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第29話 静寂の国の王と、無垢なる者の福音

 七度目の朝が、ニューヨークという巨大な棺を、薄汚れた屍衣のように覆った。

 シールドの内側に閉じ込められた太陽は、もはや希望の象徴ではなかった。それは、腐敗を促進させるだけの、生ぬるい照明に過ぎない。光はあっても、暖かさはない。時間は進んでも、未来はない。それが、この閉ざされた街の、絶対的な法則と化していた。


 最初の狂乱は過ぎ去った。理性を失った獣たちの咆哮は、乾いた血痕となってアスファルトに染み付いている。二日目の醜い内紛、人種や、居住区や、わずかな食料を巡る殺し合いも、今はもうない。人々は学んだのだ。無秩序な暴力は、自らの生存確率を著しく低下させるだけだと。


 皮肉なことに、街は一種の安定を取り戻していた。

 マリア・ロドリゲスが守るロウアー・イースト・サイドの「聖域」。デビッド・チェンが率いる捜索チームが拠点とするクイーンズのコミュニティ。そして、元軍人ジャガーノートが、その圧倒的な暴力で沈黙と秩序を強制するブロンクスの一角。点在する生存者のコミュニティは、この地獄の中で、驚くべき速度で自己組織化を果たしていた。バリケードはより高く、より強固に。食料や医薬品の配給は、軍隊のように厳格で、効率的なシステムが構築されつつあった。


 だが、その静けさは、健全な肉体に宿る安らぎではなかった。それは、致死性の病に冒された患者が、死の直前に見せる、奇妙な凪。その淀んだ水面下で、人々は、より深く、より救いのない病に蝕まれていた。

 その病の名は、「物語」。

 邪神が与えた、「魔王はニューヨークへの復讐者である」という、甘美で悪魔的な物語。


「奴は、5年前にウォール街の不正取引で全財産を失ったらしい」

「あの女の夫は、警察の過剰な暴力で殺されたと聞いたぞ」

「あの一家は、不法移民だ。この国を憎んでいてもおかしくない」


 誰もが、隣人の「不幸」を探し、その「憎悪」の大きさを測り、魔王の烙印を押そうと躍起になっていた。信頼は消え失せ、善意は疑心暗鬼の毒に侵された。もはや、物理的な暴力よりも、その静かな内戦の方が、確実に人々の魂を殺していた。


 クイーンズの作戦本部。かつて、ニューヨークの理性と希望の最後の砦と目されたその場所は、今や巨大な妄想の巣窟と化していた。壁一面に貼られたマンハッタンの地図は、無数の書き込みで黒ずんでいる。それは、魔王の捜索記録ではなく、市民たちの「罪状」のリストだった。


「デビッド! ブルックリンのイタリアン・マフィアのボス、トニー・ガリアーノが怪しい! 奴の息子は、5年前に敵対組織との抗争で死んでいる! 警察はそれを放置した! 奴はニューヨーク市警を憎んでいるはずだ!」

 元刑事の男が、血走った目でデビッド・チェンに迫る。

「馬鹿を言え! 奴が魔王なら、とっくに自分の縄張りの外で【絶望の囁き】を使っているはずだ! もっと巧妙な、社会から疎外された人間だ! 例えば、このリストを見ろ! 3年前にハーレムで起きた、冤罪事件の被害者! 彼は、今も行方不明のままだ!」

 別のメンバーが、分厚いファイルを机に叩きつける。


 デビッドは、その光景を、もはや止める気力もなかった。彼の信じた論理と理性は、邪神の「物語」の前に、あまりにも無力だった。彼は、この数日間で、自らが築き上げたチームが、ただの狂信者の集団へと変貌していく様を、ただ無力に見つめることしかできなかった。

 彼らだけではない。ブロンクスのジャガーノートもまた、同じ病に苦しんでいた。彼の支配する地区では、恐怖による秩序が保たれていた。だが、その恐怖ですら、疑心暗鬼の蔓延を防ぐことはできなかった。部下たちが、互いを監視し、過去を密告し合う。ジャガーノートは、何人かの「魔王候補」を、見せしめに処刑した。だが、その度に、人々の疑念は、さらに根深いものになっていくだけだった。


