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第106話 次の一手

 その日、世界から音が消えた。

 アフリカ中部、サン・ミゲル共和国。長年の貧困と紛争の歴史しか持たなかった、世界地図の片隅のその小さな国家が、人類の未来そのものを左右する歴史的な国民投票の結果を発表した、まさにその瞬間。

 インターネットの光回線が、衛星放送の電波が、そのあまりにも予想外の、そしてあまりにも人間的な結論を全世界へと伝えた時、人々は、そして国家は、等しく言葉を失った。


【最終投票結果】

【プラン・ミライ(秩序):33.1%】

【プラン・カグヤ(混沌):33.2%】

【プラン・サン・ミゲル(人間の道):33.7%】


 勝者は、プラン・サン・ミゲル。

 その差、わずか0.5%。

 彼らは、選んだのだ。

 月の巫女が示す、50年後の輝かしい未来の設計図を拒絶した。

 太陽の巫女が与えてくれる、「今、この瞬間」の劇的な魂の解放も、拒絶した。

 彼らが選んだのは、秩序の神の手も、混沌の神の手も、そのどちらも振り払い、自らの泥にまみれた不完全な手で、自らの茨の道を歩むという、最も困難で、最も気高い選択だった。


 そのニュースは、核爆弾のように全世界を駆け巡った。

 ニューヨークのタイムズスクエア、東京の渋谷スクランブル交差点、ロンドンのピカデリーサーカス。世界中の巨大なビルボードが、その信じがたい投票結果を映し出し、行き交う人々は足を止め、ただ呆然とその画面を見上げていた。

 誰もが、固唾を飲んで待っていた。

 この、あまりにも常軌を逸した人間の選択に対し、世界の二大勢力――秩序と混沌が、次にどのような一手を打つのかを。

 世界は、二人の指導者の、次なる言葉を待っていた。



 富士山麓の地下深く、IARO(国際アルター対策機構)本部、事務総長執務室。

 その広大な空間は、主である黒田の精神をそのまま映し出したかのように、整然として、冷徹で、そしてどこか底知れない疲労の色を滲ませていた。

 彼は、巨大なモニターに映し出されたサン・ミゲルの投票結果と、歓喜に沸く民衆の姿を、ただ静かに見つめていた。

 彼の隣では、分析官の佐伯が、青ざめた顔で報告を続けていた。

「……政治的、そして戦略的には、我々の完全な敗北です。ミライ様の『50年計画』は、事実上、サン・ミゲルの国民に拒絶されました。今後、他の発展途上国がこの『サン・ミゲル・モデル』に追随する可能性は、極めて高いと予測されます。我々の国際社会における影響力は、著しく低下するでしょう」

 その、あまりにも的確な敗戦の分析。

 黒田は、しかし、その言葉に何の感情も示さなかった。

 彼の脳裏に浮かんでいたのは、国家の威信でも、戦略的な損失でもない。

 ただ、あの演説台の上で、涙ながらに自らの国の独立を宣言した、イザベラ・ロッセリーニ大統領の、あの気高い姿だけだった。


(……見事だ)

 彼は、心の中で呟いた。

(……我々が、そしてミライ君が、見失いかけていたものを、彼らは最後まで手放さなかった)

(神々の壮大な物語でも、我々の完璧な設計図でもない。『自分たちの物語は、自分たちの手で紡ぐ』という、あまりにも当たり前で、あまりにも尊い、人間の原点。……それに、気づかせてくれたのは、皮肉にも、あの最もか弱いと思われた国だったというわけか)


 彼は、悟った。

 ここで、我々が取るべき道は、一つしかないと。

 もし、ここで我々が敗北を認めず、サン・ミゲルに何らかの制裁や圧力をかけるような素振りを見せれば、我々はカオス同盟と同じ、ただの傲慢な支配者へと成り下がる。そうなれば、『人類憲章』が掲げた理念は、完全に地に落ちるだろう。

 秩序とは、過ちを認めることでこそ、より強靭なものへと進化する。

 彼は、数ヶ月前に自らが下した、あの『愛美ちゃん法』制定の決断を、思い出していた。

 今、試されている。

 我々の秩序が、本物であるかどうかを。


「……佐伯君」

 黒田は、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で言った。

「全世界に向けて、緊急の記者会見を開く。……私自身が、演説する」


 その数時間後。

 IAROの公式な紋章が掲げられた演壇の前に、黒田は一人で立った。そのやつれ果てた、しかし鋼の意志を宿した顔が、全世界の何十億というモニターに大写しになる。

 彼は、深々と頭を下げた。

 そして、用意された原稿には一切目を落とすことなく、自らの魂の言葉で、語り始めた。


「――本日、サン・ミゲル共和国が下した、歴史的な決断について。我々IARO、及び『人類憲章連合』は、その意思決定に、最大限の敬意を表します」

 その、あまりにも意外な第一声。

 世界は、息を飲んだ。

「我々は、認めなければなりません。我々が提示した未来の設計図は、確かに論理的で、効率的であったかもしれない。だが、我々は、彼らが自らの手で未来を築き上げるという、最も尊い権利を、軽視していたのかもしれない。……それは、我々の傲慢でした」

