第1話 観測者の覚醒
無機質な電子音が、鼓膜を執拗に震わせる。
それは世界の終わりを告げるファンファーレでも、新しい時代の幕開けを知らせる祝砲でもない。ただ、社会という巨大な機構に組み込まれた一個の歯車が、今日も定刻通りにその役割を果たすことを要求する、ありふれた信号音に過ぎなかった。
スマートフォンのアラーム。設定時刻は、午前六時三十分。
うっすらと目を開けると、見慣れた天井が視界に入る。かつては白かったであろうその色は、長年の月日と、この部屋の主の無関心とによって、今ではどこか所在なげなアイボリーに変色していた。ワンルーム、八畳。キッチンと呼ぶには些か憚られる小さな調理スペースと、最低限の機能しかないユニットバス。三十五歳、独身男性の城としては、あまりにわびしく、そしてありきたりな空間だった。
男の名は、空木 零。
都内の凡庸なIT企業に勤める、ごく平凡な平社員である。三十代半ばという年齢に不釣り合いなほど若々しい、二十代に見紛うほどの童顔。それが彼の唯一にして、社会生活においてはほとんど無価値な長所だった。それ以外に特筆すべきことは何もない。趣味もなく、熱中できるものもなく、ただ与えられたタスクをこなし、僅かな給料を受け取り、生命活動を維持するためだけに食事と睡眠を繰り返す。彼の人生は、まるで薄めたインクで書かれた日記のように、明確な起伏も鮮やかな色彩も欠いていた。
「……会社、だるいな……」
誰に聞かせるともなく、掠れた声がシーツの海に沈んでいく。それは祈りでもなければ、抗議でもない。ただ、呼吸をするのと同じくらい自然に漏れ出る、生理現象に近いため息だった。今日もまた、同じ時間が始まる。満員電車の揺れに身を任せ、無味乾燥なオフィスビルの空気を吸い込み、蛍光灯の白い光の下で、昨日と大差ない作業に没頭する。意味など考えない。やり甲斐など求めない。思考を停止させ、感情を麻痺させ、ただ「そういうものだから」と自らを納得させる。それが、空木零がこの十数年で習得した、唯一の生存戦略だった。
のろのろと上半身を起こす。軋むベッドスプリングの音が、部屋の静寂を破った。カーテンの隙間からは、遠慮のない朝日が差し込み、空気中を舞う埃をきらきらと照らし出している。まるで、彼の停滞した人生を祝福するかのように。
その時だった。
零の視線の先、何もないはずの空間に、それ、は、あった。
「…………は?」
半透明の、青みがかった板。
縦五十センチ、横八十センチほどの、角の丸い長方形。SF映画に出てくるフューチャー・インターフェースとでも言うべきか。それは物理的な質量を持っているようには見えず、それでいて確かな存在感を放ちながら、彼の目の前に静かに浮かんでいた。埃を照らし出していた朝日が、その板を透かして床に届いている。影はない。
そして、その中央には、凛とした明朝体の白い文字が、一行だけ表示されていた。
『貴方は【スキルを作るスキル】を授かりました』
「…………」
思考が停止する。
いや、もともと活発に動いてもいなかった思考が、完全にその機能をフリーズさせた。
幻覚? 夢の続きか? あるいは、ついに長年の不摂生とストレスが、脳に何らかの異常をきたしたのか。
零は瞬きを繰り返した。何度やっても、目の前のウィンドウは消えない。右に顔を向ければ視界から外れるが、正面を向けば、また寸分違わず同じ場所に鎮座している。彼は恐る恐る右手を伸ばし、その板に触れようとした。指先は、しかし、何の手応えも感じることなく、ウィンドウをすり抜けて向こう側へと突き抜ける。やはり、実体はない。
「ナニコレ……?」
呟きは、誰にも拾われない。
スキルを作るスキル。意味が分からない。ゲームや漫画の世界ならば、それは究極とも言えるチート能力だろう。だが、ここは現実だ。退屈で、理不尽で、しかし揺るがしようのない現実。そんな場所に、こんな非現実的な現象が入り込む余地など、あるはずがなかった。
しばらくの間、零はただ呆然とそれを眺めていた。アラームはとうに鳴りやみ、部屋には再び静寂が戻っている。だが、その静寂は、先ほどまでのものとは質が違っていた。世界の法則に、小さな、しかし致命的な亀裂が入ってしまったかのような、不穏な静けさだった。
「……うーん、何だこれ……」
混乱は、やがて冷めた好奇心へと変わっていく。
もし、これが本物だとしたら。
もし、本当に自分にそんな力が与えられたのだとしたら。
使いたい。どうするんだ、これ。
彼の脳裏に、真っ先に浮かんだのは、世界征服でも、大金持ちになることでも、ましてや人助けなどでは断じてなかった。ただ一つ、あまりにも矮小で、切実な願望。
(……会社に、行きたくない)
そうだ。この強烈な倦怠感、出社という行為に対する生理的な拒絶反応。これをどうにかできるのなら、何でもいい。
身代わりでも欲しい。俺の代わりに、あの無機質なオフィスで、意味のない相槌を打ち、面白くもない上司の冗談に愛想笑いを浮かべてくれる存在。俺の時間を、人生を、代わりに消費してくれる誰か。
そうだ、身代わりだ。
(身代わりを作るスキル……出来ろ!)
