第98話 【Web特集】禁じられた奇跡:なぜ救いの手は国家に縛られるのか? 治癒スキル民間利用を巡る光と影
【Web特集】禁じられた奇跡:なぜ救いの手は国家に縛られるのか? 治癒スキル民間利用を巡る光と影
発行日: 20XX年X月XX日
配信元: WORLD ALTER REPORT (WAR) - 特別調査報道班
執筆者: ジャーナリスト 山本 健太郎
副題:『救えるはずの命』と『守るべき秩序』の天秤。IAROが主導する『ヒーラー国家管理モデル』は、人類にとって福音か、それとも新たな悲劇の始まりか。我々は、その実態に迫った。
導入:間に合わなかった救急車
先月、日本の山間部新潟県のとある小さな村で、一件の痛ましい事故が起きた。6歳の少女、佐藤愛美(仮名)ちゃんが、自宅の納屋で遊んでいる最中に落下。頭部を強打し、意識不明の重体に陥った。
村の唯一の診療所には、出来る処置は限られていた。最も近い都市の大学病院へは、救急車で2時間以上かかる。医師が下した診断は、絶望的だった。「脳内出血が激しい。このままでは、もって数時間だろう」。
だが、その場には一つの「可能性」が存在した。
村には、IARO(国際アルター対策機構)に未登録の、ごく微弱な治癒能力を持つアルターがいたのだ。かつて看護師として働いていた70代の老婆で、そのスキルは【軽度の鎮静】。傷を治すことはできないが、対象の興奮や痛みを和らげ、バイタルを安定させるだけの力を持っていた。
村人たちは、老婆に懇願した。「どうか、愛美ちゃんを」。老婆もまた、その小さな命を救いたい一心で、禁忌を犯す覚悟を決めた。
だが、彼女が愛美ちゃんの元へ駆けつけようとした、まさにその時。村の上空に、漆黒のVTOL輸送機が音もなく姿を現した。IAROの特殊部隊だった。彼らは、老婆の微弱なスキルエネルギーを遠隔で感知し、『違法医療行為』の可能性があるとして、現場に急行したのだ。
部隊は老婆を拘束。悪意がなかったことは認められたが、厳格な『アルター技能管理法』に基づき、彼女は事情聴取のために連行された。
その全てのやり取りに、貴重な時間が費やされた。
そして、愛美ちゃんを乗せた救急車が、ようやく都市の病院に到着した時。
彼女は、既に冷たくなっていた。
医師は後に、こう語ったという。
「もしあと30分早く着いていれば。あるいは、現場で初期のバイタル安定処置ができていれば、救えたかもしれない命だった」
治癒スキル。それは、神が人類にもたらした最も分かりやすい奇跡。だが、その奇跡の光は今、分厚い法律と国家という名の巨大な壁によって、本当にそれを必要としている人々の元へ届かないという、歪んだ現実を生み出している。
IAROが主導し、『人類憲章連合』加盟国のほとんどが採用する『ヒーラー国家管理モデル』。それは、混沌の時代に秩序をもたらすための必要悪なのか。それとも、人道にもとる国家による生命の独占なのか。
我々取材班は、この問題の根幹に横たわる深い溝と、そこに生きる人々の声に耳を傾けた。
第1章:秩序と管理――『IAROモデル』の功罪
まず、なぜ治癒能力者の民間利用がこれほどまでに厳しく制限されているのか。その理由を理解するためには、5年前に遡る必要がある。
世界がまだ、スキルという未知の力に怯えていた時代。当時、各地で「奇跡の治療」を謳う悪質なカルトや詐欺師が横行した。病に苦しむ人々の弱みにつけ込み、高額な布施を要求する。あるいは、不完全な治癒スキルで治療を行い、逆に症状を悪化させる。そんな悲劇が、後を絶たなかったのだ。
IAROが設立され、黒田事務総長が主導して制定したのが、現在の『ヒーラー国家管理モデル』の原型だった。
IAROの広報担当官は、我々の取材に対し、その正当性をこう語る。
「我々の目的はただ一つ。『奇跡の質の担保』と、『その公平な分配』です。治癒スキルは、極めて高度で繊細な能力です。術者の僅かな知識不足や精神状態の揺らぎが、被験者の生命に直接的な影響を及ぼしかねない。故に、IAROが認定した最高レベルの訓練を受け、認可された者だけが、その行使を許されるべきなのです」