「故に、我々はここに宣言します。我々は、サン・ミゲル共和国の、その気高い独立の精神を、全面的に支持する。そして、もし彼らが、神の気まぐれな奇跡に頼ることなく、自らの人間の力だけで、その茨の道を歩もうとするのであれば。我々はその勇気ある隣人に対し、一切の見返りを求めることなく、我々が持つ全ての人道支援と、技術協力を提供する用意があることを、ここに約束します」


 その、あまりにも誠実で、あまりにも気高い敗北宣言。

 それは、世界中の、特にこれまで大国のエゴに翻弄され続けてきた発展途上国や、中立国の指導者たちの心を、強く、強く揺さぶった。

 彼らは、見た。

 秩序派が、ただの支配者ではないことを。

 彼らが、本当に「人間の尊厳」というものを、何よりも重んじていることを。

 IAROは、サン・ミゲルという名のチェスの駒を一つ、失った。

 だが、その代償として、彼らは世界中から「信頼」という、何物にも代えがたい、新たな外交カードを手に入れたのだ。

 それは、武力でも、奇跡でもない。

 人間の理性が、人間の理性に敬意を払うことで勝ち得た、静かな、しかし偉大な勝利の瞬間だった。



 だが、その同じ瞬間。

 地球の裏側、東欧ソラリス解放区。

 半壊した政府庁舎の一室、カオス同盟の最高司令部は、怒号と混乱に包まれていた。

 ホログラムのモニターが映し出すのは、サン・ミゲル共和国の、あの歴史的な国民投票の結果。そして、神々の代理人を拒絶し、自らの道を歩むことを選んだ民衆の、あの気高い、しかし彼らにとってはあまりにも忌々しい歓喜の歌声だった。


「ふざけるなッ! あの虫ケラどもが!」

『サラマンダー』ソカが、その身から陽炎を立ち上らせながら吠えた。彼の怒りに呼応し、部屋の隅の鉄屑が赤熱し、溶け落ちていく。

「俺たちの、カグヤ様の『解放』を、拒絶しただと!? 恩を仇で返しやがって……! 今すぐにでも、あの国ごと灰にしてやる!」

「同感ね」

『ドッペルゲンガー』エヴァが、冷ややかに同意する。その姿は、今や怒りに顔を歪ませたサン・ミゲルのイザベラ大統領そのものへと変身していた。

「秩序派の甘言に、まんまと騙されて。……本当に、救いようのない愚かな民衆だわ。ケイン大元帥、ご命令を。わたくしが、あの大統領に成り代わり、この投票結果を無効だと宣言し、国を内側から崩壊させてご覧に入れますが?」


 S級アルターたちが放つ、剥き出しの殺意と苛立ち。

 だが、その混沌の中心にいるはずの二人の指導者の反応は、対照的に静かだった。


 陽南カグヤは、ただ静かに、その金色の瞳でモニターを見つめていた。その表情には怒りはない。むしろ、自らの信仰が試されているかのような、深い、深い内省の色が浮かんでいた。

「……いいえ」

 彼女は、ぽつりと呟いた。

「……これは、試練です。わたくしたちの物語が、まだ彼らの魂に届くほど純粋でなかっただけ。……もっと強く、もっと魅力的な混沌を、我々は示さなければならない。……そう、邪神様は望んでおられる……」


 その、巫女としてのあまりにも純粋な信仰の告白。

 だが、その隣で、もう一人の男は、全く別の次元で思考を巡らせていた。

 ケイン・コールドウェルは、椅子に深く腰掛けたまま、指一本動かさない。ただ、その鉄仮面のような表情の下で、彼の脳だけが神速で回転していた。彼は、目の前の結果を見ていない。彼は、この結果を見ているであろう、ただ一人の絶対的な観客の心を、読んでいた。


