第2話 箱庭の設計者
影の分身が、灰色の日常へと溶けていった。
玄関のドアが閉まり、無機質なロック音が響く。その音を最後に、空木零の世界から「会社」という概念が、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗に抜け落ちた。
部屋には、彼一人。
残されたのは、圧倒的な静寂と、そして、無限とも思える時間だった。
昨日までの零ならば、この状況を「有給休暇」と呼び、罪悪感と安堵感の入り混じった複雑な心境で、しかし結局は無為に一日を過ごしたことだろう。だが、今の彼は違う。昨日までの彼ではない。
零は、ゆっくりと部屋の中を見渡した。八畳のワンルーム。本棚には数えるほどしか本はなく、クローゼットの中の服はどれも似たような色合い。彼の空虚な内面をそのまま反映したかのような、色のない空間。しかし、今やこの退屈なアパートの一室は、世界の運命を左右する、神の玉座に等しい場所へと変貌していた。
「……さて」
独り言が、やけに大きく響いた。
何から始めようか。
力がもたらした最初の恩恵は「自由」だった。しかし、あまりに広大すぎる自由は、時として人間を途方に暮れさせる。だが、零は途方に暮れなかった。彼の心に渦巻いていたのは、混乱ではなく、冷徹なまでの好奇心と、システムを理解し、最適化しようとする、プログラマーにも似た思考だった。
この力、『スキルを作るスキル』は、あまりに万能で、そしてあまりに漠然としている。まずは、この力の全貌を把握し、完全に自分の管理下に置く必要があった。でなければ、意図しない暴発や、未知の副作用に悩まされるかもしれない。彼は、そういう不確定要素を何よりも嫌う性質だった。
まずは、現状把握だ。
(俺は今、いくつのスキルを持っているんだ?)
根源たる『スキルを作るスキル』と、先ほど作成した『影分身の創造』。合わせて二つのはずだ。だが、それを正確に「数える」手段がない。もし今後、何十、何百とスキルを作った時、それをどうやって管理する?
彼の思考は、自然と「管理ツール」の必要性へと行き着いた。
(スキルを正確に数え、リスト化するスキル。……出来ろ)
心の中で、明確な目的を持って念じる。それは、もはや先ほどのような半信半疑の祈りではなかった。自らの能力に対する、絶対的な信頼に基づいた、明確な「命令」だった。
目の前の空間に、再び半透明のウィンドウが音もなく現れる。
▶ 要求概念:『スキル計量』
▶ 機能分析:保有スキルの自動認識、リスト化、計数。
▶ スキル生成を開始します。
『スキルを作成しました:【スキル一覧】』
ウィンドウの表示が切り替わり、新たに作成されたスキルが即座に発動したのだろう。そこには、彼の望んだ通りの情報が、整然と表示されていた。
▼ 保有スキル一覧(計:3)
1.【スキルを作るスキル】
2.【影分身の創造】
3.【スキル一覧】
「……なるほど」
作成したばかりのスキル自身も、きちんとカウントされている。実に合理的だ。
これで管理の第一歩は踏み出せた。だが、まだ足りない。スキルをただ並べて眺めるだけでは意味がない。それぞれのスキルを、最大限に、効率よく使いこなせて初めて、管理していると言える。自動車のリストを持っていても、運転の仕方が下手では意味がないのと同じだ。
(作ったスキルを、常に100%の効率と精度で使いこなすスキル)
淀みなく、次の命令を心の中で組み立てる。
▶ 要求概念:『スキル習熟度の最大化』
▶ 機能分析:全保有スキルに対する理解度、制御能力を常時100%に固定。
▶ スキル生成を開始します。
『スキルを作成しました:【完全習熟】』
そのスキルが生まれた瞬間、零の脳内に、奔流のような情報が流れ込んできた。それは知識の洪水だった。『スキルを作るスキル』の根源的な構造、『影分身の創造』の概念的な成り立ち、『スキル一覧』の情報表示メカニズム。それら全てが、まるで自分が設計したかのように、掌を指すように理解できた。彼の力は、今や彼の完全な制御下に置かれたのだ。
安堵の息を一つ吐き、零は次の段階へと思考を巡らせる。
管理体制は整った。次は「セキュリティ」だ。
これほどの力が、自分だけに与えられたという保証はどこにもない。もし、自分以外の誰かも同じような力を持っていたら? あるいは、他人のスキルを奪ったり、コピーしたりする能力を持つ者が現れたら?
