第99話 英雄の不在証明と、秩序の涙
世界は、そのニュースに静かに、しかし深く揺れた。
発端は、WORLD ALTER REPORT (WAR)が配信した一本のWeb特集記事。新潟の山村で、IAROの厳格すぎる規則の前にこぼれ落ちた、6歳の少女の命。記事は、淡々と、しかし克明にその悲劇の顛末を伝えていた。救えたかもしれない命、間に合わなかった救急車、そして法律に殺されたと嘆く、遺された家族の悲痛な叫び。
この記事は、燎原の火のように全世界へと拡散された。
これまで、神々の壮大な物語や英雄たちの超人的な活躍という、どこか遠い世界の出来事として「アルター」の存在を消費していた人々。その心に、初めて自分たちの日常と地続きの、あまりにも生々しい「痛み」が突き刺さったのだ。
SNSは、怒りと悲しみの洪水で溢れ返った。
『読んだか? WARの記事。涙が止まらない』
『IAROは何を守ってるんだ? 規則か? 人の命か?』
『うちの子供も6歳だ。他人事じゃない。もし自分の子が同じ目に遭ったら……』
『#愛美ちゃんを忘れない』
『#秩序のための犠牲を許すな』
ハッシュタグは、瞬く間に世界のトレンドとなった。
これまでIAROを、そして黒田事務総長を「秩序の守護者」として絶対的に支持してきた世論が、初めて明確な疑義を呈した瞬間だった。
だが、その怒りの矛先は、奇妙なことにIAROだけに向けられたわけではなかった。
『……でも、こういう時こそミライ様が何か言ってくれるはずだ』
『そうだ。彼女なら、この悲劇が未来への伏線だってきっと……』
『カグヤ様なら、こんな腐ったルール、今すぐにでもぶっ壊してくれるのに!』
人々は、それぞれの巫女にそれぞれの救済を求めた。
だが、二人の巫女は沈黙していた。鏡ミライは、このあまりにも個人的で救いのない悲劇に対して、いつものように未来の希望を語ることを躊躇した。陽南カグヤは、秩序派の内部崩壊を、ただ静かに、そして面白そうに観測しているだけだった。
英雄は、不在だった。
後に残されたのは、自らが作り上げたシステムの欠陥を真正面から突きつけられた、秩序の番人たちの深い苦悩だけだった。
§
IARO(国際アルター対策機構)本部、地下300メートル。事務総長執務室。
その部屋の空気は、もはや淀んでいるというレベルではなかった。それは、真空だった。音も、光も、感情すらも、全てが吸い込まれていくような絶対的な虚無が、部屋を支配していた。
室長の黒田は、自らの執務机で、深く、深く椅子に身を沈めていた。その鉄仮面のような表情は、何の感情も映してはいなかった。だが、モニターに映し出された笑顔の佐藤愛美ちゃんの遺影と、世界中からIAROへと殺到する抗議のメッセージの奔流が、彼の魂を内側から、静かに、しかし確実に削り取っていた。
(……我々のせいだ)
彼の脳裏で、その言葉が何度も、何度も反響する。
(我々が殺したのだ。あの少女を。我々が、絶対の正義だと信じて疑わなかったこの『秩序』という名の、冷たい機械が)
彼は、この数日間眠っていなかった。眠れるはずがなかった。目を閉じれば、あの小さな村の絶望に満ちた光景が蘇る。彼は、全ての報告書を読んだ。現場に急行した部隊のボディカメラの映像も、一秒たりとも見逃さずに全て確認した。
そこに映っていたのは、職務に忠実な優秀な部下たちの姿だった。彼らは、何一つ間違ってはいない。ただ、定められた規則に従い、冷静に、そして的確に行動しただけだ。
だからこそ、この罪はより深く、そして救いがない。
この悲劇の責任は、現場の兵士にあるのではない。このあまりにも硬直したシステムを作り上げ、そしてそれを絶対のものとして君臨させてきた、自分自身にあるのだと。
黒田は、初めて自らが築き上げたものに対して、絶対的な疑念を抱いていた。
コンコン。
静かなノックの音。
「……入れ」
入ってきたのは、彼の右腕である分析官、佐伯だった。彼女の顔もまた、数日間の徹夜で青白く、その目の下には深い隈が刻まれている。
「事務総長。……先ほど、高坂総理より非公式な打診が」
「……何だ」
「今回の件に関する事務総長の引責辞任を、視野に入れるべきではないかと……。世論の怒りを鎮めるためには、それしか……」
「……そうか」
黒田は、静かに頷いた。
当然の判断だ。国家とは、そういうものだ。誰かが、責任を取らなければならない。
だが、それで本当に何かが変わるのだろうか。
自分が辞めたところで、このシステムの根本的な欠陥が癒えるわけではない。第二、第三の愛美ちゃんが生まれないという保証は、どこにもない。
