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第28話 静寂という名の地獄と、悪魔の囁き

 ニューヨークを覆う巨大なシールドは、もはや街の風景の一部と化していた。その半透明のドームは、変わらずに太陽の光を通すが、その光がもたらすはずの温もりや希望は、もはやニューヨークの地面には届かない。

 街は、奇妙な「静けさ」に包まれていた。

 1日目の、理性を失った暴徒による狂乱。2日目の、人種や地域のエゴがぶつかり合った醜い内紛。それらの激しい嵐は、嘘のように過ぎ去っていた。

 マリア・ロドリゲスが守るロウアー・イースト・サイドの「聖域」、デビッド・チェンが組織した捜索チームの本部があるクイーンズのコミュニティ、そしてジャガーノートが力で平定したブロンクスの一角。それらの抵抗の拠点は、この4日間で、驚くべき速さでその機能性を高めていた。

 バリケードはより強固になり、食料や医薬品の配給システムは、軍隊のように効率化された。無法者たちは鳴りを潜め、人々は、それぞれのコミュニティの中ではあるが、確かな「日常」を取り戻しつつあった。

 だが、その静けさは安らぎではなかった。それは、腐敗した水面のような、淀んだ静寂。その下には、新たな、そしてより深刻な「病」が、音もなく人々の心を蝕んでいた。


「……今日も、なしか」

 クイーンズの作戦本部。デビッド・チェンは、壁一面に貼られたマンハッタンの地図を睨みつけながら、吐き捨てるように言った。地図には、捜索済みのエリアを示す赤い×印が、びっしりと書き込まれている。

 彼の率いる捜索チームは、この3日間、文字通り不眠不休で、魔王「サイラス・グレイ」の痕跡を追い続けてきた。だが、結果はゼロ。

 何一つ、見つからない。

 それどころか、この48時間、魔王によるものと思われる新たな被害報告が、一件も上がってこないのだ。

 あの、聞くだけで精神を破壊するという凶悪なスキル、【絶望の囁き】。その力が、行使された形跡がどこにもない。

 まるで、魔王が最初から存在しないかのように。


「デビッド、みんな限界よ」

 マリアが、疲労の滲む声で言った。彼女は、ロウアー・イースト・サイドから、情報交換のためにこの作戦本部を訪れていた。

「捜索チームのメンバーが、疑い始めているわ。『俺たちは一体、何を探しているんだ』って。誰も死なない、何も起きない。それなのに、命の危険を冒して、無人のビルをしらみ潰しに捜索する。……彼らの気持ちも、分かるでしょう?」

「だが、奴はいるんだ! 邪神は、確かにそう言った!」

 デビッドが机を叩いて声を荒らげる。だが、その声には、以前のような自信はなかった。彼自身もまた、その「病」に蝕まれ始めていたからだ。

 その「病」の名は、疑心暗鬼。


「……なあ、デビッド」

 作戦会議に参加していた元NYPDのベテラン刑事が、重い口を開いた。

「……一つの仮説なんだが。もし……もしだ、最初から『魔王』なんて、いなかったとしたら……?」

 その言葉に、室内の空気が凍り付いた。

 誰もが心のどこかで考えていたこと、しかし、決して口にしてはならなかった最悪の可能性。

「……どういうことだ」

「考えてもみろ。邪神の目的は、俺たちを殺し合わせることじゃないのか? 『魔王を殺せば助かる』、そう信じ込ませて、俺たちに仲間同士で殺し合いをさせる。だが、その『魔王』が存在しないとしたら? このゲームは、絶対にクリアできない。俺たちは、存在しない敵の影に怯え、互いを疑い、やがては自滅する。……それこそが、奴の本当の狙いだったとしたら……」

 その仮説は、悪魔的な、しかしあまりに説得力のある響きを持っていた。

 そうだ、その可能性がある。

 俺たちは、神の掌の上で、滑稽な殺人ゲームを踊らされているだけなのではないか。

 その疑念は、ウイルスのように、一瞬で作戦本部の全員に感染した。

「……じゃあ、俺たちがこの3日間で殺してしまった、あの無実の『サイラス』たちは……」

 誰かが、震える声で言った。

「……ただの、犬死に……?」

「俺たちは、邪神の筋書き通りに、ただ人殺しをさせられていただけ……?」

 もう、誰も何も言えなかった。

 捜索活動は、完全にその意味を失った。何のために? 誰のために? 存在しないかもしれない敵を探して、命を賭けるのか?

