第97話 希望の揺りかご、戦士たちの教室
日本の季節が、暴力的なまでの湿気と暑さで、アスファルトの上の陽炎のように人々の理性を揺らがせる、まさにその日。東京から南へ約50キロ、相模湾の沖合に浮かぶ一つの人工島が、その歴史的な産声を上げていた。
島の正式名称は、『国際特別才能育成研究都市』。
だが、世界中の人々は、畏怖と、期待と、そしてほんの少しの嫉妬を込めて、その島をこう呼んだ。
『希望ヶ島』、と。
ここは、IAROが、そして日本政府が、その国家の威信と未来の全てを賭けて創り上げた、世界で唯一の場所。若きアルターたちが、その生まれ持った異能を呪いとしてではなく、祝福として受け入れ、学び、そして成長するための聖域。『国立高等専門アルター学院』。通称、『アルターズ・ハイ』。
その島の中央に、ひときわ巨大な白亜のドーム状の建造物が、まるで巨大な真珠のように太陽の光を反射していた。
『多目的ホログラフィック訓練フィールド』、通称、『サンドボックス』。
その内部は、IAROの最新技術の結晶だった。直径2キロメートルに及ぶ広大な空間は、完璧な物理演算と環境シミュレーションによって、あらゆる戦場を寸分違わず再現することができる。今日のサンドボックスは、高層ビルが立ち並ぶ、日本のどこにでもあるような都市の景観を映し出していた。
その仮想の都市の中心、アスファルトの広場で、百名の若き魂たちが、緊張した面持ちで整列していた。
彼らが、この学院の記念すべき第一期生。
世界中から集められた、無限の可能性と、そしてそれと同じだけの孤独をその身に宿した、15歳から18歳までの少年少女たちだった。
「――では、これより本日の実技訓練を開始する」
スピーカーから響き渡る、冷静で、しかし有無を言わさぬ威厳を湛えた声。教官の一人である元IAROのベテラン工作員、佐伯だった。
「本日の訓練内容は、市街地における2対2の模擬戦闘だ。索敵、連携、そして何よりも、周囲の環境を利用した柔軟な思考を試す。……いいか、ここは学校だが、戦場に『待った』はない。全力を出せ。ただし、死ぬな。……それだけだ」
佐伯の厳しい檄が飛ぶ中、その隣で、一人の青年がまるで今日の天気でも確かめるかのように、のんびりと空を見上げていた。
黒い、流線型の戦闘服。その背中には、槍をモチーフにしたIAROの純白の紋章。
神崎勇気。
人類最強の英雄にして、この学院の設立を提言し、自ら特別実技教官の任に就いた、伝説の存在。
彼は、生徒たちの前に立つと、少しだけ照れくさそうに、そしてどこか面倒くさそうに頭を掻いた。
「えー、勇気センセーです。佐伯先生が言った通り、まあ、頑張ってくれ。怪我したら、ちゃんと治してやるからさ」
その、あまりにも気の抜けた激励。
だが、生徒たちの瞳には、絶対的な信頼と、そして憧れの光が宿っていた。
彼らは、知っている。この穏やかな青年が、一度戦場に立てば、神すらも屠る鬼神へと変貌することを。
「第一組、前へ!」
佐伯の声が響く。
生徒たちの中から、対照的な二人の男女が、ゆっくりと前へと進み出た。
一人は、燃えるような赤髪を逆立てた、快活な少年。その全身から、抑えきれない闘志が陽炎のように立ち上っている。
赤嶺健司。スキルは、【発火能力】。
もう一人は、腰まで届く美しい白銀の髪を持つ、クールな少女。その氷のように静かな佇まいは、赤嶺とはまさに対極だった。
姫川怜。スキルは、【氷結能力】。
二人は、この学院の中でも一、二を争う実力者であり、そして最大のライバルだった。
「――始め!」
佐伯の号令と、同時だった。
「うおおおおおっ! 行くぜ、姫川ァ!」
赤嶺が、獣のような咆哮と共に動いた。彼の右手に、バスケットボール大の灼熱の火球が生成される。
「【火炎弾】ッ!」
放たれた炎の塊が、唸りを上げて怜へと襲いかかる。
だが、怜は動じなかった。
彼女は、ただ静かに、その白魚のような指先を赤嶺へと向けた。
「……遅い」
彼女の指先から、マシンガンのように無数の鋭利な氷の弾丸が放たれる。
「【氷結弾】!」
灼熱の火と、絶対零度の氷が、二人のちょうど中間地点で激突した。
轟音。
凄まじい水蒸気が爆発的に発生し、周囲の視界を真っ白に染め上げる。
「うーん……出力が同じだと千日手じゃん!」
蒸気の中から、赤嶺の悔しそうな声が響く。