 この閉鎖された地獄の外では、何十億という「観衆」が、この滑稽で陰惨な魔女狩りを、最高のエンターテインメントとして消費していた。

 配信サイト『GM_Chaos』のコメント欄は、7日目にして、かつてないほどの熱狂を見せていた。


『【速報】魔王候補、新たに3名浮上! 過去の新聞記事から特定!』

『考察班マジ有能www NYPDの汚職事件の被害者、これはかなり有力じゃね?』

『いや、俺はウォール街破産者説を推すね。資本主義への憎悪、これこそが動機として美しいだろ』

『分かる。ただの逆恨みじゃなくて、社会構造への復讐っていうのが、この物語の深いところだよな』

『邪神君、マジで天才的なストーリーテラーだわ。ただの殺し合いじゃなくて、社会派ミステリーに昇華させるとか』

『もうニューヨークがどうなるとか、どうでもよくなってきたw とにかく、魔王の正体が見たい!』

『最終日に、魔王が正体を明かして、感動的な演説ぶちかましてほしいよな。「俺は、この腐った街に復讐する!」みたいな』

『それなwww で、ニューヨーク大爆発エンド! 神映画だろ』

『邪神君! 俺たちのために、最高の最終回を頼むぞ!』

『勝利は目前! 邪神君、万歳!』


 コメント欄は、邪神への賞賛と、魔王の正体に関する無責任な推理で埋め尽くされていた。ニューヨークの700万の命は、彼らにとって、ドラマを盛り上げるための舞台装置でしかなかった。絶望は、最高のスパイス。悲劇は、極上の娯楽。そのあまりにも残酷な現実が、シールドの内と外を、絶望的なまでに分断していた。

 この狂騒の中で、誰が予想できただろうか。

 この膠着し、腐敗した物語を根底から揺るがす一石が、オモチャのミニカーを握りしめた、一人の小さな子供の手によって投じられることになるなどとは。




「あー……。まあ、予想通り、というか。実に順調、というか」


 空木零は、背もたれの壊れたオフィスチェアをギシギシと鳴らしながら、巨大なモニターに映し出された地獄絵図を、心底満足げに眺めていた。

 左のモニターには、疑心暗鬼に駆られ、互いを罵り合うデビッド・チェンの作戦本部。中央のモニターには、邪神を崇拝し、狂った推理ゲームに熱狂するコメント欄。右のモニターには、世界の主要都市のリアルタイム映像。ロンドンも、パリも、北京も、人々はスマートフォンを片手に、ニューヨークという名の連続ドラマに釘付けになっていた。


 全てが、彼の筋書き通りだった。

 彼は、人間という種の、最も脆く、最も滑稽な部分を的確に突いた。それは、「物語」への渇望だ。

 意味の分からない恐怖よりも、理解できる悲劇を。

 無秩序な混沌よりも、秩序だった物語を。

 人間は、どんな絶望的な状況でも、そこに「物語」を見出そうとする。そして、一度、魅力的な物語が与えられてしまえば、現実など、いともたやすく捻じ曲げてしまうのだ。

「魔王は、社会の被害者による復讐者である」

 この、たった一行の物語が、ニューヨークを内側から崩壊させ、全世界を熱狂的な共犯者へと変えた。


「実に、効率的だ。軍隊も、兵器もいらない。ただ、面白い物語を一つ投下するだけで、世界は勝手に自滅へと向かってくれる。コスパ、良すぎでしょ」


 彼は、モニターの片隅に、日本の超常事態対策室の映像を映し出した。そこには、憔悴しきった顔で、部下たちに指示を飛ばす黒田の姿があった。彼は、必死にこの「物語」の構造を分析し、邪神の次の手を読もうとしている。その、あまりに健気で、あまりに無駄な努力に、零は思わず笑みをこぼした。


「黒田ちゃん、まだ頑張るんだ。偉いねえ。でも、残念。君が僕の脚本を読もうとしている時点で、君はもう僕の物語の登場人物なんだよ。脚本家には、なれない」


 零は、未来予知の権能を、ごく軽く、意識の表面にだけ発動させた。彼の脳内に、無数の情報、無数の可能性が、光の奔流となって流れ込む。そのほとんどは、取るに足らない、ありふれた未来。人々が疑い合い、殺し合い、そして時間切れでニューヨークが消滅する、という、彼が最初に設定した「通常ルート」だ。