自分の作り上げた完璧なシステムを、外部の要因で破壊されるのはごめんだった。彼は、自分の領域に他人が踏み込んでくることを、病的なまでに嫌悪した。
(俺のスキルは、絶対に誰にも盗まれない。誰にもコピーされない)
二つの強固な意志が、新たなスキルを形作る。
『スキルを作成しました:【所有権絶対】』
『スキルを作成しました:【概念複製不可】』
これで防御は完璧だ。彼のスキルは、彼だけのもの。誰にも侵されることのない、絶対的な聖域となった。
だが、思考はそこで止まらない。防御を考えれば、必然的に「攻撃」へと行き着く。自分がやられて嫌なことは、相手への有効な攻撃手段となり得る。
(……待てよ。逆に、俺が他人のスキルをコピーしたり、盗んだりすることはできるのか?)
その考えは、彼の心に、暗く、そして甘美な響きをもって広がった。それは、彼の空虚な心を満たす、新しい「玩具」の発見にも似ていた。
『スキルを作成しました:【スキル複製】』
『スキルを作成しました:【スキル強奪】』
立て続けに、二つの強力なスキルが生まれる。使う相手など、今はいない。だが、それでよかった。重要なのは、その「選択肢」を自分が持っているという事実。それが、零に絶対的な安心感と優越感を与えた。
さて、と彼は思う。
自己の能力に関する基盤整備は、これで一旦完了だろう。
次に彼が目を向けたのは、より根源的な、世界の物理法則そのものだった。
きっかけは、些細なことだった。ケトルでお湯を沸かそうとして、その沸騰を待つ数分間が、途方もなく億劫に感じられたのだ。満員電車を待つ時間。信号が変わるのを待つ時間。パソコンが起動するのを待つ時間。彼の人生は、無意味な「待ち時間」で埋め尽くされていた。
もう、待つのはうんざりだ。
(「時間」そのものを、俺の意のままにできればいい)
なんという傲慢で、神をも恐れぬ願いだろうか。しかし、今の彼にとっては、部屋の照明を点けるくらいの感覚で、その願いは形になった。
『スキルを作成しました:【時空制御】』
スキルが生まれた瞬間、世界の「音」が変わった。
いや、実際に音が変わったわけではない。零の知覚が、変容したのだ。彼は、カーテンの隙間から差し込む光の中を舞う、無数の埃の一粒一粒の動きを、明確に認識できた。それらが、あまりにゆっくりと、まるで時が止まったかのように動いている。
彼は、指を一つ鳴らした。
すると、止まっていたかのような埃たちが、猛烈な勢いで動き出し、あっという間に床に落ちていく。時間の「再生速度」を上げたのだ。もう一度、指を鳴らすと、床に落ちたはずの埃が、逆再生の映像のように床から舞い上がり、元の軌道を正確に遡っていく。
時間の停止、加速、逆行。その全てが、彼の意のままだった。
彼は自分の周囲一メートルだけ、時間の流れを外界の千倍に加速させた。ケトルは一瞬で湯気を噴き上げ、彼は悠々とコーヒーを淹れる。世界は、彼の都合に合わせて回るようになった。
コーヒーを一口飲み、次に彼が手慰みにしたのは、机の上のスマートフォンだった。
パスコード、指紋認証、アプリのログイン、煩わしい広告。現代社会は便利さと引き換えに、無数の小さなストレスを生み出した。
これも、もう必要ない。
『スキルを作成しました:【電子世界の神】』
再び、彼の認識が拡張される。
もはや、スマートフォンは物理的な板ではなく、膨大な情報への入り口に過ぎなかった。彼は、触れることなく、世界中のネットワークにアクセスできた。あらゆるサーバーの、あらゆるデータが、彼にとっては開かれた本棚の本と同じだった。銀行の残高を書き換えることも、国家の機密情報を抜き取ることも、指先一つ動かすより簡単だった。
彼は、試しに自分の銀行口座の残高を、天文学的な数字に書き換えてみた。そして、すぐに興味を失って元に戻した。金など、もはや彼にとって何の価値も持たなかったからだ。
そして、最後の仕上げ。
これだけの力を手にした以上、その存在が外部に漏れることは、最大のリスクだった。国家や、あるいは未知の組織が、彼の存在を嗅ぎつけるかもしれない。それは、面倒くさい。
彼は、自分という存在の「痕跡」を、この世界から完全に消し去ることにした。
『スキルを作成しました:【絶対追跡不可】』
そのスキルは、彼の存在そのものを、世界の因果律から切り離した。監視カメラは彼を映さず、サーバーは彼のアクセスログを残さず、誰も彼のことを明確に記憶に留めることができなくなった。彼は、世界の中にいながら、世界の外側にいる、完全なゴーストとなったのだ。
etc., etc...