「なら!」
蒸気を突き破り、赤嶺が怜の懐へと一気に踏み込んだ。その拳には、炎が螺旋を描くように纏わりついている。
「組み手で勝負だ!」
「望むところよ」
怜もまた、その両の掌に氷の刃を生成し、赤嶺の炎の拳を迎え撃つ。
炎と氷が、至近距離で激しくぶつかり合い、火花と氷片を周囲に撒き散らす。それは、もはやただのスキル同士の撃ち合いではなかった。炎熱を纏った空手と、氷結を纏った合気道。異種の武術と異能が融合した、高度な異種格闘技戦だった。
その、あまりにも派手な戦いを、少し離れたビルの屋上から、一人の少年が静かに見下ろしていた。
黒い制服に、黒い髪。その表情は、まるで能面のように何の感情も映していない。だが、その瞳の奥には、盤上の駒の動きを読むチェスプレイヤーのような、冷徹な知性の光が宿っていた。
黒木玄。スキルは、【影操作】。
彼の隣には、赤いリボンで結んだポニーテールが特徴的な、快活な少女が立っていた。特待生の、佐々木莉奈。
「……すごいわね、あの二人。まるで、お祭りみたい」
莉奈は、感嘆の声を漏らした。
「……ああ。派手で、大振りで、そして無駄が多い」
玄は、冷ややかに呟いた。
「なっ……! あなた、少しは素直に人を褒めたらどうなの!」
莉奈が、むっとしたように言い返す。だが、玄はそれに答えず、ただ静かに莉奈の足元に広がる、彼女自身の「影」を指さした。
「……お前の相手は、俺だろ。よそ見をしている暇はないと思うが?」
「――っ!」
莉奈は、はっとしたように身構えた。そうだ、これもまた模擬戦の最中だった。
「いくらあなたが特待生でも、油断は禁物よ!」
莉奈が両手を前に突き出す。彼女の前方の空間がぐにゃりと歪み、不可視の【運動量障壁】が何重にも展開された。戦車砲ですら防ぎきる、絶対的な防御。
だが、玄は動かなかった。
彼は、ただ静かに、自らの足元の影へと、その身をすぅっと沈み込ませていった。
「な……!? 消えた!?」
莉奈が驚愕の声を上げる。
「――後ろだ」
声は、莉奈のすぐ真後ろから聞こえた。
彼女が振り返るよりも早く、彼女自身の足元の影が、まるで生きているかのように蠢き、無数の黒い触手となってその両足へと絡みついていた。
「きゃっ!?」
莉奈は、バランスを崩してその場に倒れ込む。
「これで、終わりだ」
玄が、冷徹に告げた。
「【影縛り(シャドウ・バインド)】!」
莉奈の身体から伸びる影そのものが、実体を持った黒い縄となり、彼女の身体を完全に拘束する。
「そ……そんな……。自分の影に、捕まるなんて……!」
「ああ。俺の影の届く範囲は、俺の絶対的な支配領域だ。お前のその自慢のバリアも、内側からでは意味がない」
玄は、捕らえられた莉奈を見下ろし、そしてまるで舞台役者のように、静かに、しかしはっきりと宣言した。
「――チェックメイト!」
その、あまりにも鮮やかな決着。
それを、少し離れた場所で見ていた赤嶺が、自らの戦いを中断して、思わず叫んだ。
「うわーお前の影縛り強すぎ! 影の範囲内に入ったら詰みじゃねーか!」
その、ライバルからの賞賛の言葉。
玄は、初めてその能面のような表情を、ほんの少しだけ緩ませた。そして、どこか誇らしげに、ふんと鼻を鳴らした。
「へへへ。勇気先生にも褒められたからな、俺の影縛り!」
その時だった。
「――油断するな、黒木!」
教官である佐伯の、鋭い声が飛んだ。
「敵は、まだ一人残っているぞ!」
「え?」
玄が、はっとしたように周囲を見回した、まさにその瞬間。
彼の背後で、拘束されていたはずの莉奈の身体が、まるで陽炎のように揺らめき、そしてすぅっと掻き消えた。
「な……!? 幻……!?」
「――残念だったわね!」
声は、玄の頭上から聞こえた。
見上げると、そこにはビルの屋上の給水タンクの上に、仁王立ちしている莉奈の姿があった。
彼女は、自らのスキルを応用し、運動量障壁で足場を作り、空へと脱出していたのだ。
「あなたのスキルは、確かに強力よ。でも、影がない場所では無力! そして、空には影はない!」
「くっ……!」
玄は、悔しそうに歯噛みした。
その、若者たちの、あまりにも人間的で、あまりにも青臭い、一進一退の攻防。
それを、勇気は少し離れたビルの屋上から、腕を組みながら静かに、しかしどこか楽しげに見守っていた。
