第27話 瓦礫の中の理性と、観測される悪意
邪神による「魔王ゲーム」開始から、24時間が経過した。
ニューヨークは、一夜にして、文明の墓標と化した。昨日の朝まで当たり前だったはずの秩序は、恐怖と疑心暗鬼という名の溶解液によって、跡形もなく溶け去っていた。略奪、暴行、そして、無実の人間が「魔王」の疑いをかけられ、隣人によって命を奪われる「魔女狩り」。その全てが、邪神の用意した配信サイトを通じて、世界中の何十億という観測者の目に、娯楽として焼き付けられていた。
誰もが思った。この街はもう、終わりだと。残された時間は、ただ、より多くの人間が、より醜く死んでいくだけの、残虐なショーに過ぎないのだと。
だが、邪神も、そして世界中の観測者たちも、見誤っていた。
人間の、そのしぶとさを。
瓦礫と絶望の底からでも、芽を吹こうとする、不屈の理性を。
2日目の朝。陽が昇る頃には、街の様相は、昨日とは、僅かに、しかし、確実に変化していた。
マンハッタン、ロウアー・イースト・サイド。元看護師マリア・ロドリゲスの作り上げたバリケードの「聖域」は、一夜にして、この地区における抵抗の拠点となっていた。彼女の元には、武器を持った暴徒だけでなく、助けを求める人々、そして、何かを成したいと願う、志ある人々が集まり始めていた。
「食料は、全員で管理するわ。病人と子供が最優先。異論はないわね?」
マリアの毅然とした声に、集まった数百人の市民は、静かに頷いた。昨日まで、缶詰一つを巡って殺し合いをしていた者たちが、今は、けが人のために自らの毛布を差し出し、子供たちのために、なけなしの水を分け与えている。
そのコミュニティに、一人の男が合流した。元私立探偵、デビッド・チェン。彼は、自らのスキル【失せ物発見】を駆使し、ほとんど奇跡的に、閉鎖された地区内の薬局の、隠された備蓄倉庫を発見していた。
「抗生物質と、鎮痛剤だ。量は多くない。マリアさん、あんたに、管理を任せる」
「……ありがとう、デビッド。あなた、一体どうやってこれを?」
「俺のスキルは、こういう時にしか役に立たないんでね。それより、問題は『魔王』だ。昨日の、邪神のヒント、聞いたか?」
デビッドの言葉に、マリアの顔が曇る。もちろん、聞いていた。
『男だとは限らない』『偽名かもしれない』『移民かもしれない』
その、あまりに悪辣なヒントは、せっかく芽生えかけた人々の信頼関係を、再び、内側から破壊しかねない、猛毒だった。
「ああ、聞いた。おかげで、また、みんなが疑心暗鬼になりかけてる。特に、私のようなヒスパニックや、あなたのようなアジア系は、真っ先に疑いの目で見られる」
「だろうな。だから、俺は提案したい。これ以上、素人による無秩序な捜索は、新たな悲劇を生むだけだ。俺たちで、統制の取れた『魔王捜索特殊チーム』を結成する。元警官、元軍人、この指、とまれだ」
デビッドの呼びかけに、コミュニティの中から、何人もの屈強な男女が、名乗りを上げた。彼らは、もう、恐怖に駆られた暴徒ではない。愛する街と、仲間を守るため、自らの意志で立ち上がった、戦士だった。
ブロンクスでは、「ジャガーノート」が、より直接的な方法で、秩序を形成していた。
彼は、地区のギャングたちを、その圧倒的な力で、一人、また一人と、叩きのめしていった。だが、彼は、彼らを殺さなかった。完膚なきまでに叩きのめし、心を折った後、こう、選択を迫った。
「てめえら、この街で、まだ、クズとして生きたいか。それとも、一度ぐらい、人間のために、その力を使ってみるか。選びな」
恐怖で支配されていたギャングたちは、今や、ジャガーノートへの、絶対的な畏怖によって、統制されていた。彼らは、ジャガーノートの指揮の元、この街の「暴力」を管理する、皮肉な、しかし、最も効果的な「自警団」へと、生まれ変わっていた。
人間の社会とは、不思議なものだ。
極限状態に陥った時、ある者は、獣に還り、ある者は、聖者となる。
ニューヨークは、地獄の中で、自らの力で、新たな、小さな社会を、いくつも、再構築し始めていた。それは、まさしく、ニューヨーカーたちの、そして、人類の「意地」と呼ぶに、相応しい光景だった。
だが、その健気な抵抗を、神は、ただ、嗤って、見ていた。
配信サイト『GM_Chaos』。
邪神が降臨するコメント欄は、新たな展開に、さらなる熱狂を見せていた。
GM_Chaos: 『おっと、ニューヨーカーの意地、ってやつかな? なかなか、どうして。ただ殺し合って終わりかと思ってたけど、意外と頑張るじゃないか。うんうん、実に面白い。人間って、本当に、見ていて飽きないよね』
その書き込みに、観測者たちは、待ってましたとばかりに、コメントを投下する。
『邪神様、見てるー!?』
『人間、意外としぶといっすねwww』
『でも、どうせ無駄でしょ? 魔王、見つかる気配ないし』
『↑それな。ヒントが悪魔的すぎるんだよなー』
観測者たちは、もはや、この惨劇を、自分たちも参加している、インタラクティブなゲームとして、完全に認識していた。彼らは、ニューヨークの市民たちを、応援するチームと、魔王を、応援するチームに、分かれ始めていた。