「うーん、このままだと、ちょっと単調かな。バッドエンドなのは確定として、もう少し、こう、意外性のある展開が欲しいところだよねえ」


 彼は、予知の奔流の中から、一つの、ひときわ異彩を放つ可能性の糸を手繰り寄せた。

 それは、ロウアー・イースト・サイドの、古びた公園。ベンチに座るマリア・ロドリゲス。そして、その足元で、黙々とミニカーを走らせる、一人の小さな男の子。


「……ほう?」


 零の口角が、面白いオモチャを見つけた子供のように、くいっと上がった。

 その子の名は、リオ。母親はサラ。自閉症スペクトラムの傾向があり、言葉でのコミュニケーションは苦手。だが、聴覚が異常に鋭敏で、特定の物事に対する執着と、驚異的な記憶力を持つ。

 そして、彼は「聞いて」いたのだ。この数日間、毎日、決まった時間にだけ、ある特定の廃ビルから発せられる、常人には聞こえない、極めて微弱な、しかし正確な周期を持つ「音」を。


「……なるほどね。伏線、回収のターンか。僕が仕込んだ覚えのない、面白い伏線だ」


 零は、その「音」の正体を瞬時に理解した。それは、魔王サイラス・グレイが、自らのスキル【絶望の囁き】のエネルギーを、外部に漏らさぬよう、極限まで圧縮・制御しているために発生する、特殊な高周波だった。サイラスは、邪神のゲームのルールを逆手に取り、7日間、完全に沈黙を貫くことで、この不条理なデスゲームそのものを、無効化しようとしていたのだ。


「あー、面白い。実に面白い! 僕の作った舞台の上で、僕の意図を完全に無視して、独自の戦いを繰り広げてる奴がいる! しかも、その静かなる抵抗を暴くのが、神でも、英雄でも、名探偵でもなく、誰にも注目されていなかった、言葉もろくに話せない子供だなんて!」


 これだ。これこそ、彼が見たかった、予測不能で、馬鹿馬鹿しくて、そして最高に美しい、人間たちの悪足掻き。


「決めた。今日の主役は、君だ。リオ君」


 零は、配信サイト『GM_Chaos』の管理画面を操作し始めた。彼は、世界中の何十億という観衆の視線を、これから起きる小さな奇跡へと、強制的に誘導する準備を始めた。


「さあ、皆さんお待ちかね! 停滞した物語を動かす、サプライズイベントの時間だよ。主役は、ヒーローでも魔王でもない。名もなき、か弱い子供。これって、一番、みんなが好きな展開でしょ?」


 彼は、楽しそうにキーボードを叩きながら、鼻歌を歌った。これから、世界で最も無垢な魂が、世界で最も残酷な真実の引き金を引くことになる。その喜劇であり、悲劇でもある瞬間に、最高のスポットライトを当てること。それが、彼なりの、ささやかな演出だった。




 ロウアー・イースト・サイドの「聖域」もまた、その名を失いつつあった。

 かつて、そこにはマリア・ロドリゲスという聖女を中心とした、奇跡的な共同体が存在した。人々は肌の色や言語の違いを超えて、助け合い、分け合い、共に生きようとしていた。だが、それも、邪神の「物語」が蔓延するまでの話だった。


 7日目の午後。聖域の中心にあるトムキンス・スクエア公園は、黄昏時の光に包まれていたが、そこに安らぎはなかった。人々は、配給されたわずかな食料を手に、互いに距離を取り、猜疑心に満ちた視線を交わしている。


「マリア……。なぜ、あの家族にだけ、缶詰を一つ多く渡したんだ?」

「彼女の子供は、まだ小さいのよ。栄養が必要だわ」

「俺たちの子供だって、腹を空かせている! 奴らが、不法移民だから贔屓しているんじゃないのか? この国を憎んでいる、同類だから……」


 かつて、マリアを「我らの聖母」と呼んだ男が、今は、まるで汚物でも見るかのような目で彼女を睨みつけていた。マリアは、何も言い返せなかった。言葉が、もはや何の力も持たないことを、彼女は痛いほど理解していたからだ。

