第16話 混沌《カオス》の使徒、アメリカに死す
空木 零の「日常」は、今や、神のそれに等しかった。
彼の朝は、世界中で産声を上げた、小さな「善」と「悪」の衝突を観測することから始まる。
彼が設計した通り、ヒーローとヴィランは、互いに、その存在を糧として、成長を始めていた。札幌の「聖女」は、その治癒の力で、末期癌の患者を救うという奇跡を起こし、その徳性共鳴によって、Bランクへと進化を遂げた。パリの「怪盗」は、ルーブル美術館から国宝級の絵画を盗み出すことに成功し、その悪性共鳴によって、同じくBランクへと、その邪悪さを深めていた。
世界は、ゆっくりと、しかし、確実に、彼の望む「物語」の舞台へと、その姿を変えつつあった。
だが、空木零は、退屈していた。
あまりに、展開が、遅すぎる。
日本の鬼頭は、神崎 勇気に敗れて以降、厳重な監視下に置かれ、その力を振るう機会を失っている。勇気自身もまた、政府の「保護」という名の管理下に置かれ、自由な行動を制限されていた。
他の国のヒーローやヴィランも、まだ、互いに牽制し合う、小競り合いの段階に過ぎない。
このままでは、駄目だ。
もっと、大きな「うねり」が必要だ。世界中の悪意を束ね、善意を絶望させるほどの、圧倒的な「悪のカリスマ」。物語における、「魔王」の存在が。
「……探すか。俺の、最高の『駒』を」
零は、電子世界の神の権能を、最大まで解放した。彼の意識は、太平洋を瞬時に越え、アメリカ合衆国の、広大なネットワークへと、侵入する。
彼が求めているのは、ただの犯罪者ではない。
心の奥底まで、純粋な悪意と、歪んだ知性で満たされ、死すらも恐れぬ、完成された精神を持つ人間。そして何より、他者を惹きつけ、支配する、天性のカリスマを持つ者。
そんな人間が、いる場所。
それは、文明社会が、最も忌み嫌い、そして、最も強固に隔離している場所。
――死刑囚監房。
彼の意識は、コロラド州に存在する、連邦最高警備刑務所、通称「ブラックゲート」の、サーバーへと、深く、深く、潜行していった。
そして、彼は、見つけた。
ケイン・コールドウェル。42歳。
表向きは、巧みな話術と、独自の終末思想で、多くの信者を集めた、カルト教団の教祖。しかし、その実態は、信者たちを洗脳し、集団自殺に見せかけて、大量虐殺を行った、史上最悪のサイコパスの一人。
逮捕された後も、一切の反省の色を見せず、法廷で、自らの思想の正当性を、滔々と語り続けたという。その、鋼のような精神は、尋問のプロであるFBIの捜査官ですら、匙を投げるほどだった。
彼は、今、独房の中で、ただ、静かに、その「時」を待っている。
「……見つけた。俺の、ルシファー」
零は、楽しそうに、笑った。
そして、彼は、この「魔王」に謁見するための、新たなアバターを、創造した。
これまで、日本の政府や、勇気の前に現れていた、光を纏う、神々しい「スキル神」の姿ではない。
その対極。
見る者の正気を奪うような、冒涜的な姿。
揺らめく闇そのものでできた、人型の輪郭。背中からは、折れた翼のような影が伸び、その顔があるべき場所には、燃え盛る、二つの赤い光点だけが、浮かんでいる。
彼が、日本の政府に語った、架空の存在。
『混沌を望む者』。
空木零は、今、自ら、その「スキル邪神」の役を、演じようとしていた。
◇
ブラックゲート刑務所、独房棟。
コンクリートと、鋼鉄だけで作られた、無機質な箱の中。
ケイン・コールドウェルは、固いベッドの上に、静かに座っていた。彼は、目を閉じ、瞑想しているかのようだった。しかし、その意識は、驚くほど、クリアに覚醒していた。
その時、彼は、自分の独房の空気が、変わったのを感じた。
温度でも、湿度でもない。もっと、根源的な、空間の「質」そのものが、変異したかのような、異様な感覚。
彼が、ゆっくりと目を開けると、それ、は、いた。
彼の目の前、数メートルの空間に、形容しがたい、闇の塊が、佇んでいた。
常人であれば、その姿を見ただけで、発狂していただろう。
だが、ケインは、驚きも、恐怖も、示さなかった。
彼は、ただ、その赤い二つの光を、静かに見つめ返し、そして、まるで、旧知の友人にでも会ったかのように、穏やかに、口を開いた。
「……ようやく、迎えが来たか」
その反応に、邪神の姿を取る、空木零は、満足した。やはり、見込んだ通りの男だ。
『――やあ、悪の申し子よ』
邪神の声は、複数の男女の声が、不協和音を奏でながら、重なり合っているかのような、聞く者の精神を直接、削り取るような響きを持っていた。
『その、狭い檻を出たいと、思わないかい?』
その、悪魔の誘いに、ケインは、にこり、と、聖者のような笑みを浮かべて、答えた。
