第26話 抵抗の灯火と、神の戯言
邪神による「魔王ゲーム」の開幕宣言から、12時間が経過した。
その一日で、かつて世界の中心として栄華を極めた都市、ニューヨークは、人類のあらゆる醜悪さと狂気を凝縮した、生きた地獄へと変貌していた。
シールドに閉ざされた巨大な監獄都市の至る所で、黒煙が上がっていた。それは、恐怖と疑心暗鬼に駆られた暴徒たちが、放火や略奪を繰り返した痕跡だった。市警(NYPD)の機能は、早々に麻痺した。警官たちもまた、一人の人間であり、家族を持ち、そして「魔王」に怯える市民だった。組織的な抵抗は瞬く間に瓦解し、ある者は自らの持ち場を放棄して逃げ出し、ある者は恐怖のあまり、無関係の市民に銃口を向けることさえあった。
「サイラス・グレイ」という、たった一つの名前。それが、この街から、理性と信頼を奪い去った。魔王候補と見なされた人間が、リンチに遭い、命を落とす。その凄惨な光景は、邪神が用意した配信サイトを通じて、全世界にリアルタイムで中継され続けた。
誰もが絶望していた。この閉鎖空間で、法も秩序も失われた世界で、ただ怯え、奪い合い、そして死んでいくだけなのだと。
だが、人類の歴史が証明してきたように、最も深い絶望の中からこそ、最も強い光は生まれる。
マンハッタン、ロウアー・イースト・サイド。
かつては多国籍の文化が入り混じる、活気あふれるエリアだったその一角は、今や、瓦礫と静寂に包まれていた。だが、その中心にある古いレンガ造りのアパートメントだけが、異様な「秩序」を保っていた。
アパートの入り口や窓は、ガラクタや廃材で巧みに組み上げられたバリケードで固められている。その中心に立っていたのは、一人のヒスパニック系の女性だった。
マリア・ロドリゲス。34歳。元・救急救命室の看護師。
彼女のスキルは、【簡易バリケード生成】。ランクはE。地面や壁に手を触れ、そこにある素材(瓦礫、ゴミ、廃車など)を使って、簡易的な障害物を即座に作り上げるだけの、地味な能力だ。
だが、この無法地帯において、その「壁を作る」という能力は、何よりも尊い「聖域」を生み出す力となった。
「みんな、落ち着いて! ここは安全よ! 負傷者はこっちに来て! 子供たちから、水を配ってちょうだい!」
マリアの声は、パニックに陥った人々の心を、不思議と落ち着かせる力を持っていた。彼女は、スキルで作り上げた避難所の中で、元看護師としての知識を総動員し、負傷者の手当てに当たっていた。彼女のその献身的な姿に、人々は、忘れかけていた「理性」と「協力」の精神を取り戻し始めていた。やがて、彼女の元には、同じように他人を助けたいと願う、しかし無力だった人々が、自然と集まり始めた。
クイーンズ、アストリア地区。
そこでは、一人のアジア系の男が、巨大なスーパーマーケットの前で、押し寄せる略奪者たちと対峙していた。
「待ちな。この店の食料は、この地区の住民全員で、公平に分配する。腕ずくで奪おうってんなら、俺が相手になる」
デビッド・チェン。42歳。元・私立探偵。
彼のスキルは、【失せ物発見】。ランクはF。探し物をしている時に、その在処の方向が、ぼんやりと分かるだけの、本当にくだらない能力だった。
だが、彼は、その能力を応用した。この混乱の中で、どこに、まだ手つかずの食料や医薬品が残っているか。どこに、行方不明になった子供が隠れているか。彼のスキルは、人々の命を繋ぐ、細い、しかし、確かな「蜘蛛の糸」となった。彼は、見つけ出した物資を独り占めすることなく、地域のコミュニティに提供し、その分配と警備のシステムを、持ち前の探偵としての交渉術と洞察力で、まとめ上げていた。
そして、ブロンクス。
最も治安が悪化し、ギャングたちがここぞとばかりに暴れ回っていたその地区で、一体の「怪物」が、悪を蹂躙していた。
「ぐあああっ!」
火炎瓶を投げつけようとしたギャングの腕が、ありえない角度に折れ曲がる。屈強な男たちが、まるで巨大な壁にでも衝突したかのように、次々と吹き飛ばされていく。
その中心に立っていたのは、身長2メートルはあろうかという、筋骨隆々の黒人男性だった。彼は、元・消防士。仲間からは、親しみを込めて「ジャガーノート」と呼ばれていた。
彼のスキルは、【限定的な身体硬化】。ランクD。危険を察知した時、身体の一部分だけを、数秒間、鋼鉄のように硬くする能力。