そして、その日、邪神の悪意は、次の段階へと進んだ。
魔王「サイラス・グレイ」こと、ソーニャ・ペトロヴァ。
彼女は、マリアが築き上げた、ロウアー・イースト・サイドの「聖域」に、物静かな避難民として、巧みに、潜り込んでいた。
彼女は、目立たなかった。誰に対しても、穏やかに接し、率先して、雑用を手伝った。誰も、この、か細い東欧系の女性が、世界を震撼させている「魔王」であるとは、夢にも思わなかった。
だが、彼女は、行動していた。
彼女のスキル【絶望の囁き】は、大声で発する必要はない。彼女が、そこに「いる」だけで、その存在そのものが、人々の心の、最も脆い部分に、ささやかな、しかし、致命的な毒を、流し込むことができた。
それは、食料配給の列で起きた。
缶詰の数を巡って、二人の男が、些細な口論を始めた。日常であれば、すぐに収まるような、小さな諍い。
だが、その近くに、ソーニャがいた。
彼女は、ただ、静かに、その光景を見つめていただけだった。
だが、口論していた男たちの脳内に、直接、「声」が響く。
(……見ろ。あの黒人の男。奴らの一族は、いつもそうだ。自分たちだけ、多くを奪っていく)
(……ああ。あのプエルトリコ野郎。どうせ、裏で、仲間と分け合うつもりなんだろう。汚い奴らだ)
それは、彼らが、心の奥底で、無意識に抱いていた、差別意識や、偏見。スキルは、それを、ほんの少しだけ、増幅させただけだった。
だが、それで、十分だった。
口論は、罵り合いへ、そして、殴り合いへと、一瞬でエスカレートした。そして、それは、周囲を巻き込み、人種間の、集団的な暴動へと、発展していった。
マリアが、必死に止めようとする。だが、一度、疑心暗鬼に火がついた群衆は、もう、誰の声も聞こえなかった。
せっかく、築き上げたはずの、信頼と、秩序。
それが、たった一人の「魔王」の、ささやかな悪意によって、内側から、いとも簡単に、崩壊していく。
GM_Chaos: 『あーあ。せっかく、仲良くやってたのに。残念だねえ。やっぱり、人間って、肌の色や、生まれた国が違うと、すぐに、いがみ合っちゃうんだな。本当に、愚かで、可愛い生き物だ』
邪神は、その様子を、解説するように、コメント欄に書き込んだ。
その書き込みは、観測者たちの、下劣な好奇心を、さらに、煽った。
『うわー、内ゲバ始まったwww』
『人種間闘争とか、リアルすぎるだろ…』
『俺は、ヒスパニック系が勝つ方に賭ける!』
『邪神様、もっとやれ!www』
配信サイトは、もはや、巨大な、電子のコロッセウムだった。観測者たちは、安全な場所から、剣闘士たちの殺し合いを、野次を飛ばしながら、楽しんでいる。
このゲームの、本当の地獄。それは、シールドの中だけではなかった。
それを、観る側、一人一人の、心の中にこそ、あったのだ。
日本の、超常事態対策室。
黒田は、その、あまりに醜悪な光景を、モニター越しに、見つめていた。
その目は、怒りを通り越し、深い、深い、虚無に、沈んでいた。
「……これが、人間か……」
彼は、吐き捨てるように、呟いた。
ニューヨークで、必死に抵抗している人々がいる。その、尊い姿。
だが、その何千倍、何万倍もの人間が、その尊い抵抗を、ただの「見世物」として、消費し、嘲笑っている。
邪神の狙いは、これだったのだ。
人類に、自らの醜さを、直視させること。そして、その醜悪さこそが、人間の本質であると、諦めさせること。
我々は、邪神と戦っているのではないのかもしれない。我々は、我々自身の、心の中にいる、邪神と、戦わなければならないのかもしれない。
「……高坂総理に、繋いでくれ」
黒田は、静かに、受話器を取った。
「議題は、『対アルター特殊部隊の創設、及び、超法的措置の容認』についてだ」
隣にいた佐伯が、息を飲む。
「室長……それは、我々が、法を、超えるということですか」
「そうだ」
黒田は、きっぱりと言った。
「この惨状を、見世物として楽しんでいる、愚かな大衆。そして、それを仕掛けた、邪神。もはや、彼らと同じ、人間のルールで戦っている限り、我々に、勝ち目はない。……正義だの、人権だの、そんな、綺麗事を言っている段階は、とうに過ぎた」
彼の瞳には、かつての、秩序の守護者としての光は、もう、なかった。
そこにあったのは、目的のためなら、自らもまた、悪魔になることを、覚悟した男の、冷たい、決意の炎だった。
「神崎勇気君の、ステージ4プログラム。……予定を、早めろ。彼が、どれだけ苦しむことになろうと、構わん。我々には、時間がない」
「……承知、しました」
佐伯は、唇を噛み締め、深く、頭を下げた。
彼女もまた、理解していた。
この、狂った世界で、正義を貫くためには、時に、誰よりも、非情にならなければならないことを。
2日目の夜の帳が、ニューヨークに、そして、世界に、下りようとしていた。
地獄は、終わらない。
それは、形を変え、深さを増し、ゆっくりと、確実に、人類全体の魂を、蝕んでいく。
そして、その全てを、創造主は、ただ、微笑みながら、見つめている。
次なる、絶望の種を、いつ、どこに、蒔いてやろうか、と考えながら。