第14話 神の宣誓
空間が、捻じれた。
神崎 勇気は、人生で初めて、テレポートという非科学的な現象を、その身をもって体験していた。一瞬の浮遊感と、全身が光の粒子に分解され、次の瞬間には再構築されるという、理解を超えた感覚。
彼が再び、固い床の感触を足裏に感じた時、目の前に広がっていたのは、先ほどまでの硝煙の匂いが立ち込める事件現場とは、全く異なる光景だった。
天井まで届く、巨大な本棚。磨き上げられた、マホガニーの一枚板で作られたであろう、重厚な執務机。床には、一歩踏み出すごとに足が沈むような、深紅の絨毯。そして、部屋の隅に厳かに掲げられた、金色の刺繍が施された日章旗。
そこは、紛れもなく、日本の政治の中枢――総理大臣官邸の、執務室だった。
そして、その部屋には、テレビや新聞で何度も見たことのある顔ぶれが、揃っていた。
内閣総理大臣、高坂 啓介。
常に冷静沈着な表情を崩さない、内閣官房長官。
そして、先ほど現場で彼に詰問してきた、鬼気迫る表情の男、黒田。
彼らは皆、突然、自分たちの目の前に現れた、勇気と、そして、その隣に静かに佇む、人ならざる存在――スキル神を見て、息を飲んでいた。その顔には、驚愕、畏怖、そして、ほんの僅かな敵意が浮かんでいた。
「……ようこそ、と言うべきか。スキル神、と、お呼びすればよろしいかな」
最初に沈黙を破ったのは、高坂総理だった。彼は、長年の政治家人生で培った胆力で、目の前の超常的な存在を、真っ直ぐに見据えていた。その声は、緊張で硬質化してはいたが、震えはなかった。
スキル神――そのアバターを操る空木 零は、その様子を、フードの奥から、冷ややかに、そして面白そうに観察していた。
流石は、一国のリーダー。この状況でも、対話を試みようとするか。面白い。実に、面白い。
「うむ。好きに呼ぶが良い」
スキル神は、尊大な、しかし、どこか遠い響きを持つ声で答えた。
「それで? 人間たちの王よ。ワシに、何を聞きたい」
「全て、だ」
高坂総理は、きっぱりと言った。
「我々は、この一週間、何が起きているのか、理解できずにいた。だが、今、その元凶、あるいは、少なくとも、その中心にいるであろう、あなたが、我々の前に現れた。……説明を、お願いしたい。単刀直入に聞こう。この、世界中で起きている、アルターの出現……スキルとやらは、全て、あなたの仕業なのか?」
その問いに、室内の全員が、固唾を飲んだ。
スキル神は、ゆっくりと、首を横に振ったように見えた。
「半分は、正解。そして、半分は、間違いじゃ」
そして、空木零が、この日のために用意した、壮大な、そして、あまりに都合の良い「嘘」が、語られ始めた。
「ワシは、スキルを配る神。それは、違いない。じゃが、ワシが力を与えるのは、心正しき、善なる魂を持つ者だけじゃ。この少年、神崎勇気のように、の」
スキル神は、勇気の肩に、そっと手を置いた。勇気は、びくり、と身体を震わせたが、その手からは、不思議な温かさが伝わってくるようだった。
「では、あの『鬼神』――鬼頭丈二のような、悪意の塊のようなアルターは、一体どこから現れたというのだ」
黒田が、鋭く切り込む。
スキル神は、天を仰ぐような仕草をした。その姿には、深い悲しみが宿っているように、見えた。
「……それこそが、ワシが、こうして、人間の前に姿を現した理由。そして、この世界が、今、直面している、最大の危機。……悪人に、スキルを渡しておる、別の『何か』がおるのじゃ」
「……別の、何か、だと?」
「うむ。ワシらは、そやつを、こう呼んでおる。『混沌を望む者』、あるいは、ただ、あやつ、と」
あやつ。
その、古風で、どこか不気味な響きを持つ言葉に、その場にいた全員の背筋が、ぞくり、と粟立った。
空木零は、完璧な物語を、紡ぎ続ける。
「あやつは、ワシと同じ、スキルを創造し、与える力を持つ。じゃが、その目的は、ワシとは、真逆。ただ、この世界が、混乱し、人々が争い、絶望に沈んでいく様を、楽しむためだけに、その力を使う。悪意。それも、純粋で、何の目的もない、ただ、そこにあるだけの、絶対的な悪意の塊。それが、あやつじゃ」
「……神々の、戦い、とでも、言うのか」
高坂総理が、絞り出すように言った。
「戦い、というには、あまりに、ワシの分が悪すぎる」
スキル神は、自嘲気味に言った。
「それ故、ワシは、こうして、人間たちの中から、あやつの駒と戦えるだけの、力を持つ者を探し、スキルを配布しておるのじゃ。それが、ワシが、今、この世界で、かろうじて行っている、『抵抗』じゃよ」
なんと、完璧なストーリーだろうか。
自分を、人類の味方、善の神として位置づけ、全ての罪を、架空の「悪の神」になすりつける。
そして、自分が行う、今後のスキル配布(実験)を、「人類を救うための、やむを得ない行為」として、正当化する。
人間たちが、最も好み、最も信じやすい、単純な二元論。光と闇。善と悪。