 彼女は、疲れ果てて、公園の古びたベンチに深く腰掛けた。もう、何日、まともに眠っていないだろう。肉体的な疲労よりも、信じていた人々の心が、いともたやすく崩れ去っていく様を見続けることの方が、何倍も辛かった。


 その時だった。

 全世界の、何十億というスマートフォンやテレビの画面に、邪神からのポップアップ通知が一斉に表示された。


 GM_Chaos: 『やあ、退屈している皆に、僕からスペシャルイベントのお知らせだよ!』


 コメント欄が、一瞬で爆発した。


『邪神様、降臨!』

『イベントきたああああああああ!』

『なんだなんだ? 魔王の正体、ついに発表か!?』


 GM_Chaos: 『まあまあ、落ち着いて。そんなに急かしちゃ、つまらないじゃないか。今から、僕が指定する場所に、カメラをズームする。ニューヨークの、ロウアー・イースト・サイド。トムキンス・スクエア公園の、東の隅っこ。そこに、今日のキーパーソンがいる。よーく、見ててごらん』


 邪神の言葉通り、配信映像が切り替わり、公園の隅の一角が、ぐっとクローズアップされた。そこに映し出されたのは、ベンチでうなだれるマリアと、その近くの砂場で、一心不乱にミニカーを走らせている、一人の小さな男の子だった。


『は? なんだこのガキ?』

『キーパーソンって、この子どものこと?』

『まさか、こいつが魔王だったりしてwww んなわけないかww』

『子供をダシに使うとか、邪神様、マジで悪趣味で最高だな!』


 観衆たちが、無責任な野次を飛ばす中、マリアの隣に、一人の女性が、おずおずと腰を下ろした。リオの母親、サラだった。


「マリアさん……。あなたも、疲れているのね」

 サラの声は、か細く、怯えに満ちていた。彼女もまた、謂れのない疑いの視線に晒され続けていた。

「ええ……。少しだけ。でも、大丈夫よ、サラ」

 マリアは、力なく微笑んだ。

「何が、大丈夫なものですか。みんな、おかしくなってしまった。昨日まで、隣人だった人たちが、まるで悪魔を探す審問官みたいに……。私たち、もう、どうなってしまうんでしょう」

 サラの瞳から、涙がこぼれ落ちる。

「希望を、捨てないで。きっと、何かが……」

 マリアが、そう言いかけた、その瞬間だった。


 砂場で遊んでいたリオが、ぴたり、とミニカーを動かす手を止めた。

 彼は、小さな顔を上げ、虚空の一点、公園の向かいにそびえる、蔦の絡まった廃墟ビルを、じっと見つめた。

 そして、誰に言うでもなく、呟いた。


「……ピッ……。ピッ……」


 それは、あまりにも小さな、か細い声だった。

 サラは、息子の奇妙な行動に慣れており、気にも留めなかった。

「こら、リオ。変な音を出さないの。さあ、もう帰りますよ」

 だが、マリアは、その言葉を聞き逃さなかった。彼女の、疲れ切った神経のどこかが、その無垢な響きに、鋭く反応した。


「待って、サラ。今の、何?」

「え? ああ、いつものことなんです。この子、時々、誰もいない方を見て、変なことを言うの。気にしないで」


 しかし、マリアは、リオのそばに膝をつき、その小さな瞳を、まっすぐに覗き込んだ。

「リオ。ねえ、教えてくれる? 今の、『ピッ』ていう音は、なあに?」

 リオは、初めて会う人間の接近に、一瞬、体を強張らせた。だが、マリアの瞳に敵意がないことを見て取ると、おずおずと、廃墟ビルを指さした。


「……あの、おうち。まいにち、おひるの、あと。ピッ、て、なくの」

 言葉は、たどたどしい。だが、その瞳に、嘘の色はなかった。

「毎日? 同じ時間に?」

 リオは、こく、こくと、小さく頷いた。

「くるま、ねんねの、おと。しずかな、おと」


 『車が、寝んねの音』。

 意味不明な言葉。だが、マリアの脳裏で、何かが閃光のように結びついた。静かな音。毎日、同じ時間に、同じ場所から聞こえる、周期的な音。それは、ただの子供の空想だろうか?