それは、鬼神・鬼頭の【金剛力・不壊】には、遠く及ばない、不完全な防御スキルだった。だが、彼は、長年の消防士としての経験で、いつ、どこが、最も危険かを、瞬時に判断することができた。殴りかかってくる拳に合わせて顔面を、振り下ろされる鉄パイプに合わせて頭頂部を、的確に硬化させる。彼の戦い方は、その絶妙な防御と、元々持ち合わせていた圧倒的なフィジカルを組み合わせた、究極の後出しじゃんけんだった。
彼は、決して自分から攻撃はしない。ただ、悪意を持って自分や弱者に襲いかかる者たちの、その悪意の力そのものを利用して、彼らを無力化していった。彼は、まさに、人々を守る「動く盾」だった。
マリアの「聖域」、デビッドの「秩序」、ジャガーノートの「力」。
彼らのような、名もなき善のアルターたちが、ニューヨークの各地で、まるで示し合わせたかのように、同時に立ち上がった。彼らの活動は、邪神の配信サイトを通じて、瞬く間にシールド内に知れ渡った。
絶望の淵にいた人々は、彼らの姿に、一筋の光を見出した。
人々は、彼らの築いたコミュニティへと集い始めた。無秩序なパニックは、徐々に、組織的な抵抗へと姿を変えていく。ブロックごとに自警団が組織され、食料の配給ルートが確立され、そして、何よりも重要な、「統制の取れた魔王捜索チーム」が、いくつも結成されていった。
もう、無関係の「サイラス」が、リンチに遭うことはない。捜索チームは、デビッドのような情報収集能力を持つ者の指揮の元、冷静に、そして効率的に、魔王の痕跡を追い始めた。
ニューヨークは、死なない。
この街は、この理不尽なデスゲームに、屈したりはしない。
そんな、人間の底力、不屈の魂が、混沌の底から、確かな狼煙となって、上がり始めていた。
その光景を、シールドの外から、固唾を飲んで見守っていた者たちがいた。日本の、超常事態対策室。
「……すごい」
分析官の佐伯が、思わず、といった風に声を漏らした。
「あの地獄の中で……彼らは、自分たちで、秩序を取り戻そうとしている……」
黒田もまた、モニターに映し出された、マリアやデビッドたちの活動を、食い入るように見つめていた。
そうだ。これだ。これこそが、人間の強さだ。どんな絶望的な状況でも、決して諦めない、この、不屈の精神。
彼は、一縷の希望を、感じていた。あるいは、このゲーム、勝てるかもしれない。ニューヨークの人々は、自らの力で、この試練を乗り越えるかもしれない。
スキル神も、邪神も、関係ない。これは、人間の、人間による、尊厳を賭けた戦いなのだ。
黒田の心に、熱いものが、こみ上げてきた。
だが、その、あまりに人間的な希望と感動は、次の瞬間、創造主の、あまりに悪趣味な戯言によって、粉々に打ち砕かれることになる。
邪神が用意した、デスゲームの配信サイト。
その右端に流れるコメント欄が、突如として、異常な速度で流れ始めた。
『運営からのメッセージです』
『運営からのメッセージです』
『運営からのメッセージです』
そして、一つの、運営アカウントと思われる名前から、新たな書き込みが、投下された。
その名前は、『GM_Chaos』。
GM_Chaos: 『おっと、ニューヨーカーの意地、ってやつかな? なかなか、どうして。ただ殺し合って終わりかと思ってたけど、意外と頑張るじゃないか。うんうん、実に面白い。人間って、本当に、見ていて飽きないよね』
その、あまりに軽薄で、全てを見下したような口調。邪神が、降臨したのだ。
コメント欄は、爆発的な熱狂に包まれた。
『邪神様キターーーーーー!』
『GM直々のコメントwwwww』
『見てるーーーー!? 俺のコメント見てるーーーー!?』
GM_Chaos: 『ああ、見てる見てる。君たちのコメント、全部読んでるよ。退屈しのぎには、ちょうど良い』
邪神は、まるで、人気配信者が、視聴者のコメントに答えるかのように、その対話を続けた。
そして、ある一つのコメントに、その目を、留めた。
『面白すぎです笑。邪神様、サービスで、視聴者にだけ、魔王のヒント下さい!』
その、無責任で、残酷な願い。
それに対して、邪神は、こう、返信した。
GM_Chaos: 『うん、いいよ。頑張ってるニューヨーカーたちには、ちょっと、フェアじゃないかもしれないけど……。このゲームを、一番、楽しんでくれているのは、外野の君たちみたいだからね。特別サービスだ』
黒田は、モニターの前で、叫びそうになった。やめろ、と。
だが、その声は、届かない。
GM_Chaos: 『ヒント、その1。皆、魔王「サイラス・グレイ」が、男だと思って、探してるみたいだけど……。それ、思い込みかもしれないよね』
その一言が、投下された瞬間。ニューヨークの、統制を取り戻しかけていた捜索チームの動きが、ぴたり、と止まった。
男だけではない。女性も?