「そして、その貴重な『人的資源』を、富裕層や権力者が独占するようなことがあってはならない。国家が一元的に管理し、本当にそれを必要としている重篤な患者や、国家にとって重要な任務に従事する者へ、優先的に派遣する。これこそが、限られた奇跡を最大限に有効活用するための、最も合理的で人道的なシステムであると、我々は確信しています」
その言葉は、正論だった。
事実、このモデルによって悪質な偽ヒーラーは一掃され、医療現場の混乱は収束した。IAROに所属する公認ヒーラーたちは、国家公務員として最高ランクの待遇と社会的地位を保証される。彼らは、世界中の紛争地帯や災害現場へと派遣され、これまで救えなかったはずの何万、何十万という命を救ってきた。それは、紛れもない「功績」だ。
だが、その完璧なシステムの、その網の目からこぼれ落ちていく命がある。
新潟の、愛美ちゃんのように。
第2章:こぼれ落ちる命――現場からの悲痛な叫び
「綺麗事ですよ」
我々の取材に、そう吐き捨てるように言ったのは、都内の大学病院の救命救急センターに勤務するベテラン医師、高橋(仮名)だった。
「IAROの言う『公平な分配』。結構だ。だが、その『公平』を判断するのに、どれだけの時間がかかるか、彼らは分かっていない」
高橋医師の勤務する病院は、国内でも有数の三次救急医療機関だ。だが、それでもIARO所属の公認ヒーラーが、この病院に常駐しているわけではない。
「ヒーラーの派遣を要請するには、まず患者の症状がIAROの定める『派遣基準』に合致するかどうかを判断し、山のような申請書類を作成しなければならない。それが受理され、本部で承認され、そしてようやくヒーラーが派遣されてくる。そのプロセスに、平均で3時間はかかる。……分かりますか? 我々の現場では、最初の数分、数秒が患者の生死を分けるんです。3時間後なんて、もはや神の領域の話ですよ」
彼は、一人の患者の話をしてくれた。
数ヶ月前、交通事故で搬送されてきた20代の青年。内臓破裂による大量出血。高橋医師のチームは、何時間にも及ぶ懸命な手術を行った。だが、出血は止まらない。
「あと一手。あと一手あれば助かった。彼の傷ついた血管を、スキルでほんの数秒だけ塞いでくれさえすれば、その間に我々が縫合できた。だが、我々の派遣要請は『緊急性が低い』として後回しにされた。……彼は、手術台の上で亡くなりました。彼の恋人が、待合室で泣き崩れる声が、今も耳から離れません」
高橋医師は続けた。
「分かっています。ヒーラーが有限な資源であることも。全ての病院に配置できないことも。ですが、せめてだ。せめて限定的な状況下での、現場の判断による未認可スキルの行使を認めるべきだ。例えば、今回のような人命救助の緊急時に限り、特定の資格を持つ医師の監督下で、微弱な能力の行使を許可する『アルター版・善きサマリア人の法』のようなものが、なぜ作れないのか」
「今の法律は、現場の人間を、そして何よりも患者を信じていない。机の上でソロバンを弾いている官僚たちが、命の重さを決めている。……これ以上、悲劇的なことはありませんよ」
そして我々は、再び新潟のあの村を訪れた。
愛美ちゃんの両親は、憔悴しきっていた。
「あの日、IAROの部隊が来なければ……」
父親は、震える声で言った。
「あのおばあちゃんが、娘に触れてくれてさえいれば……。たとえ助からなかったとしても、我々は納得できた。やれるだけのことはやったんだと。……でも、違う。娘は、法律に殺されたんです。……『秩序』という名の、冷たい機械に」
「娘の部屋は、あの日からそのままです。机の上には、将来の夢だって書いてあったんですよ。『看護師さんになりたい』って……。あのおばあちゃんみたいに、人の痛みが分かる優しい子だったんです……」
母親は、それ以上言葉を続けることができなかった。
ただ、小さな、そして今はもう誰もいない学習机を、愛おしそうに撫でているだけだった。
そのあまりにも深い悲しみの前で、我々はかけるべき言葉を何一つ見つけることができなかった。
第3章:癒し手たちのジレンマ――金色の鳥かごの中で
