第15話 神の日常、世界の非日常
あの日、霞が関で繰り広げられた、二柱の「規格外」の激突から、数週間が経過した。
世界は、変わった。
人々の間では、「アルター」や「スキル」という言葉が、日常的に交わされるようになった。テレビでは連日、専門家たちが、この超常現象について、もっともらしい顔で、しかし何一つ本質を突くことのない議論を繰り返している。政府は、内閣官房・超常事態対策室を中核として、アルター犯罪への対策を強化しているが、その対応は、常に後手に回っていた。
世界は、確かに、混沌の様相を呈し始めていた。
だが、その元凶である空木 零の日常は、驚くほど、何も変わっていなかった。
午前七時。
鳴り響くことのないアラーム。彼の身体は、もはや睡眠すら、必須とはしていなかった。だが、長年の習慣とは恐ろしいものだ。零は、その時間になると、自然と意識を浮上させた。
八畳の、散らかったワンルーム。シンクには、昨日食べたカップ麺の容器が、そのままになっている。
彼は、ベッドから起き上がると、まず、自らに付与した《身体最適化》のスキルを使い、僅かな倦怠感をリフレッシュする。そして、電子世界の神の権能を、眠りから覚醒させた。
彼の意識が、部屋から世界へと、一瞬で拡張していく。
目の前に、彼だけが見える、半透明のウィンドウが、何枚も展開された。
それは、神の執務室。世界の全てを観測し、管理するための、彼だけのインターフェース。
メインウィンドウには、リアルタイムで更新される世界地図。その上には、無数の光点が、明滅を繰り返していた。
青い光点は、「善なる者」――彼が、スキル神として、力を与えた者たち。
赤い光点は、「悪なる者」――彼の仕掛けた、悪意の選別・欲望広告によって、力を得た者たち。
光点の数は、この数週間で、爆発的に増えていた。
「ふむ……順調、順調」
零は、満足げに頷いた。
彼の「仕事」は、ここから始まる。
まずは、「善」の仕事からだ。彼は、意識を「スキル神」のモードへと切り替える。
超常事態対策室――黒田たちからは、極秘裏に、善なるアルター候補者のリストが、定期的に送られてくるようになっていた。彼らは、スキル神を、人類の味方だと、固く信じている。その信頼を、零は、実に効率的に利用していた。
「今日の候補者は……と。北海道、札幌市の救急救命士か」
零は、一人の女性のデータを、ディスプレイに大写しにした。
年齢、28歳。経歴、良好。同僚からの評価も極めて高い。『彼女は、自分の身を顧みず、常に要救助者を第一に考える、本物の天使だ』とまで書かれている。
零は、彼女の過去の行動データを、瞬時にスキャンした。非番の日にも関わらず、交通事故の現場で、的確な応急処置を施し、何人もの命を救っている。その行動に、見返りを求める心は一切ない。ただ、純粋な「救いたい」という、強い意志。
「……素晴らしい。実に、素晴らしい『器』だ」
彼女は、まさに、彼が求める「ヒーロー」の素質を持っていた。
だが、零は、最近、彼の遊戯盤に、新たな「ルール」を追加することにした。
ただスキルを与えるだけでは、物語の展開が、緩やかすぎる。もっと、劇的な成長と、それに伴う、劇的な対立が見たい。
(善人であればあるほど、そのスキルは、より強く、より輝く。そういうギミックを仕込もう)
彼は、彼女に与えるスキルを、その場で「創造」し始めた。
彼女の願いは、「癒やし」。ならば、与えるべきは治癒の力だ。
▶ スキル創造:【癒やしの手】
▶ ランク:C(初期値)
▶ 特性追加:【徳性共鳴・限界突破】
▶ 効果:使用者が、利他的、献身的な行動を取り、『徳』を積むほど、スキルのランク及び効果が、飛躍的に向上する。
完璧だ。
このスキルを与えられた彼女は、人を救えば救うほど、その治癒能力を増していく。やがては、かすり傷を治す程度から、瀕死の重傷、果ては、不治の病すらも癒やす、本物の「聖女」へと、成長していくことだろう。
そして、その力は、必ずや、悪意の目に留まることになる。
零は、その日の夜、いつものように、スキル神のアバターを纏い、彼女の夢の中に、降臨した。
そして、大仰な言葉で、彼女の善性を褒め称え、選ばれし者として、世界を救うための力を授けた。
夢から覚めた彼女が、戸惑いながらも、その力を、人々のために使い始める姿を、彼は、満足げに観測していた。
さて、「善」の仕事が終われば、次は、「悪」の仕事だ。
彼は、もう一つのウィンドウを開く。
それは、悪意の選別・欲望広告の、管理コンソール画面だった。
そこには、広告のクリック数、スキル取得率、そして、スキルを取得した悪人たちの、その後の犯罪成功率などが、リアルタイムでグラフ化されていた。まるで、どこかの企業の、マーケティングレポートのようだ。
「……クリック率は、上々。だが、小物ばかりで、いまいち面白みに欠けるな」