容疑者の数が、単純計算で、倍になった。
GM_Chaos: 『ヒント、その2。そもそも、「サイラス・グレイ」っていうのが、本名とは、限らないんじゃないかな? 例えば、ミドルネームとか、あるいは、昔の、捨てた名前とか。もしかしたら、全くの偽名を名乗って、生活してるのかもね』
シールド内部で、捜索の指揮を執っていたデビッド・チェンは、そのメッセージを、自らのスマホで見て、顔面蒼白になった。
偽名。その可能性を、考えていなかったわけではない。だが、邪神が、それを、公式に認めてしまった。
もう、誰も、信じられない。隣で、共に戦っている仲間ですら、本当の名前を、偽っているかもしれない。
疑心暗鬼の種が、再び、人々の心に、深く、深く、蒔かれた。
そして、邪神は、とどめの一撃を、放った。
GM_Chaos: 『ヒント、その3。ニューヨークって、色々な国から、人が集まってくる、移民の街だろ? 書類なんて、いくらでも偽造できるし、過去を消して、新しい人間として生きるには、もってこいの場所だよね。……つまり、そういうことさ』
その、あまりに、悪魔的なヒント。
それは、もはや、ヒントではなかった。それは、探索範囲を、ニューヨークにいる、全人類へと拡大させる、絶望の宣告だった。
男も、女も、本名を名乗っている者も、そうでない者も、アメリカで生まれた者も、そうでない者も。
誰もが、魔王である可能性が、ある。
せっかく、立ち上がりかけたニューヨークの人々の抵抗の灯火は、邪神の、ほんの数行の戯言によって、いとも簡単に、吹き消されようとしていた。
配信サイトのコメント欄は、さらなる狂乱の渦に包まれた。
『うわー、あくどいwwwww でも、最高wwwww』
『邪神様、ファンサービスが神すぎる!』
『なるほど! 犯人は女で移民で偽名! もう、分かったようなもんだな!』
『これで、また、面白くなってきたじゃん!』
人々は、もはや、画面の向こうで起きている惨劇を、ただの、難解な推理ゲームとして、消費し始めていた。
他人の命が、ただの、エンターテインメントに、成り下がった瞬間だった。
対策室では、誰もが、言葉を失っていた。
黒田は、震える拳を、強く、握りしめていた。
「……これが、奴の狙いか……」
彼は、吐き捨てるように言った。
「ニューヨークを、破壊することですらない。我々、人類の、倫理観そのものを、破壊する。他人の不幸を、死を、娯楽として消費させる。そして、我々自身に、互いを疑わせ、憎ませ、殺し合わせる。……これこそが、奴の、本当の攻撃……」
高坂総理との、極秘回線での会話が、脳裏に蘇る。
『我々は、邪神だけでなく、全世界の「悪意なき悪意」とも戦わなければならんのかもしれんな…』
その通りだった。敵は、邪神だけではない。この、狂ったゲームに熱狂し、無責任なコメントを打ち込み、他人の不幸を消費している、何十億という、この「観測者」たちもまた、紛れもない、敵なのだ。
そして、我々は、そのどちらに対しても、あまりに、無力だった。
黒田の心に、これまで感じたことのない、暗く、そして、冷たい決意が、芽生え始めていた。
このゲームが終わった後、世界は、どうなる?
勝利しても、敗北しても、人々の心には、この、醜悪な記憶が、深く刻み込まれる。もう、元には戻れない。
ならば。
ならば、こちらも、変わるしかない。
既存の正義も、倫理も、国際法も、全てを、かなぐり捨ててでも。
この、悪魔のゲームに、対抗するための、「力」を、手に入れなければならない。
「……佐伯君」
黒田は、静かに、しかし、有無を言わさぬ口調で、部下を呼んだ。
「神崎勇気君の、育成プログラムを、ステージ4へ移行する」
「し、しかし室長! ステージ4は、彼の精神に、回復不能なダメージを与える危険性が……!」
「構わん。やれ」
黒田の瞳には、もはや、迷いの色はなかった。
「怪物と戦うためには、我々もまた、怪物を、育てなければならないのだ」
その言葉は、もはや、正義の守護者のものではなかった。
それは、自らもまた、深淵へと足を踏み入れることを覚悟した、一人の、絶望した男の、決意表明だった。
邪神のヒントによって、再び、疑心暗鬼の闇に突き落とされたニューヨーク。
その地獄絵図を、狂った祭りのように楽しむ、全世界の観測者たち。
そして、非情な決断を下し、自らもまた、悪に染まることを覚悟した、日本の秩序の守護者。
その、全ての光景を、空木 零は、自室のモニターで、見つめていた。
彼の口元には、満足そうな笑みが、浮かんでいた。
ポップコーンの器は、もう、空になっていた。
「うん、良い感じに、かき混ざってきたじゃないか」
彼は、次のキャストを、この、最高の舞台に投入するタイミングを、計り始めていた。
アメリカの、あの、絶対防御の少年は、いつ、動くかな?
日本の、あの、SS級の器は、どんな「怪物」に、育ってくれるかな?
神の、悪趣味な、一人芝居は、まだ、始まったばかりだ。