「檻の中にいると、思ったことは、一度もない。ここは、私の思索を、完成させるための、静かな聖域だ。……だが、君の誘いには、乗ってやろう。どうやら、外の世界が、私を、必要としているらしいからな」
その時だった。
刑務所の、コントロールルーム。
一人の看守が、監視モニターの、異常な映像に気づき、叫び声を上げた。
「なんだ、あれは!? 独房棟、セクター4、ケイン・コールドウェルの房内に、未確認の、影のようなものが!」
「馬鹿な! 全てのセンサーに、反応はないぞ!」
「とにかく、警報を鳴らせ! SEALチームを、セクター4へ、緊急出動させろ! 急げ!」
けたたましい警報音が、刑務所全体に鳴り響く。重々しい軍靴の音が、廊下に、急速に、近づいてくる。
だが、邪神は、全く、意に介していなかった。
彼は、ケインの前に、その影の手を、差し伸べた。
『良かろう。ならば、汝に、力を与える。汝が、この腐った世界を、真の終末へと導くための、王の力を』
零は、この日のために、特別なスキルを、創造していた。
それは、ただの暴力装置ではない。悪意を束ね、組織を作るための、「王」のスキル。
▶ スキル創造:【王権強奪・賦与】
▶ ランク:S(初期値)
▶ 能力①:【圧倒的暴力・耐久性】鬼頭のそれを、遥かに上回る、Sランクの、絶対的な身体能力。
▶ 能力②:【生命力強奪】触れた相手の、生命力、体力、筋力、そして、スキルそのものを、吸い上げ、自らの力に変換する。
▶ 能力③:【権能賦与】強奪した力の、一部を、自らが認めた他者に、分け与え、忠実な下僕、アルター兵士を、作り出すことができる。
邪神は、その禍々しい指先を、ケインの額に、そっと、触れさせた。
ケインの身体に、黒い稲妻のような、膨大な負のエネルギーが、流れ込んでいく。
ケインは、苦悶の表情を浮かべるどころか、恍惚とした表情で、その力を、受け入れていた。
『さあ、存分に、暴れたまえ。我が、最愛の使徒よ』
その言葉を最後に、邪神の姿は、独房から、すっと、掻き消えた。
それと、ほぼ、同時のタイミングだった。
独房の、分厚い鋼鉄の扉が、外から、爆破された。
完全武装した、十数名の特殊部隊員が、閃光弾を投げ込みながら、一斉に、室内へと、突入してくる。
「動くな! 手を上げろ!」
「撃て! 躊躇うな!」
だが、彼らは、遅すぎた。
ケインは、ゆっくりと、立ち上がった。その身体からは、先ほどまでの、哲学者のような雰囲気は、消え失せていた。代わりに、そこにあったのは、神話の、魔王にも匹敵するような、絶対的な、プレッシャー。
彼は、自分に向かって放たれた、ライフルの弾丸を、ただ、無言で、その胸に、受けた。
銃弾は、彼の皮膚に、何の痕跡も、残すことができなかった。
「……なっ!?」
隊員たちが、驚愕する、その一瞬。
ケインの姿が、消えた。
そして、次の瞬間には、隊列の、ど真ん中に、立っていた。
阿鼻叫喚の、地獄が、始まった。
彼は、ただ、手を振るだけで、屈強な隊員たちの身体を、藁人形のように、吹き飛ばしていく。
そして、生き残った隊員の一人の首を掴み、その目に、赤い輝きを宿しながら、囁いた。
「……お前の力、いただこう」
隊員の身体が、みるみるうちに、干からびていく。その生命力が、ケインの身体へと、吸い上げられていくのが、見えた。
彼は、刑務所を、蹂躙した。
しかし、鬼頭のように、ただ破壊するだけではなかった。
彼は、他の独房の扉を、次々と、破壊していく。そして、中にいた、凶悪な囚人たちに、選択を、迫った。
「――私に、ひざまずけ。さすれば、汝らに、力を与えよう」
ある者は、彼に、生命力を吸い上げられ、塵となった。
そして、ある者は、彼に、ひざまずき、忠誠を誓い、彼から分け与えられた、超人的な力を、その身に宿した。
彼は、わずか一時間にも満たない時間で、難攻不落のはずの、ブラックゲート刑務所を、完全に、制圧した。
そして、何十人もの、超人的な力を持つ、凶悪犯たちを、下僕として、引き連れ、白昼の、コロラドの荒野へと、その姿を、現した。
彼は、集まった、忠実な「信者」たちを、見渡し、そして、高らかに、宣言した。
「――今日、この日、我々は、生まれ変わった。我々は、もはや、人間の法の内に、生きる者ではない。我々は、新たなる時代の、支配者となる!」
「我々は、『終末の使徒』だ!」
悪のカリスマが、産声を上げた。
それは、もはや、一人のアルターではない。
世界で初めて、誕生した、アルターによる、テロ組織。
空木零は、その一部始終を、観測しながら、心の底から、笑っていた。
これで、役者は、揃った。
ヒーローも、魔王も、全て、彼の筋書き通りに、盤上に、配置された。
これから、どんな、血なまぐさい、そして、面白い、物語が、見られるのだろうか。
彼は、神の視点から、世界の、本格的な、崩壊の始まりを、心待ちにしていた。