彼の隣には、もう一人の教官、元IAROの戦術分析官である老教授、鈴木が立っていた。
「……ふむ。やはり、スキルは相性ですな、神崎君」
「ええ。その通りですね、鈴木先生」
勇気は、頷いた。
「黒木君の『影縛り』は、確かに強力だ。だが、佐々木君の『運動量障壁』は、応用次第で空中での立体的な機動を可能にする。まさに、蛇と鷹。……だが、彼らはまだ、そのことに気づいていない。自らの力が、ただ一つの機能しか持たないと、思い込んでいる」
勇気は、メガホンを手に取った。そして、苦戦している生徒たちに向かって、アドバイスを送る。
「受け流すことを覚えろ! 相手の力を、正面から受け止めるだけが戦いじゃない! 流れを読み、逸らし、そして利用しろ!」
彼のその言葉は、まるで神の天啓のように、生徒たちの脳裏に深く刻み込まれていった。
模擬戦は、数時間にわたって続いた。
サンドボックスの中は、もはや混沌の坩堝だった。
風を操る者が竜巻を巻き起こし、それを大地を操る者が土の壁で防ぐ。
音波で精神を攻撃する者に対し、幻影でその五感をさらに狂わせる者。
様々なスキル同士が激突し、火花を散らし、そして新たな戦術と可能性を生み出していく。
その中で、当然、負傷者も続出した。
「うわああああ!」
赤嶺の、情けない悲鳴が響き渡った。
彼は、怜との激闘の末、彼女が作り出した氷の刃で腕を深く切り裂かれてしまっていた。
「いったー……! 腕が、腕がもげりゅー!」
「はいはい、大げさに騒がない」
その声と共に、彼の元に数名の生徒が駆け寄ってきた。胸に、緑十字のマークを付けた、治癒班の腕章を巻いている。
その中心にいたのは、柔和な笑顔が特徴的な少女、緑川咲だった。
「じっとしてて、赤嶺君」
咲は、そう言うと、赤嶺の傷口にそっとその掌をかざした。
「――スキル【治癒活性化】」
彼女の掌から、温かい、エメラルドグリーンの光が溢れ出す。
その光に照らされると、赤嶺の腕の、その深く、血が溢れ出ていたはずの傷口が、見る見るうちに塞がっていく。
ほんの数十秒後、そこには傷跡一つ残っていなかった。
「おお……! すげえ! さすが、咲ちゃん!」
「だから、無茶しないでって言ってるでしょ」
咲は、少し呆れたように、しかしその声は優しかった。
だが、その優しさが仇となった。
「おっしゃー! 怪我治った! 模擬戦だー!」
完全に回復した赤嶺は、まるで何事もなかったかのように、その場で元気に飛び上がった。そして、再び怜の方へと駆け出そうとする。
その、あまりにも懲りない少年の背中に、ついに聖女の怒りの鉄槌が下された。
「――馬鹿治ったばかりなんだから少しは自重しなさい!!!!」
咲の、普段の彼女からは想像もつかないほどの、ドスの効いた怒声が響き渡った。
彼女は、どこからともなく取り出した巨大なハリセンで、赤嶺の頭を思いっきりひっぱたいた。
「いってええええええ! な、何すんだよ、咲ちゃん!」
「何するんだよ、じゃない! あなたみたいな戦闘バカがいるから、こっちの身にもなってよ! 私のスキルだって、無限じゃないんだからね! 少しは、自分の身を大切にしなさい!」
その、あまりにも微笑ましい、そしてどこか見慣れた光景。
サンドボックスのあちこちから、くすくすという笑い声が漏れた。
戦場は、一瞬だけ、放課後の教室のような、温かい空気を取り戻した。
やがて、全ての訓練が終了する。
サンドボックスの、仮想の都市のホログラムが消え去り、そこには再び、広大な白亜の空間だけが広がっていた。
汗と、土と、そしてほんの少しの血の匂い。
だが、そこにいる百名の生徒たちの顔には、疲労の色よりも、遥かに強い達成感と、そして明日への確かな希望の光が宿っていた。
彼らは、この日、初めて学んだのだ。
自らの力が、もはや孤独な呪いではないということを。
そして、この世界には、自分と同じ痛みを知り、共に高め合える「仲間」がいるということを。
希望の揺りかごは、確かに、その役目を果たし始めていた。
そして、その揺りかごが、いずれ必ず訪れるであろう、神々の気ままぐれな嵐に耐えられるほど強固なものであるのか。
その答えを、まだ誰も知らなかった。
ただ、その揺りかほごの中で、若き英雄たちの、あまりにも人間的で、あまりにも気高い物語は、今、確かにその第一歩を、踏み出したのだった。