第31話 ただ一人を除いた、完璧な世界
序章:沈黙という名のレクイエム
世界から、音が消えた。
ソーニャ・ペトロヴァの遺言映像が途切れた後、後に残されたのは、完全な、そしてあまりにも重い沈黙だった。
ニューヨークの、廃墟と化したタイムズスクエア。生き残った僅かな者たちは、ただ呆然と、魔王が倒れた場所を見つめていた。先ほどまで憎悪と恐怖の対象であったはずの、その亡骸が、今や、巨大な問いとなって彼らの魂にのしかかっていた。
名もなき警官、ジョン・ミラーは、まだ硝煙の匂いが残る拳銃を、力なく下ろした。彼は、街を、人々を、そして家族を守るために引き金を引いた。その行為は、正しかったはずだ。だが、今、彼の心を占めているのは、英雄的な達成感ではなく、底なしの虚無だった。
デビッド・チェンは、失われた片腕の激痛も忘れ、崩れた瓦礫に腰を下ろしていた。彼の信じた論理と理性は、この7日間、何度も打ち砕かれた。そして最後の最後で、彼が打倒すべき「悪」と信じた存在が、自らの死を以て、この街の救済を受け入れていたという事実を突きつけられた。ならば、自分たちが流した血と、仲間たちの死は、一体何だったのか。滑稽な、茶番劇の犠牲者だったとでもいうのか。
マリア・ロドリゲスは、腹部の銃創を押さえながら、静かに涙を流していた。彼女の涙は、助かったことへの安堵からではなかった。彼女は、ソーニャという一人の女性が抱えていた、あまりにも巨大な絶望と、その奥にあった悲しみに、今更ながら、想いを馳せていた。同じ人間でありながら、なぜ、自分は彼女の痛みに、ほんの少しでも、気づいてやることができなかったのだろうか。
その沈黙は、シールドの外でも、同じだった。
あれほど、光の速さで流れ続けていた『GM_Chaos』のコメント欄が、完全に、凍り付いていた。何十億という人間が、同時に言葉を失ったのだ。
彼らは、最高のエンターテインメントを、見ていたはずだった。善と悪がぶつかり合い、最後に善が勝利する、分かりやすい勧善懲悪の物語を。だが、最後に突きつけられたのは、あまりにも苦く、あまりにも複雑な、人間の魂の真実だった。
ソーニャは、怪物ではなかった。彼女は、自分たちと同じ、愛を知り、それを失った、ただの人間だった。
やがて、長い、長い沈黙の後、コメント欄に、ぽつり、と、一つの言葉が浮かんだ。
『…………ごめん』
誰が、誰に、謝っているのか。それは、誰にも分からなかった。だが、その一言を皮切りに、人々は、堰を切ったように、言葉にならない想いを、吐き出し始めた。
『俺たちは、彼女を、殺したんだ』
『違う…俺たちが、彼女を魔王にしたんだ…』
『こんなのって、ないだろ……。あまりにも、救いが……』
『涙が、止まらない。なんでだろう。敵だったはずなのに』
『ソーニャ……』
その時だった。
誰もが、この後味の悪い結末を、ただ受け入れるしかないのだと、思い始めた、まさにその瞬間。
ニューヨークの空が、静かに、そして、厳かに、輝き始めた。
第一章:創世の光、逆再生する世界
それは、どんな光とも違っていた。
朝焼けでも、夕焼けでもない。太陽でも、月でもない。空そのものが、一つの巨大な光源となり、温かく、そして神々しい、黄金色の光を、地上へと降り注ぎ始めたのだ。
人々は、呆然と、その光景を見上げた。
「……なんだ……? 夜明けか……?」
誰かが、呟いた。だが、違う。時間は、まだ昼過ぎのはずだった。
光は、まず、この街の、最も巨大な傷跡へと、触れていった。破壊された、摩天楼の骸。
すると、信じられない光景が、始まった。
崩れ落ち、粉々になっていたビルの壁が、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、宙を舞い、元の場所へと、吸い付いていく。砕け散った窓ガラスの破片が、無数にきらめきながら、一つの巨大なガラス窓へと、再構成されていく。それは、まるで、世界中の時間が、ニューヨークという街だけ、一斉に逆再生を始めたかのようだった。
「……嘘だろ……」