 この、あまりにも静かで、あまりにも個人的なやり取りを、邪神のカメラは、神の視点から、克明に捉え続けていた。

 コメント欄は、まだ半信半疑だった。


『何言ってんだ、この子? 電波か?』

『自閉症の子っぽいな。幻聴とかだろ』

『いや、待て。邪神様は、この展開を予知して、俺たちに注目させたんだぞ』

『まさか、これが、本当にヒントだって言うのか……?』


 その混乱を、さらに煽るように、邪神が、追撃のコメントを投下した。


 GM_Chaos: 『おっと、ここで重要発言が来たみたいだね! いやあ、未来予知って、本当に便利だなあ。ほら、ヒントは、君たちの目の前に落ちているよ。この、あまりにも純粋で、あまりにも小さな福音の意味。聡明な観衆の君たちなら、もう、分かるよね?』


 邪神の、その一言。

 それは、この子供の発言が、ただの戯言ではなく、このゲームの根幹を揺るがす、決定的な「真実」であることを、全世界に宣言したに等しかった。




 マリアの心臓が、激しく鼓動した。

 邪神が、この子の言葉を「ヒント」だと認めた。それは、この7日間、誰も掴むことのできなかった、魔王へと至る、最初の、そして唯一の糸口だった。

 彼女は、もはや躊躇しなかった。震える手で、懐から無線機を取り出す。相手は、クイーンズのデビッド・チェン。この数日間、彼らの間には、互いの捜査方針への不信感から、冷たい空気が流れていた。


「……マリアか。何の用だ。また、そちらの『聖人候補』の情報でも見つかったのか」

 無線から聞こえるデビッドの声は、皮肉と疲労に満ちていた。

「違うわ、デビッド! 聞いて! ヒントが見つかった! 魔王の、潜伏場所かもしれない!」

 マリアは、必死に、そして簡潔に、リオの証言を伝えた。

 予想通り、デビッドの反応は、冷ややかだった。

「……子供の、戯言だと? マリア、君もついに、おかしくなったか。俺たちは、そんな非科学的な話に付き合っている暇は……」

「邪神が認めたのよ!」

 マリアは、叫んだ。

「邪神が、全世界の配信で、この子の発言がヒントだと、そう言ったの! あなたも、見ているでしょう!?」


 デビッドは、言葉に詰まった。もちろん、彼も作戦本部で、その配信を見ていた。そして、邪神の、あの悪趣味なコメントも。

 子供の証言。周期的な、微弱な音。あまりにも、不確かな情報。

 だが。

 他に、何がある? この数日間、彼らが積み上げてきた、膨大な「魔王候補リスト」は、ただの妄想の産物だった。チームは、崩壊寸前。時間だけが、刻一刻と過ぎていく。

 藁にも、すがるしかなかった。


「……場所を言え」

 デビッドは、吐き捨てるように言った。

「チームを、数名だけ向かわせる。だが、期待はするな。もし、これが空振りだったら……」

「ええ。分かっているわ」

 マリアは、強く頷いた。


 その頃、日本の超常事態対策室でも、激震が走っていた。

 黒田は、巨大モニターに映し出されたリオとマリアのやり取りを、食い入るように見つめていた。

「佐伯君!」

 黒田の鋭い声が飛ぶ。

「今すぐ、全世界の諜報機関、研究機関のデータベースにアクセス! キーワードは、『高周波』、『周期的シグナル』、『スキルエネルギーの隠蔽』! 過去のテロ事例、アルター犯罪の記録と照合させろ! 邪神は、これを『福音』と呼んだ! ならば、そこには必ず、我々が読み解くべき意味があるはずだ!」


 部下たちが、一斉に動き出す。対策室のスーパーコンピュータ『ヤタガラス』が、猛烈な勢いで情報の海を解析し始めた。

 数分後。一人の分析官が、叫んだ。

「室長! ヒットしました! EUで摘発された、精神干渉系スキルを持つテロリスト! 彼は、自らのスキル使用時に発生する微弱なエネルギー波を、特殊な高周波シグナルに変換して相殺、隠蔽していました! そのシグナルパターン……リオ君の言っている『ピッ』という音の周期と、酷似しています!」