(……逃げるのか、俺は)
黒田は自問した。
(この罪から目を逸らし、全てを部下に押し付けて、自分だけが安全な場所へと去るのか)
(……冗談じゃない)
彼の、その疲れ切っていたはずの瞳の奥に、ほんの僅かな、しかし鋼のような硬質な光が宿った。
「――佐伯君」
「……はい」
「緊急の最高幹部会を招集しろ。議題は、『アルター技能管理法・第7条(緊急時における未認可スキルの限定的行使)の改正案』についてだ」
「――っ!?」
佐伯は、息を飲んだ。
それは、IARO設立以来、誰もが不可能だと考えてきた最大のタブーだった。
「……し、しかし事務総長! そのようなことをすれば、混沌派に付け入る隙を与えるだけです! 悪用のリスクは、計り知れません!」
「分かっている」
黒田は、きっぱりと言った。
「だが、それでもだ。……秩序とは、ただ硬直した規則を守ることではない。秩序とは、過ちを認め、自らを修正し、そしてより良い形へと進化していく、その動的なプロセスのことだ。……我々は今、それを全世界に示すべきだ。……たとえそれが、茨の道であったとしてもな」
その言葉は、もはやただの事務総長のものではなかった。
それは、自らが犯した罪を自らの手で償おうとする、一人の人間の魂の決意表明だった。
§
IARO最高幹部会議室。
その円卓を囲むのは、秩序派の、そしてこの国の安全保障をその両肩に背負う、鋼の意志を持つ者たちだった。
だが、その日の会議室の空気は、異様なまでに張り詰めていた。
黒田が提出した、あまりにも過激な法改正案。
それは、会議室を二つの明確な派閥へと、完全に引き裂いていた。
「――断じて認められん!」
最初に反対の狼煙を上げたのは、防衛省から出向している強硬派の筆頭、大河内副長官だった。
「黒田君、君は正気かね!? 一人の少女の、確かに痛ましい事故ではあった。だが、そのたった一つの例外のために、我々が5年間かけて築き上げてきたこの鉄壁の防衛網に、自ら穴を開けろと言うのか!」
「これは、ダムの壁に小さな亀裂を入れるようなものだ! その亀裂から、いずれ混沌という名の濁流が流れ込み、この国全てを飲み込むことになるぞ!」
「だが、大河内副長官!」
今度は、法務省から来た穏健派の理事が反論した。
「そのダムを守るために、ダムの内側にいる国民を見殺しにして、本当に良いのですか!? 我々が守るべきは、国家という名の器か、それともその中に生きる一人一人の人間の命か! その優先順位を、我々は見誤ってはならない!」
議論は、完全に紛糾した。
「リスク管理はどうする! 善意の第三者を装った混沌派のテロリストが、この特例を悪用しないと誰が保証できる!」
「現場の裁量権をどこまで認めるのだ! 全ての救急隊員に、アルターの生殺与奪の権限を与えるつもりか!」
「そもそも、これはスキル神の御心に反するのではないか! 彼は、我々に『秩序』を望まれたはずだ!」
怒号が飛び交う。
黒田は、その光景をただ黙って見つめていた。
全て、想定内の反論だった。
そして、彼はこの日のために用意してきた、最後の切り札を切る覚悟を決めた。
「……皆様。……少しだけ、よろしいですかな」
黒田の、そのあまりにも静かで、あまりにも重い声。
会議室の喧騒が、嘘のように静まり返った。
全ての視線が、彼一人に集中する。
黒田は、ゆっくりと立ち上がった。そして、円卓にいる全ての幹部の顔を、一人一人、その射抜くような瞳で見据えながら語り始めた。
「……皆様がおっしゃる懸念、ごもっともです。リスク管理体制、神の御心。……その全てが、正しい」
「ですが」と、彼は続けた。その声は、震えていた。それは、恐怖からくる震えではなかった。それは、自らがこれから口にする言葉の、そのあまりの重さに、魂そのものが震えているかのようだった。
「――我々は、間違えたのです」
その絶対的な自己否定の言葉。
会議室は、水を打ったように静まり返った。
「我々IAROは、この5年間、一つの大きな過ちを犯し続けてきた。……それは、『完璧な秩序』などという幻想を追い求めてしまったことです」
「完璧なシステムなど、この世には存在しない。どんなに緻密な法を編んでも、どんなに強固な壁を築いても、そこからは必ずこぼれ落ちていく命がある。……佐藤愛美ちゃんのように」
「そして、我々は、そのこぼれ落ちた命を、『必要悪』だの、『仕方のない犠牲』だのという、あまりにも傲慢な言葉で片付けてきた。……だが、それは違う!」