デビッドは、立ち上がった。彼の目の前で、7日間の戦闘で半壊していたエンパイアステートビルが、その優雅な姿を、みるみるうちに取り戻していく。
光は、地上へと降りてくる。
ひっくり返り、黒焦げになっていた黄色いタクシーが、静かに、独りでに起き上がり、そのボディは、傷一つない、新品同様の輝きを取り戻す。アスファルトの、深い亀裂や、無数の弾痕は、金色の光が撫でるだけで、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗に消え去っていく。
散乱していたゴミは、ひとりでに、元のゴミ箱へと収まり、血に染まっていた地面は、そのおぞましい記憶を洗い流されたかのように、清浄な色を取り戻す。
あまりにも、完璧な、物理的修復。
それは、人間の理解を、完全に超越した、神の御業だった。
コメント欄は、先ほどまでの沈黙が嘘のように、再び、爆発的な勢いで流れ始めた。だが、その熱は、以前の狂騒とは、全く質が異なっていた。
『な……ななな、なんだ、これええええええええええ!?』
『時間が……戻ってる!? いや、違う! 再生されてるんだ!』
『これが……邪神の言ってた……「奇跡」……!』
『やばい、やばい、やばい! 鳥肌が、全身から引かない!』
『見てみろ! 自由の女神が! 腕が! 元に戻っていくぞ!』
『神だ……。邪神様は、本当に、神だったんだ……』
人々は、この、あまりにも荘厳で、あまりにも美しい破壊と創造のスペクタクルに、ただ、圧倒されていた。自分たちが、歴史的、いや、神話的な瞬間の、目撃者となっていることを、全身で感じていた。
第二章:生命の凱歌、死者たちの目覚め
だが、本当の奇跡は、これからだった。
物理的な修復を終えた光は、今度は、より柔らかく、より慈愛に満ちた光となって、この街で命を落とした、無数の「死者」たちへと、降り注ぎ始めた。
タイムズスクエアに、積み重なっていた屍の山。
絶望に呑まれ、自ら命を絶った、名もなき市民たち。
最後の抵抗を試み、英雄的に散っていった、兵士たち。
彼らの、冷たくなった亡骸に、聖なる光が、そっと、触れた。
すると、再び、信じられない現象が起きた。
深かったはずの銃創が、まるで傷テープでも剥がすかのように、跡形もなく消えていく。血の気を失い、土気色だった肌に、温かい、生命の色が、ゆっくりと戻っていく。固く閉じられていた瞼が、ぴくり、と動いた。
そして。
「……あれ……?」
最初に起き上がったのは、突入作戦の緒戦で、自決したデルタフォースの兵士だった。彼は、自分の胸や頭に触れ、そこに傷が一つもないことに、信じられない、という顔をしている。
「俺……。死んだ、はずじゃ……」
その光景を皮切りに、奇跡は、連鎖した。
「うわっ!? なんだ!?」
「痛くない……。どこも、痛くないぞ!」
「パパ! ママ!」
一人、また一人と、死者たちが、まるで、長い眠りから覚めたかのように、次々と、起き上がっていく。彼らの顔には、死の苦悶はなく、ただ、状況が理解できない、という、きょとんとした表情が浮かんでいた。
奇跡は、タイムズスクエアだけではない。
市内の、仮設遺体安置所と化した、体育館。そこに並べられていた、何百という亡骸が、一斉に、光に包まれた。シールド設置時のパニックで、圧死した老婆。暴徒に襲われ、命を落とした、若いカップル。彼らもまた、全員が、何事もなかったかのように、むくり、と体を起こした。
その光景を見ていた、市の職員や、ボランティアたちは、腰を抜かし、悲鳴を上げ、そして、次の瞬間には、それが「奇跡」なのだと悟り、ただ、大粒の涙を流して、その場で泣き崩れた。
デビッドの目の前で、先ほど、彼の腕の中で息絶えたはずの、若い部下が、眠そうな顔で、言った。
「隊長……? 俺、ちょっと、変な夢を、見てたみたいです……」
デビッドは、何も言えず、ただ、その部下の肩を、強く、強く、抱きしめた。
コメント欄は、もはや、絶叫と嗚咽の、洪水だった。
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!』