 ビンゴだった。

 魔王サイラス・グレイは、テロリストでもないのに、なぜ、その高度な隠蔽技術を知っていたのか。彼が、それほどまでに知的な存在だとでもいうのか。疑問は尽きない。だが、今は、そんなことを考えている場合ではなかった。

 魔王は、いる。そして、その居場所が、今、特定されようとしていた。


 コメント欄は、神の託宣を巡る、一大宗教論争の様相を呈していた。


『うおおおお! マジかよ! あの子の言ってたこと、本当だったのか!』

『鳥肌立った……。邪神様、全てお見通しだったんだな』

『いや、これは邪神の罠だろ! このビルに生存者を集めて、一網打尽にするつもりだ!』

『↑それだ! 魔王と邪神はグルなんだよ!』

『でも、だとしたら、邪神様がわざわざヒントを出す意味がないじゃん?』

『だから、それが面白いんじゃねえか。人間が、自らの希望によって、破滅する姿を見たいんだよ』


 あらゆる憶測が、光の速さで飛び交う。だが、もはや、彼らの議論など、何の意味も持たなかった。

 物語の歯車は、もう、誰にも止められない速度で、回り始めていた。


 デビッドが派遣した、元デルタフォース隊員を含む、精鋭チームが、リオの指さした廃墟ビルに、音もなく到着した。

 突入は、困難を極めた。ビルには、巧妙なトラップが仕掛けられていたわけではない。ただ、もぬけの殻だったのだ。

 だが、チームに同行していた、微弱なエネルギーを探知するスキルを持つアルターが、ついに突き止めた。


「……地下だ。この、コンクリートの床の下……。厚さ、5メートル以上。鉛と、未知の合金で、完全にシールドされている。だが、間違いない。この奥からだ。極めて微弱な、しかし、正確な周期を持つシグナルが……発信されている」


 ついに、魔王の潜伏先が、特定された。

 その報告を無線で受けたデビッドは、しかし、勝利の雄叫びを上げることはなかった。彼は、ただ、作戦本部の椅子に、深く、深く、身を沈めた。

 マリアもまた、リオの小さな手を握りしめながら、空を仰いだ。

 安堵と、それと同時に、これまで感じたことのない、巨大な絶望が、彼らの心を包み込んでいた。

 7日間、彼らを苦しめ続けた、静寂という名の地獄は、終わった。

 だが、それは、希望の始まりではなかった。

 これから始まるのは、本当の地獄。スキルを持つ、本物の「魔王」との、正面からの殺し合いだ。

 そして、その戦いすらも、邪神の書いた、悪趣味な脚本の一部に過ぎない。


 その全てを、日本の安アパートの一室で、高みの見物を決め込んでいる、唯一の絶対的な脚本家。

 空木零は、モニターに映る、ヒーローたちの絶望と、観衆たちの新たな熱狂を、最高のおつまみにして、キンキンに冷えたコーラを呷っていた。


「いやあ、素晴らしい! 実に素晴らしい展開だ!」


 彼の口から、心からの賞賛の言葉が漏れる。


「静寂を貫く魔王、それを暴く無垢な子供、絶望の淵で最後の希望にすがる英雄たち! そして、僕! 全てを見通し、舞台を回す、絶対的な神! うん、役者は、全員揃ったね」


 彼は、食べ終えたカップ焼きそばの容器を、ゴミ箱へと放り投げた。


「さあ、諸君。長かった序章は、これでおしまい。いよいよ、最終幕の始まりだ。主役は、やっと舞台のど真ん中に立つ覚悟を決めたみたいだね。観客の皆も、最後まで、ゆっくりと楽しんでいってくれたまえ」


 空木零は、楽しそうに笑った。

 彼の退屈を癒すための、壮大な遊戯は、今、最も血生臭く、最も残酷で、そして、最も美しい、クライマックスを迎えようとしていた。

 彼が飽きる、その時は、まだ、当分先になりそうだった。

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