傷つけ合いながらも、不完全に一歩ずつ前に進んでいく。その泥臭い物語を、じゃ』
『神崎勇気は、そのための一つの駒じゃ。じゃが、たった一つの駒では、このあまりにも広大すぎる盤面のゲームには勝てん。このゲームのプレイヤーは、お主たち一人一人なのじゃよ、黒田』
スキル神は、ゆっくりと立ち上がった。彼の体が、再び金色の光の粒子へと還っていく。
『ワシは、観測者じゃ。どちらの物語が、よりワシの好みに合うかを、ただ眺めるだけ。じゃが……』
彼は、最後に悪戯っぽく笑った。
『ワシは、ああいう安っぽいご都合主義の奇跡の物語は、あまり好みではないんでのう』
その言葉を最後に、スキル神の気配は完全に消え失せた。
後に残されたのは、鳴り響いていた非常警報が嘘のように止んだ、静寂だけだった。
時間を止められていた佐伯たちが、一斉に動き出す。
「室長! 今、一体何が……!?」
彼らには、何も見えていなかった。黒田が、ただ数分間、虚空に向かって何かをぶつぶつと呟いていただけのようにしか、見えなかったのだ。
だが、黒田の心は、かつてないほど晴れ渡っていた。
絶望は、消えていた。そこにあったのは、鋼鉄のような冷たい、しかし確かな覚悟だった。
敵の正体が、分かった。
戦うべき場所が、分かった。
そして、自分たちが紡ぐべき物語が、分かった。
黒田は、部下たちの方を振り返った。その疲れ切っていたはずの瞳には、再び指揮官としての鋭い光が宿っていた。
「……緊急対策会議を開く。全世界の首脳に通達しろ」
彼の声は穏やかだったが、揺るぎない決意に満ちていた。
「議題は、一つだ」
『――我々人類は、神の奇跡を拒絶する』
「我々は、我々の不完全で泥臭い物語を続ける。そのための、全世界規模での情報統制、及び思想防衛に関する新戦略を立案する。……急げ。我々には、もう感傷に浸っている時間はない」
それは、神に与えられた偽りの楽園を、自らの意志で拒絶するという宣戦布告。
あまりにも無謀で、あまりにも人間らしい戦いの始まりだった。
黒田は、世界地図が映し出されたモニターを睨みつけた。
それは、もはや国家の集合体ではなかった。
神々の退屈を癒すための、巨大なゲーム盤。
そして、自分たちはその盤上の名もなき駒。
だが、駒には駒の意地がある。
脚本家の悪趣味な筋書き通りに、踊るつもりは毛頭なかった。
「……見ていろ、邪神。お前の退屈な物語は……。我々人間が、終わらせてやる」
本当の戦いは、今まさにその幕を開けた。