黒田は、机を強く叩いた。
「一つの命も、必要悪などではない! 一人の犠牲も、仕方ないことなどではない! 我々が向き合うべきだったのは、そのシステムの不完全さ、そのものだったはずだ!」
「秩序とは、完成された建造物ではない! 秩序とは、生き物です! 過ちを犯し、傷つき、それでもなお、より良い形を目指して自らを絶えず作り変えていく! その泥臭い、不格好な、しかし決して諦めないプロセスそのものが、我々人間の本当の『秩序』なのではないでしょうか!」
「私は、今日、皆様に問いたい。我々は、過ちを犯すことを恐れる、脆く硬直した『壁』であり続けるのか。それとも、過ちを認める強さを持つ、しなやかで折れない『竹』となるのか!」
「私は、後者を選びたい。……たとえその道が、どれほど険しくとも。……あの少女の小さな死を、決して無駄にはしない。その死を、我々がより良い未来へと進むための尊い礎とする。……それこそが、我々生き残った大人たちにできる、唯一の、そして最大の償いだと、私は信じます!」
そのあまりにも人間的で、あまりにも痛切な魂の演説。
大河内副長官ですら、ぐっと言葉に詰まり、反論することができなかった。
会議室は、重い、重い沈黙に包まれた。
誰もが、黒田の言葉のそのあまりの重さに、自らの魂の天秤を揺さぶられていた。
そして、その膠着状態を破ったのは、一本の緊急回線のアラート音だった。
「――緊急速報です!」
佐伯の声が、スピーカーから響き渡る。
「たった今、Vチューバー『鏡ミライ』が、予告なしの緊急配信を開始しました!」
会議室のメインモニターが、ミライの配信画面へと切り替わる。
そこに映し出された銀髪の巫女は、いつものように穏やかだった。だが、その瞳には、深い、深い悲しみの色が宿っていた。
そして彼女は、全世界が見守る中、静かに語り始めた。
『――皆様。今日は、いつものように未来の希望の物語を語ることはできません。……なぜなら、私たちの足元で、一つの小さな、しかし何よりも尊い物語が、昨日終わってしまったからです』
彼女は、佐藤愛美ちゃんの悲劇を、一切の脚色なく、ただありのままに語った。
そして彼女は、涙を浮かべながら言った。
『……500年後の輝かしい未来。それは、確かに存在します。ですが、その美しい未来は、今この瞬間を生きる一人一人の名もなき人々の、ささやかな幸福の上にしか築くことはできません。……未来のために今を犠牲にすることを、私は選びません』
『そして、わたくしは『観測』しました。IAROの、あの鉄の男と呼ばれた指導者が、今、たった一人でそのシステムの過ちを認め、正そうと戦っている、その気高い未来の欠片を』
『ですから皆様、お願いです。……彼を信じてあげてください。……人間は、過ちを犯します。ですが、人間は、その過ちから学び、より優しく、より強くなることができる。……その不完全で、だからこそ美しい可能性を、どうか信じてあげてください』
そのあまりにも的確な、そしてあまりにも強力な「援護射撃」。
それは、もはやただの偶然ではなかった。
ミライは、見ていたのだ。このIAROの最高幹部会議の、その未来の結末を。そして、黒田が勝利するために必要な、最後の、そして最大の一手を、彼女は自らの意志で打ったのだ。
会議室は、静まり返っていた。
大河内副長官は、深く、深くうなだれていた。
もはや、反対する者はいなかった。
民意も、そして神に最も近い巫女も、黒田の側に付いた。
その日の夕方、IAROは全世界に向けて公式声明を発表した。
『アルター技能管理法・第7条』の改正案を、国連総会に緊急上程すると。
通称、『愛美ちゃん法』。
そのニュースは、世界中を駆け巡った。
人々は、涙を流してその報を歓迎した。そして、過ちを認める勇気を示したIAROに、そして黒田事務総長に、最大級の賛辞を送った。
秩序は、死んでいなかった。
秩序は、自らの血を流すことで、より強靭なものへと生まれ変わろうとしていた。
そのあまりにも人間的な、そしてあまりにも気高い物語の始まりを、世界は確かに目撃したのだ。
その夜、執務室。
黒田は、一人、モニターに映し出されたミライの優しい笑顔を、ただ静かに見つめていた。
彼は、何も言わなかった。
ただ、深く、深く、その画面に向かって頭を下げた。
それは、誰にも見られることのない、一人の指導者の心からの感謝の祈りだった。
戦いは、まだ終わらない。
だが、彼の心には、今、確かに共に戦ってくれる心強き仲間たちの存在が、温かい光となって宿っていた。