案の定、その場にいた人間たちは、その衝撃的な「真実」に、完全に思考の主導権を奪われていた。
「……だが、それならば、なぜ、悪人のアルターばかりが、こうも目立つのだ。あなたの言う、善なるアルターは、この少年が現れるまで、我々は、一人も確認できていなかった」
黒田が、最後の理性を振り絞り、最もな疑問をぶつける。
空木零は、それすらも、想定内だった。
「追いつかんからじゃよ」
スキル神は、きっぱりと言った。
「あやつは、無秩序に、悪意の兆候がある者なら、誰彼構わず、力をばら撒いておる。先ほどの広告のようにな。じゃが、ワシは、そうはいかん。力を与えるに値するか、その魂が、力に飲まれぬだけの強さを持つか、一人一人、その者の素行、過去、未来に至るまで、慎重に調査してからでなければ、スキルは渡せん。そんなことをすれば、第二、第三の鬼頭を生み出すだけじゃからな。故に、どうしても、数が、間に合わんのじゃ」
なんという、説得力だろうか。彼は、自らの「面倒くさがり」という性質すら、もっともらしい「善性」に、すり替えてみせた。
そして、彼は、この神話を、さらに補強するための、新たな「設定」を、開示した。
「……それに、そもそも、スキルを受け取るには、相応の『器』が必要なのじゃ」
「器?」
「うむ。スキルとは、いわば、超高濃度のエネルギー体。それを、その身に宿すには、強固な精神、魂の器がなければ、逆に、その力に、我が身を滅ぼされることになる」
スキル神は、続ける。
「そして、皮肉なことに……悪人、と呼ばれる者たちの中には、この『器』が、強固なパターンが多い。純粋な欲望、憎悪、復讐心。そういった、単純で、しかし、強力な一念は、魂を、歪ではあるが、強靭なものにする。故に、あやつが与える力は、容易に、彼らに受け入れられてしまう」
「……では、善人は、そうではない、と?」
「うむ。善なる者は、迷う。悩む。他者を思いやる。その複雑な精神は、美しくはあるが、時として、脆い。強大な力を前にすれば、その力に、恐怖してしまう。故に、ワシは、この少年のように、優しさと、そして、何よりも強い意志を併せ持つ、稀有な魂を探し出すしかないのじゃ」
完璧だった。
全ての辻褄が、合っている。
なぜ、悪人が目立つのか。なぜ、善人が少ないのか。
そして、なぜ、神崎勇気が、これほどの力を与えられたのか。
その場にいた、日本の最高権力者たちは、この神が語る、絶望的な世界の真実を、信じるしかなかった。
「……なるほど」
高坂総理は、深く、息を吐いた。
「……事情は、理解した。では、あなたは、今後も、善人に対して、スキル配布を続ける、と。そういうことで、よろしいか」
「うむ。それしか、あやつに対抗する術がない」
「……勝算は、あるのか」
その、最も根源的な問いに、スキル神は、しばし、沈黙した。
そして、重々しく、告げた。
「……正直に言おう。もはや、ワシが、なんとか出来る範囲を超えておる」
その言葉は、その場にいた全員の心に、鉛のような重みとなって、のしかかった。
「あやつのばら撒く、悪意の種子は、ワシの想像を、遥かに超える速度で、世界中に、芽吹き始めておる。このままでは、世界が、破滅しても、何らおかしくはない。じゃが……」
スキル神は、勇気の肩を、もう一度、力強く、叩いた。
「ワシは、諦めん。この少年のような、輝きを持つ魂が、この世界に、まだ、残っている限りはな。……最善は、尽くすつもりじゃ」
それは、神による、悲壮な、そして、英雄的な、宣誓だった。
高坂総理は、目を閉じ、そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。我々、日本政府も、あなたに、協力しよう。いや、させて、ほしい」
神と、人間が、初めて、手を取り合った、歴史的な瞬間だった。
空木零の、シナリオ通りに。
「……うむ。頼もしい限りじゃ」
スキル神は、満足げに頷くと、そろそろ、この茶番を終えることにした。
「では、ワシは、行く。やるべきことは、まだ、山ほどあるからの」
「あ、お待ちください!」
黒田が、何かを言いかけたが、スキル神は、それを、手で制した。
「話は、いずれまた。……少年よ。お主も、もう、休むが良い。よく、戦った」
スキル神は、勇気に向かって、そう言うと、二人の姿は、再び、光の粒子となって、その場から、消え去っていった。
残されたのは、絶対的な静寂と、そして、世界の真実(という名の、壮大な嘘)を突きつけられた、呆然自失の、人間たちだけだった。
黒田は、天を仰いだ。
問題の、次元が、違いすぎた。
だが、同時に、一条の光も見えていた。
神崎勇気という、希望。そして、スキル神という、不確定だが、強力な協力者。
彼は、拳を、固く、握りしめた。
戦うしかない。この、神々の代理戦争を。
人類の、存亡を、賭けて。