彼は、まるで子供が新しいおもちゃに夢中になるように、次から次へとスキルを作り続けた。
物理法則を無視して空を飛ぶスキル。あらゆる言語を理解し、話すスキル。傷や病気を一瞬で治癒するスキル。物質を原子レベルで分解し、再構築するスキル。
「……作るの、楽しいな……」
ぽつりと、本音が漏れた。
空っぽだった心が、万能感という名の麻薬で満たされていく。何物にも縛られず、何物にも脅かされない。絶対的な安全圏から、世界を好きなように作り変えることができる。
「これ、なんでも出来るじゃん! いやー……何しようかな」
ひとしきり自分を強化し、満足した彼は、ふと、窓の外に目を向けた。
眼下には、いつもと変わらない街並みが広がっている。人々が蟻のように動き回り、車が血液のように道を流れていく。彼がほんの数時間前まで属していた、平凡な世界。
その光景が、今はひどくちっぽけで、愛おしく、そして……退屈に見えた。
(スキルでも、ばらまいてみようかな)
神の気まぐれ。
そうだ、この面白いオモチャを、自分だけで独占しておくのはもったいない。あの蟻たちに与えたら、一体どんな反応をするだろう? どんな面白い光景を見せてくれるだろう?
彼の心は、壮大な社会実験への期待に打ち震えた。
だが、すぐに新たな問題に直面する。
(でも、弱いスキルを一つ一つ作るのは、面倒くさいな……)
彼の本質は、やはり面倒くさがりだった。人々に与えるための、当たり障りのない、弱いスキル。そんなものを、いちいち自分の手で「創造」するのは、彼のプライドと美学が許さなかった。
ならば、どうするか。
答えは、既に出ている。
(……自動で生成するスキルを作ればいいか)
工場だ。スキルを全自動で、大量に生産する、巨大な工場。それを、自分の頭の中に作ればいい。
『スキルを作成しました:【全自動スキル生成】』
さらに、彼はシステムの根幹を成す、最も重要なルールを定めることにした。
ただ無秩序にスキルをばら撒くだけでは、面白くない。そこに明確な「格差」と「秩序」、そして「絶対的な力関係」を導入してこそ、物語は面白くなる。
(そうだ。スキルに、階級を作ろう。FからSSSそしてEXまでのランク付けだ。そして、上位ランクは、下位ランクに対して、絶対的なアドバンテージを持つ)
それは、この世界の新しい「法則」が生まれる瞬間だった。
『スキルを作成しました:【スキルの階級制度】』
このスキルにより、例えばランクAの火炎魔法は、ランクBの水魔法では絶対に消すことができなくなった。使用者の技量や才能は関係ない。ただ、ランクが全てを決定する。弱者は、強者に絶対に逆らえない。そういう、残酷で、しかし分かりやすい世界。彼が望んだ、観測しやすい箱庭のルールだ。
「よし、これで良いか」
零は、満足げに頷いた。
全ての準備は整った。
彼は、自らのステータスを確認するため、【スキル一覧】を再び表示させる。そこには、彼が今日一日で作り上げた、神々の権能にも等しいスキルのリストがずらりと並んでいた。
彼は、そのリストの一つ一つを、指でなぞるように、丁寧に見つめた。そして、最後の仕上げに取り掛かる。
この世界の絶対的な支配者として、ゲームマスターとして、彼自身の立ち位置を、明確に定義する必要があった。
(俺のスキルは、全部……EXに設定)
その意志が、システムに受理される。
【スキル一覧】の表示が、一斉に更新された。
▼ 保有スキル一覧(計:XX)
1.【スキルを作るスキル】ランク:EX
2.【影分身の創造】ランク:EX
3.【スキル一覧】ランク:EX
4.【完全習熟】ランク:EX
5.【所有権絶対】ランク:EX
6.【概念複製不可】ランク:EX
7.【スキル複製】ランク:EX
8.【スキル強奪】ランク:EX
9.【時空制御】ランク:EX
10.【電子世界の神】ランク:EX
11.【絶対追跡不可】ランク:EX
12.【全自動スキル生成】ランク:EX
13.【スキルの階級制度】ランク:EX
...etc
全てのスキル名の横に、燦然と輝く『EX』の文字列。
それは、彼がこの世界の創造主であり、観測者であり、そして、決して誰にも覆されることのない、唯一絶対の神であることを示す、揺るぎない証だった。
空木零は、静かに笑った。
これから始まる、壮大な実験を、物語を、ただ一人、心待ちにしながら。