『生き返った……。全員、生き返ったんだああああああああああ!』
『奇跡だ……。本物の、奇跡だ……!』
『邪神様ああああああああ! あんたは、悪魔なんかじゃない! 神だ! 俺たちの、神だ!』
『もう、無理……。涙で、画面が見えない……』
『よかった……。本当によかった……!』
人々は、先ほどまでの、ソーニャへの複雑な感情など、すっかり忘れていた。ただ、目の前で起きている、圧倒的な、生命の賛歌に、心を、魂を、鷲掴みにされていた。これほどの、カタルシスが、あるだろうか。死んだ人間が、全員、生き返る。これ以上に、完璧なハッピーエンドが、あるだろうか。
第三章:完全なる治癒、神の恩寵
だが、神の気まぐれは、まだ、終わらなかった。
死者の蘇生という、最大級の奇跡を終えた光は、その勢いを衰えさせることなく、今度は、生きている人々、一人一人へと、降り注ぎ始めた。
それは、「治癒」の光だった。
「……腕が……。俺の腕がッ……!」
デビッドが、絶叫した。失われたはずの彼の左腕が、その付け根から、光の粒子が集まって、瞬く間に、再構成されていく。骨が、筋肉が、皮膚が、まるで早送り映像のように形成され、数秒後には、完全に、元通りになっていた。彼は、恐る恐る、その新しい腕を握り、開き、そして、それが、寸分違わず、自分の腕であることを、確認した。
マリアの腹部を貫いていた銃創も、痛みもなく、綺麗さっぱりと消え失せていた。
だが、奇跡は、この戦争で負った傷を癒すだけでは、なかった。
ニューヨーク市内の、とある病院。
末期の肝臓癌で、余命宣告を受け、ベッドの上で、ただ、死を待つだけだった老人がいた。彼の体に、窓から、金色の光が差し込んだ。すると、彼の体を蝕んでいた、癌細胞が、まるで雪が解けるかのように、一瞬で、消滅した。数分後、彼は、自らの足でベッドから降り立ち、その、あまりにも健康になった自分の体に、驚愕していた。
特別養護施設。
重度のアルツハイマーで、もう、10年以上、家族の顔も、自分の名前すらも、分からなくなっていた老婆がいた。彼女の脳細胞を、慈愛に満ちた光が、優しく、修復していく。彼女は、ゆっくりと、目を開き、そばにいた介護士の顔を見て、はっきりとした声で、こう言った。
「……あなたは、どなた? 私の、娘の、アンナは、どこにいるの?」
ブロンクスの、小さなアパート。
生まれつき、足が不自由で、車椅子での生活を余儀なくされていた、12歳の少年がいた。彼は、窓の外で起きている、奇跡の光景を、ただ、羨望の眼差しで、見つめていた。
その彼にも、光は、平等に降り注いだ。
彼の、動かなかったはずの足に、温かい、力が、みなぎっていく。
「……え……?」
少年は、何かに導かれるように、車椅子から、立ち上がろうとした。そして……立てた。自分の足で、生まれて初めて、彼は、大地を踏みしめたのだ。
彼は、おそるおそる、一歩、前へと、足を踏み出した。
そして、また、一歩。
やがて、彼は、部屋の中を、走り回っていた。笑いながら、泣きながら、何度も、何度も、その、奇跡の感触を、確かめるように。
怪我も、病も、障害も。
この、聖なる光の前では、全てが、平等に、無に帰した。ニューヨークに滞在していた、全ての人間が、その人生で、最も、完璧で、健康な状態へと、リセットされたのだ。
コメント欄は、もはや、感謝と、祈りの言葉で、埋め尽くされていた。
『神よ…………』
『もう、言葉が、見つからない……。これが、神の愛……』
『ありがとう……。ありがとう、邪神様……。あなたは、僕たちに、本当の奇跡を見せてくれた……』
『この配信は、伝説になる。いや、聖書になるんだ……』
『俺、この日のこと、一生忘れない。そして、子供にも、語り継ぐ……』
人々は、泣いていた。心の底から、感動し、打ち震え、この、完璧すぎる奇跡に、ただ、感謝の涙を流していた。
第四章:ただ一人、その女を除いて
ニューヨークは、生まれ変わった。
7日間の地獄が、まるで嘘だったかのように。いや、7日前よりも、もっと美しく、もっと完璧で、もっと祝福に満ちた街へと。