 馬鹿馬鹿しい。

 デビッド・チェンは、壁の地図を強く殴りつけた。彼の論理と理性に基づいた捜索は、その土台そのものを失ってしまった。

 ニューヨークの抵抗の灯火は、敵の攻撃によってではなく、自らの内側から生まれた疑念の闇によって、静かに消えようとしていた。


 その内なる崩壊の兆候は、シールドの外でこのデスゲームを観測する、何十億という「観衆」にも伝わっていた。

 ゲーム開始当初の、血に飢えたような熱狂は、鳴りを潜めていた。暴力的なシーンが減り、物語が進展しない「中だるみ」の状況に、観測者たちは退屈し始めていた。

 そして彼らもまた、ニューヨークの内部と、同じ結論に達しつつあった。


 配信サイト『GM_Chaos』のコメント欄。


『……なんか最近、動きなくね?』

『魔王、雑魚すぎ? それとも、もうどっかで野垂れ死んでる?』

『つーか、マジでいんのか? 魔王』

『↑俺もそれ思ってた。これ、壮大なドッキリなんじゃね?』

『邪神の社会実験説、濃厚になってきたな。「人間は、存在しない敵のために、どこまで殺し合いができるか」みたいな』

『だとしたら、エグすぎるだろ……』

『ニューヨークの人たち、可哀想すぎ…』


 奇妙なことに、観衆の間には、同情的なムードすら生まれ始めていた。

 だが、それは本質的な、人道的な同情ではない。それは、自分が楽しみにしていた連続ドラマの展開が、つまらなくなったことへの不満に近かった。

 このまま何も起きずに一週間が過ぎて、ニューヨークが消滅して、終わり。

 そんな、つまらないバッドエンドは、見たくない。

 もっと刺激が欲しい、もっとドラマが欲しい。

 その観衆たちの、無責任で利己的な欲望を見透かしたかのように。

 全ての元凶である邪神が、再びその舞台に降臨した。


 GM_Chaos: 『やあ、皆。なんだか静かになっちゃったね。僕のゲーム、飽きてきたかな?』


 その馴れ馴れしい書き込みに、コメント欄が再び活気づく。


『邪神様! お久しぶりです!』

『飽きたっていうか、魔王がいなきゃ話進まないっすよ!』

『正直に言ってください! 本当は魔王なんていないんでしょ!?』

『そうだ、そうだ! 俺たちを騙したのか!』


 観衆たちは、一転してゲームマスターに、説明責任を求め始めた。

 その傲慢な要求に、邪神は、やれやれといった風に答えた。


 GM_Chaos: 『うーん、僕は嘘はついてないよ。ちゃんと、魔王はいる。今もニューヨークのどこかで息を潜めて、君たちのこの滑稽な足掻きを、笑いながら見てるはずさ』


 その言葉に、コメント欄はさらにヒートアップする。


『じゃあ、なんで出てこないんだよ!』

『ヒント! もっと、分かりやすいヒントをくれ!』


 その貪欲な要求。

 それこそが、邪神――空木零が、待ち望んでいたものだった。

 彼は、タイミングを計っていたのだ。人々の疑念と退屈が、最高潮に達するこの瞬間を。

 そしてそこに、新たな、しかし最も悪質な「物語」の種を蒔く。


 GM_Chaos: 『しょうがないなあ、君たちは。まあ、いいだろう。ヒントだ。……彼、あるいは彼女が、なぜここまで巧妙に潜伏できるのか。それはね……』


 GM_Chaos: 『彼、あるいは彼女は、アメリカという国、というか、このニューヨークという街そのものを、心の底から憎んでいるからだよ。その憎しみは、常人の想像を絶する。だから、これくらいの我慢と潜伏は、なんでもないのさ』


 その新たなヒント。

 それは、これまでとは全く質の違うものだった。

 単なる身体的特徴や名前ではない。それは、犯人の「動機」に言及するものだった。


 GM_Chaos: 『考えてもごらんよ。この華やかで成功者たちが集う街、ニューヨークが、その煌びやかな光の裏で、どれだけの影を生み出してきたか。彼、あるいは彼女が、このニューヨークからどんな理不尽な仕打ちを受けたのかを想像すると……。人間のその悍ましきさがを、考えさせられるよね』


 邪神は続けた。その口調は、まるで悲劇の物語を語る、吟遊詩人のようだった。


 GM_Chaos: 『まあ、だからといって、ニューヨーカー全員を道連れにしていいかと聞かれたら、それはまた違う話なんだけどね。でも、その気持ち、少しだけ分かっちゃう気もしない? 人間って、本当に興味深い生き物だよね』