では、その「国家の道具」となることを選んだヒーラーたちは、幸せなのだろうか。
我々は、IAROの厳格な取材規制を潜り抜け、一人の公認ヒーラーとの接触に成功した。彼女は、匿名を条件にその胸の内を語ってくれた。
彼女、ミカ(仮名)は、B級の治癒能力者。その能力は、組織の再生を促進し、外科手術後の回復を劇的に早めることができる。彼女は今、希望ヶ島の研究施設に隣接する、IAROが用意した最高級の居住区で暮らしている。年収は、数千万円。身の回りの世話は、全て専属のスタッフが行ってくれる。まさに、至れり尽くせりの生活。
「不満なんて、ありませんよ」
彼女は最初、そう言って微笑んだ。
「私はこの力で、たくさんの人を救うことができる。国からも、最高の待遇を保証されている。……これ以上、何を望むというのですか」
だが、その微笑みはどこか脆く、そして寂しげだった。
我々がさらに深く問いを重ねていくと、彼女はぽつり、ぽつりとその本音を漏らし始めた。
「……時々、分からなくなるんです。私が治しているのは一人の『人間』なのか、それとも国家にとって価値のある『資産』なのか」
「私たちが派遣されるのは、常に『優先順位』の高い現場だけです。重要な政治家、優秀な科学者、あるいは神崎勇気さんのような替えの効かない英雄たち。……もちろん、彼らが大事な存在であることは分かっています。でも……」
彼女は、窓の外の完璧に手入れされた庭園を見つめた。
「私の故郷の小さな町。そこには、私の幼馴染が住んでいます。彼女の子供が先日、重い喘息の発作を起こしたと聞きました。私のスキルがあれば、その子の気管支の炎症を少しだけ和らげてあげることができたかもしれない。……でも、私にはできない。IAROの許可なく、私的にスキルを使うことは固く禁じられていますから」
「私はこの豪華な部屋から、ただ彼女の無事を祈ることしかできなかった。……その時、思いました。私は、一体何のためにこの力を持っているんだろうって」
彼女は自らを、「金色の鳥かごの中の鳥」だと表現した。
手厚く保護され、美しい声で歌うことを期待される。だが、その翼は決して自由ではない。
「……私たちは、ヒーラーである前に人間です。愛する人がいて、守りたい日常がある。でも、IAROの道具となった瞬間から、その全てを捨て去ることを求められる。……時々、思うんです。あの混沌派の言う『魂の解放』の方が、もしかしたら人間らしい生き方だったんじゃないかって……」
その、あまりにも危険な告白。
彼女の瞳の奥に、秩序と混沌の狭間で揺れ動く、一人の人間としての深い葛藤の色が見えた気がした。
第4章:混沌派の選択――禁断の果実
ミカが口にした、混沌派の選択。
それは、秩序派の人間にとってはあまりにも魅力的で、あまりにも危険な「禁断の果実」だ。
カオス同盟が支配する地域、例えば東欧のソラリス解放区では、ヒーラーは国家に管理されていない。彼らは、自らの意志で、自らの信じるやり方で、その力を行使する。
ある者は聖者のように振る舞い、無償で貧しい人々の傷を癒し、絶大な支持を集める。
ある者は闇医者のように暗躍し、法外な治療費と引き換えに、裏社会の人間たちの命を繋ぎ止める。
そこには自由がある。だが、秩序はない。
我々が入手した混沌派支配地域からの映像には、衝撃的な光景が記録されていた。
一人の強力な治癒能力を持つアルターが、自らを「新しき神」と称し、小さな村を完全に支配している。村人たちは、彼の気まぐれな「奇跡」にすがるしかなく、彼に逆らう者は治療を拒否され、見殺しにされる。彼は、治癒の力を最も効果的な人心掌握の道具として利用していたのだ。
「偽ヒーラー」も、後を絶たない。治癒能力を持たない詐欺師が、安価な薬草と巧みな話術で人々を騙し、貴重な食料や金を巻き上げる。
IAROの広報官は、この事実を以て、彼らのシステムの優位性を主張する。
「見なさい。あれが、管理なき奇跡がもたらす当然の帰結です。我々は、ああいった悲劇から人々を守るために、この厳格な秩序を維持しているのです」
だが、本当にそうだろうか。