FランクやEランクのスキルを得た小悪党たちは、確かに、社会に、ささやかな混乱をもたらしてはいる。だが、それだけだ。鬼頭のような、Aランクの怪物が現れて以降、彼らの存在は、すっかり霞んでしまっていた。
これもまた、物語のバランスが悪い。
零は、善人に与えたスキルと、全く同じ発想を、悪人たちにも、適用することにした。
(悪人であればあるほど、そのスキルは、より邪悪に、より強力に、成長する。……うん、その方が面白い)
彼は、システムに、新たな「パッチ」を当てることにした。
▶ スキル特性の、一括アップデートを実行
▶ 対象:【悪意の選別・欲望広告】によって配布された、全てのスキル
▶ 特性追加:【悪性共鳴・限界突破】
▶ 効果:使用者が、利己的、悪意ある行動を取り、『業』を重ねるほど、スキルのランク及び効果が、飛躍的に向上する。
善と悪。光と闇。
その両輪が、互いに、競い合うように、加速していく。
その方が、衝突した時のエネルギーは、より大きく、より美しい火花を散らすだろう。
零は、そのアップデートが、世界に、どのような変化をもたらすか、いくつかのケースを、リアルタイムで観測し始めた。
ケース1:フランス、パリ。
錠前開錠(ランクF)のスキルを持つ、スリの男。彼は、この数週間で、何十人もの観光客から、財布を抜き取ってきた。その「悪行」が、彼のスキルを、静かに成長させていた。
その日、彼は、ルーブル美術館の、厳重な警備システムの前に立っていた。これまでの彼ならば、手も足も出なかったはずの電子ロック。だが、彼が、ドアに手を触れた瞬間、彼のスキルは、Eランクへと「進化」し、電子錠無効の能力が、新たに付与された。
彼は、やすやすと、美術館への侵入に成功する。
ケース2:アメリカ、シカゴ。
軽度の透明化(ランクF)のスキルを持つ、ハッカーの女。彼女は、その力を使って、ライバル企業のサーバー室に侵入し、機密情報を盗み出すことで、富を得ていた。
彼女が、新たなハッキングを成功させ、敵対企業の株価を暴落させた、その瞬間。彼女のスキルもまた、「進化」した。光線屈折(ランクE)。もはや、ただ姿が見えないだけではない。監視カメラのレーザー光線すらも、その身を透過し、屈折させる。彼女は、より、捕まえにくい幽霊となった。
小さな悪が、成功体験を重ねることで、より大きな悪へと、成長していく。
零は、その光景を、実に、満足げに眺めていた。
彼の作ったシステムは、完璧に機能していた。
そして、彼は、ある一つの都市に、特に注目していた。
日本の、福岡。
そこでは、彼の仕込んだ「善」と「悪」が、まさに、今、衝突しようとしていた。
「善」の駒は、一人の、引退した老刑事。長年、地域の安全のために尽くしてきた彼は、その強い正義感から、零によって、守護者の縄張り(ランクE)というスキルを、与えられていた。自分の愛する町で起きた犯罪を、直感的に察知できる能力だ。
「悪」の駒は、一人の、若いチンピラ。彼は、広告から、壁抜け(ランクF)のスキルを得て、空き巣を繰り返していた。そして、その悪行によって、彼のスキルもまた、Eランクへと進化。より分厚い壁を、より長く、すり抜けられるようになっていた。
その夜、チンピラは、とある資産家の豪邸に、忍び込んでいた。
だが、その不法侵入の「気配」を、老刑事のスキルが、正確に捉えていた。
老刑事は、現場へと急行する。
二人は、豪邸の庭で、対峙した。
「……そこまでだ、若いの」
「ちっ、うぜえジジイだな。見ての通り、俺は壁を抜けられる。お前に、俺は捕まえられねえよ」
チンピラは、嘲笑い、壁の中へと、その身を消そうとする。
だが、老刑事は、慌てなかった。彼は、この町を知り尽くしている。この豪邸の構造も。
「……そっちの壁の向こうは、行き止まりの、コンクリートの地下室だ。好きなだけ、そこにいるといい」
「なっ……!?」
老刑事は、チンピラが、壁から出てこざるを得ない、唯一の出口で、静かに、待ち構えた。
力と力のぶつかり合いだけが、戦いではない。
零は、その光景を、実に、興味深そうに、観測していた。
「……面白い。実に、面白いじゃないか」
彼の世界は、今や、無数の、小さな物語で、満ち溢れている。
ヒーローが生まれ、ヴィランが生まれ、そして、彼らが、衝突する。
その衝突によって、彼らは、互いに、成長していく。
善は、善行によって、より強く。
悪は、悪行によって、より邪悪に。
その戦いが、加熱すればするほど、彼の遊戯盤は、より刺激的に、より面白くなっていく。
空木 零は、椅子の背もたれに、深く、体を預けた。
モニターには、世界中で、今、まさに、産声を上げようとしている、無数の戦いの兆候が、きらめいていた。
彼は、その全てを、一度に、視界に収める。
神の視点。
この、壮大で、残酷で、そして、どこまでも、彼一人のためだけの、エンターテインメント。
彼は、心の底から、満足していた。
日常は、続く。
彼の、神としての、退屈で、そして、最高に刺激的な、日常が。