人々は、路上で、抱き合い、笑い合い、そして、泣きながら、この、第二の生、神から与えられた、あまりにも寛大すぎる恩寵を、分かち合っていた。
誰もが、幸福だった。
誰もが、救われた。
誰もが、赦された。
ただ、一人を除いて。
奇跡の中心地、タイムズスクエア。
デビッドが、マリアが、ジョン・ミラーが、そして、蘇生したばかりの、何百という人々が、見ていた。
あれほど、平等に、全てを、修復し、再生し、治癒していった、あの、聖なる光が。
ただ、一点だけを、避けるように、降り注いでいた。
ソーニャ・ペトロヴァの亡骸。
彼女の体だけが、眉間に、ジョン・ミラーが撃ち込んだ、生々しい銃創を残したまま、冷たいアスファルトの上に、横たわっていた。
周囲の全てが、完璧な世界へと作り変えられていく中で、彼女の存在だけが、この、7日間の地獄が、確かに、現実に起きたことなのだと、証明するかのように、そこにあった。
やがて、全ての奇跡が、終わった。
街は、完全に、再生された。
そして、全ての光が、天へと、還っていく。
最後に、一筋の、細い光が、ソーニャの亡骸に、触れることなく、ただ、その周りを、名残惜しそうに、一回りした。
そして、光が、完全に消え去った後。
ソーニャの亡骸は、修復されるでもなく、蘇生するでもなく、ただ、静かに、足元から、透き通り始めた。
まるで、朝霧が、陽の光に溶けていくかのように。
あるいは、水面に描いた絵が、滲んで消えていくかのように。
彼女の体は、その、深い悲しみを湛えた表情のまま、輪郭を失い、粒子となり、そして、跡形もなく、完全に、この世界から、消滅した。
彼女が存在した証は、彼女が撃ち抜かれた場所に残った、一筋の血痕すら、残らなかった。
ただ、そこにいた、全ての人々の、記憶の中にだけ、その、悲しい魔王の姿は、永遠に、刻み込まれた。
あれほど、熱狂に包まれていたコメント欄に、三度、沈黙が訪れた。
誰もが、理解したのだ。
これが、契約の、最後の条項だったのだと。
『……ああ…………』
『ソーニャ……。彼女だけが……』
『約束、だったんだな……。彼女、一人の、犠牲の上で……。この、完璧な奇跡は、成り立ってたんだ……』
『そんなのって……。そんなのって、あんまりだろ……』
『俺たちが、彼女を殺したんだ。俺たちが、彼女の犠牲の上で、このハッピーエンドを、見てるんだ……』
『泣ける……。でも、今度の涙は、さっきまでとは、全然、違う……』
『ありがとう、なんて、言えない。ごめん、とも、違う。もう、なんて言ったらいいか、分からないよ……』
感動と、感謝と、そして、どうしようもない、罪悪感。
喜びと、悲しみと、そして、魂を締め付ける、後味の悪さ。
観衆たちは、悟った。自分たちは、もはや、安全な場所から、エンターテインメントを消費する、ただの観客では、ない。
この、あまりにも巨大で、あまりにも残酷な物語の、共犯者として、その、重い、重い、十字架を、背負わされてしまったのだ、と。
完全に再生された、美しいニューヨークで、人々が、新しい生の喜びを、爆発させている。
その、喧騒の中心で、デビッドも、マリアも、ジョン・ミラーも、ただ、ソーニャが消えた、何もない空間を、静かに、見つめ続けていた。
彼らの心の中だけで、魔王は、永遠に、生き続ける。
その全てを、日本の安アパートの一室で眺めていた、空木零は、とろりとした半熟の卵が乗った、最高級のトリュフ塩ラーメンを、実に、美味そうに、すすっていた。
「うん、うん。完璧だ。悲劇のヒロインの、崇高な自己犠牲によってもたらされた、完璧なハッピーエンド。そして、そのハッピーエンドを、決して、心から喜ぶことのできない、罪悪感を植え付けられた、愚かな生存者と、観衆たち」
彼は、スープを、最後の一滴まで飲み干すと、心の底から、満足げに、呟いた。
「これ以上に、人間の心を、ぐちゃぐちゃに掻き乱してくれる、最高の物語は、ないよねえ」
神の、退屈な日常は、まだ、始まったばかりだった。