「……静かにしろ」


 ケインの、その静かな、しかし有無を言わさぬ一言。

 司令室の喧騒が、嘘のように静まり返った。

 ソカも、エヴァも、その絶対的な指導者の次の言葉を、固唾を飲んで待っていた。

 ケインは、ゆっくりと顔を上げた。

 そして、その薄い唇の端に、ほんの僅かな、しかし確かな笑みを浮かべた。

 それは、怒りでも、失望でもない。

 それは、あまりにも難解で、あまりにも美しい芸術作品を前にした時の、純粋な「理解者」の笑みだった。


「……お前たちは、まだ分かっていない」

 彼は、まるで出来の悪い生徒を諭すかのように、静かに言った。

「お前たちは、この結果を、人間の物差しで、我々の勝ち負けでしか見ていない。……違う。そうではない」

「考えろ。我らが神の視点で、考えるのだ。……この、あまりにも滑稽で、あまりにも予測不能な結末を観測して、今この瞬間、あの方はどう思っておられる?」


 ケインは、そこで一度言葉を切った。

 そして、その瞳に、狂信的なまでの輝きを宿して、断言した。


「――おそらく、爆笑しておられる」


 その、あまりにも常軌を逸した一言。

 司令室にいる誰もが、息を飲んだ。


「そうだ。間違いない」と、ケインは続けた。その声には、揺るぎない確信があった。

「あの方は、我々の安易な勝利など、最初から望んでおられなかったのだ。そんなものは、退屈だからな。あの方は、秩序の巫女と混沌の巫女という、二つの完璧な選択肢を提示された。そして、人間たちはどうした? そのどちらも選ばず、第三の、最も不格好で、最も効率の悪い、しかし最も『人間らしい』道を選び取った!」

「これ以上の、混沌があるか!? これ以上の、最高のエンターテインメントがあるか!? これは、失敗ではない! これは、神の脚本すらも超えてみせた、最高の即興劇インプロビゼーションなのだ!」


 その、あまりにも倒錯した、しかし絶対的な真実。

 ソカも、エヴァも、そしてカグヤさえも、そのケインの深遠な神意の解釈に、ただ圧倒されていた。

 そうだ。

 その通りだ。

 我らが神は、ただ「面白いこと」を望んでおられる。

 そして、この結末は、確かに、あまりにも「面白い」。


「……では、大元帥」

 カグヤが、震える声で問いかけた。

「我々は、次にどうすれば……?」

「ああ」

 ケインは、頷いた。

「神は、我々に新たな『問い』を投げかけられたのだ。『人間という、この予測不能な駒を、お前たちはどう動かすのか』と。……我々の次の一手は、彼らの予想を、そして神の期待すらも、超えるものでなければならん」

 彼は、立ち上がった。

 そして、ホログラムのモニターに映し出された、歓喜に沸くサン・ミゲルの民衆と、その背後で苦悩する秩序派の指導者たちの顔を、まるで新たなチェス盤を眺めるかのように、冷徹に見据えた。


「軍事侵攻など、愚の骨頂だ。そんな退屈な手は、神を失望させるだけだろう」

「我々が為すべきは、もっと静かで、もっと悪質な一手だ」

「秩序派の、その足元を掬う。彼らが信じる『人間の理性』という名の、その脆い幻想を、内側から食い破るのだ」


 二人の指導者の思想の違いは、確かに表面化した。

 だが、それは亀裂ではなかった。

 それは、ケインという冷徹な「頭脳」と、カグヤという情熱的な「魂」が、初めて真の意味で一つとなり、より高次の、より予測不能な混沌を生み出すための、恐るべき化学反応の始まりだった。

 混沌派の内部に、不穏な空気ではなく、新たな、そしてより危険な「覚悟」が生まれた瞬間だった。



 その日、世界は変わった。

 秩序派は、一つの戦いに敗れることで、より大きく、よりしなやかな「物語」を手に入れた。

 混沌派は、一つの勝利を逃すことで、より深く、より危険な「覚悟」を手に入れた。

 そして、そのどちらにも与しなかったサン・ミゲルは、最も困難な、しかし最も気高い「人間の物語」を、自らの手で歩み始めた。

 盤上の駒は、全て動いた。

 そして、その全ての光景を、日本の安アパートの一室で、一人の神が最高の笑顔で見つめていた。


「ははは! 素晴らしい! 実に素晴らしいじゃないか!」

 空木零は、モニターに映し出された黒田の英断と、ケインの神意の解釈を、最高のおつまみにして、キンキンに冷えたコーラを呷っていた。

「これだよ、これ! 俺の想像を、やすやすと超えてきてくれる! だから、人間観察はやめられないんだ!」

 彼は、満足げに頷いた。

 そして、彼は考える。

 この、あまりにも面白くなってきたチェス盤の上で。

 次に、どんな新しい駒を、どこに投下してやろうかと。

 彼の退屈しのぎの物語は、まだ当分、終わりそうになかった。

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