ソラリス解放区で、母親の病をカルト的なヒーラーに治してもらった一人の少女は、我々の潜入取材に対し、涙ながらにこう語った。
「あの人が神様だろうと悪魔だろうと、関係ない。あの人は、秩序派の医者たちが見捨てた私の母を救ってくれた。……それだけが、私にとっての真実です」
第5章:専門家たちの視座と我々が選ぶべき未来
この、あまりにも複雑で、あまりにも根深い問題。
我々は、各分野の専門家に意見を求めた。
社会倫理学者、エミリー・カーター博士(スタンフォード大学)
「これは、現代の『神権政治』ですよ。かつて教会が『神の代理人』として人々の魂を支配したように、今、IAROという組織が『奇跡の分配者』として人々の生命を支配しようとしている。彼らに悪意がないことは分かります。ですが、いかに善意に基づいたものであっても、特定の組織が生命の選択権を独占するシステムは、本質的に極めて危険な思想を孕んでいます。我々は、奇跡を管理するのではなく、奇跡と『共存』する方法を模索すべきです」
元IARO戦術分析官、ピエール・ギョーム氏
「理想論だ。カーター博士の言うことは美しいが、現実を見ていない。我々は今、戦争の真っ只中にいるのです。治癒能力者は、単なる医療従事者ではない。彼らは、神崎勇気のような英雄を再び戦場に送り出すための、あるいは国家の中枢を担う要人を守るための、最も重要な『戦略的資源』です。その資源を、民間の気まぐれな需要のために浪費することなど、国家の安全保障を預かる者として、断じて許容できるはずがない。……冷徹なようですが、それが戦争というものです」
では、道はないのか。
我々が最後に話を聞いたのは、日本のアルター法学の権威、鈴木教授(東京大学)だった。彼は、一つの興味深い「第三の道」を示唆してくれた。
「『ヒーラー特区』構想です。国家戦略上、重要ではないと判断された特定の地域に限り、IAROの厳格な監督下で、治癒スキルの民間利用を限定的に許可する。そこで、様々な問題点――例えば料金体系、医療過誤の際の責任問題、ヒーラーのメンタルヘルスケアなど――を検証し、データを蓄積していく。そして、その成功と失敗の事例を元に、数十年、あるいは百年単位の時間をかけて、ゆっくりと、しかし確実に、奇跡と人間が共存できる社会の形を模索していくべきです。……急ぎすぎてはいけません。神の火を人間の手に馴染ませるには、それくらいの時間が必要なのです」
結び:我々はいつまで神の不在を嘆くのか
秩序か、混沌か。管理か、自由か。国家か、個人か。
治癒スキルを巡るこの問いは、もはや単なる医療政策の問題ではない。それは、この狂ってしまった世界で、我々人類がどのような未来を選択するのかという、根源的な哲学の問いそのものだ。
IAROの厳格な管理体制は、確かに多くの命を救い、社会の崩壊を防いだ。だが、その過程で救えるはずだった小さな命が、確かにこぼれ落ちている。
混沌派の自由な奇跡は、確かに目の前の絶望を癒すかもしれない。だが、その先には、より大きな混沌と新たな支配者が待っているだけかもしれない。
我々はいつまで神々の不在を嘆き、その代理人である二人の巫女の言葉に、自らの運命を委ね続けるのだろうか。
新潟の、あの小さな村。
愛美ちゃんが亡くなった納屋の隣には今、小さな花壇が作られていた。そこには、村人たちが持ち寄った色とりどりの花が植えられている。
そして、その花壇の世話を、一人の老婆が毎日欠かさず行っていた。
IAROから釈放された、あの治癒能力者の老婆だった。
彼女はもう、二度とその力を使うことはないだろう。
だが、彼女は祈り続けていた。
花に水をやり、土を耕しながら。
この世界から、これ以上愛美ちゃんのような悲しみが生まれませんようにと。
そのあまりにも人間的で、あまりにもささやかな祈りの中にこそ、我々がこれから進むべき道の本当のヒントが、隠されているのかもしれない。
救いの手は今も、国家に縛られている。
問題は、その鎖が我々を混沌から守っているのか、それとも我々自身の人間性をただ締め付けているだけなのか。
その答えを出すのは、神でも、英雄でも、巫女でもない。
我々、一人一人なのだ。
(記事はここで終わっている)