 その、あまりに悪魔的な共感の言葉。

 邪神は、ただの破壊者ではなかった。

 彼は、魔王を一方的な「悪」として断罪しなかった。

 むしろ、その背景にある「悲劇」を示唆し、同情を誘い、そしてその動機を、「理解できる」とすら言ってみせたのだ。


 その瞬間、ゲームのステージが変わった。

 これは、もはや善と悪の、単純な戦いではない。

 これは、「社会の被害者」による、復讐の物語なのだと。

 観衆たちは、その新たに与えられた深遠な「物語」に、熱狂した。


『うわー……そういうことかよ……』

『魔王、ただのキチガイじゃなくて、復讐者だったのか…』

『ニューヨークに憎しみを持つ人間……。多すぎて、絞れねえええええええ!』

『待て、これ面白いぞ! 邪神様が言ってた「仕打ち」って、具体的に何なんだ?』

『過去の冤罪事件とか、洗ってみるか?』

『ウォール街で、破産させられた奴とか?』

『人種差別で、家族を殺されたとか?』


 コメント欄は、巨大な推理小説の考察サイトへと、その姿を変えた。

 観衆たちは、もはやただの野次馬ではない。彼らは、この悲劇の復讐者の共犯者であり、最も熱心な理解者となっていた。

 彼らは、ニューヨークの暗い歴史を、過去のニュースを、次々と掘り起こしていく。

 そして、無数の「悲劇の主人公」を勝手に見つけ出し、彼らこそが「魔王」ではないかと、無責任な憶測を飛ばし始めた。

 その熱狂は、シールド内部にも伝播した。

 デビッド・チェンたちの統制の取れた捜索本部は、再び機能不全に陥った。

 新たな、そして最もたちの悪い、魔女狩りが始まったからだ。

「あいつは5年前に、警察の誤射で息子を亡くしたらしいぞ!」

「あの女は、ウォール街の金融破綻で全財産を失ったそうだ!」

「彼こそが魔王に違いない! ニューヨークを、憎んでいるはずだ!」

 誰もが、他人の「不幸」を、他人の「憎悪」を、必死に探し始めた。

 善意で人々をまとめていたマリアのコミュニティですら、その疑心暗鬼の毒牙からは逃れられなかった。

「マリア……あなた、不法移民だって噂よ。この国に、何か恨みがあるんじゃないの?」

 かつて彼女を聖女のように慕っていたはずの隣人が、怯えた、そして蔑むような目で、彼女を見る。

 マリアは、言葉を失った。

 信頼は、完全に地に落ちた。

 ニューヨークは、再び混沌の底へと沈んでいった。だが、それは1日目のような、暴力的な混沌ではない。

 もっと静かで、陰湿で、そして救いのない、魂の内戦だった。


 その全ての光景を、日本の対策室で、黒田は見つめていた。

 彼は、もはや怒りすら感じていなかった。

 ただ、途方もない虚脱感と、そして邪神という存在の、底知れない邪悪さに対する純粋な「畏怖」だけが、彼の心を支配していた。

「……佐伯君」

 黒田は、静かに部下を呼んだ。

「邪神が提示した新たな『物語』……。魔王がニューヨークへの復讐者であるというこのストーリー。これを、全世界のAIとスーパーコンピュータを使って、徹底的に分析させろ」

「……分析、ですか? 何を……」

「奴の、狙いだ」

 黒田の瞳には、冷たい、しかし確かな光が宿っていた。

「奴は、我々を試している。この、悲劇の復讐者という甘美な物語に、我々人類がどこまで共感し、酔いしれるかを。……奴は、我々の倫理観のボーダーラインを、探っているんだ」

「……」

「そして、奴は必ず次の手を打ってくる。このゲームが終わった後、この歪んだ物語を全世界の共通認識として利用し、我々の社会を、全く新しい別のステージへと『進化』させるつもりだ。……それが、どんなにおぞましい世界であろうとも」

 黒田は、立ち上がった。

「……神崎勇気君のプログラムは、どうなっている」

「……最終段階に。ですが、彼の精神はもう限界です。これ以上は……」

「続けさせろ」

 黒田は、非情に言い放った。

「感傷に浸っている時間はない。我々は、神が作り出した物語の登場人物であると同時に、次の物語のプレイヤーでもあるのだ。……勝つためには、神のその悪趣味な脚本の、さらに先を読むしかない」

 彼の言葉は、もはや対策室の誰にも、届いていなかったかもしれない。

 だが、彼は分かっていた。

 このニューヨークでの惨劇は、本当の戦いの、序章にすらなっていないということを。

 本当の地獄は、このゲームが終わった、その先にこそ待っているのだということを。


 そして、その全てを高みの見物と洒落込んでいる、唯一の絶対的な観測者。

 空木(うつぎ) 零は、自室で、満足げに頷いていた。

 彼のモニターには、新たな物語に熱狂するコメント欄と、疑心暗鬼に沈むニューヨーク、そして非情な決断を下す黒田の姿が、同時に映し出されている。

 全てが、彼の筋書き通り。

 いや、筋書き以上に、面白い方向へと転がっている。


「うんうん。良いねえ、実に良い。憎悪に理由を与えてやる、悲劇に物語を与えてやる。そうするだけで、人間はこんなにも簡単に踊ってくれるんだから」


 彼は、新しいカップ焼きそばのお湯を捨てながら、楽しそうに鼻歌を歌っていた。

 彼の退屈は、まだまだ満たされそうにない。

 ゲームは、続く。

 彼が飽きる、その時まで。

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