ほとんど自暴自棄に、強く、ただ強く、心の中で念じた。彼の全存在が、その「会社に行きたくない」という一点の願いに収束していく。それは、彼がこの十数年の社会人生活で、これほどまでに純粋な形で何かを望んだ、初めての瞬間だったかもしれない。
その時、目の前のウィンドウに変化が起きた。
既存のテキストがすっと消え、まるでタイピングされるかのように、新しい文字列が次々と現れる。
▶ スキル概念の指向性を確認……
▶ 要求概念:『身代わり』
▶ パラメータ分析……要求権限レベルをクリア。
▶ 最適なスキル形態を検索……
▶ 検索完了。以下のスキルを生成します。
そして、ウィンドウの中央に、新しいテキストがくっきりと表示された。
『スキルを作成しました:【影分身の創造】』
「…………おっ」
思わず、声が漏れた。
本当に、できた。
まだ半信半疑ではある。だが、目の前で起きた現象は、これがただの幻覚ではないことを雄弁に物語っていた。
【影分身の創造】。なんとも厨二心をくすぐる、しかし今の彼にとっては神の福音にも等しいスキル名だった。
「できた、できた……じゃあ……」
次の段階だ。スキルは作られた。ならば、次はそれを使わなければならない。
どうやって? 先ほどと同じか?
零は、自分の足元、朝日によって床に伸びる、自身のぼんやりとした影を見つめた。
心臓が、少しだけ速く打つ。
(影分身を、一体……出ろ!)
再び、強く念じる。
すると、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。
床に落ちていた彼の影が、まるで黒い水たまりのように、ゆらりとその輪郭を揺らした。次の瞬間、その影がぬるりと、まるで意思を持ったかのように、三次元空間へと立ち上がり始める。黒い、粘液質な何かが、人型を形成していく。それは一切の音を立てず、ただ静かに、しかし圧倒的な現実感をもって、空木零という人間の形を寸分違わずトレースしていく。
黒い塊は、やがて肌の色を得て、髪の毛が生え、そして零が昨夜脱ぎ散らかしたままの、安物のスーツをその身にまとっていた。
ほんの十数秒。そこに立っていたのは、もう一人の空木零だった。
顔も、身長も、体型も、そしてその目に宿る、生気の欠片も感じられない、諦観しきった光も、全てが同じ。鏡を見ているかのような、完璧な複製。
「おー……できた、できた……」
零は、ベッドの上からその光景を呆然と見つめ、乾いた笑いを漏らした。
もう一人の自分は、微動だにせず、ただ静かにこちらを見つめている。その瞳には、感情というものが感じられない。命令を待つ、精巧な人形。
「じゃあ……」と、零はベッドから降り、自分の分身におずおずと話しかけた。「仕事、頑張ってね」
すると、分身はこくりと頷き、零と全く同じ、しかし感情の乗らない平坦な声で答えた。
「了解した、本体」
その言葉に、零は妙な満足感を覚えた。
分身は、くるりと背を向けると、手慣れた様子で部屋の隅に置いてあるビジネスバッグを手に取った。そして、玄関へと向かっていく。その一連の動作には、一切の迷いがない。まるで、長年そうしてきたかのように自然だった。
玄関で靴を履く分身の背中を見ながら、零はふと、あることに気づいた。
「あっ……」
朝食。いつもなら、ここでコンビニで買っておいたパンか何かを口に押し込み、コーヒーを流し込むはずだ。だが、分身はキッチンには目もくれず、そのまま出ていこうとしている。
それを指摘すべきか、と零が思った瞬間、彼の脳内に、情報が流れ込んできた。
それは言葉でも映像でもない。ただ、純粋な「情報」の羅列。
曰く、『影分身は本体の影から生成された概念存在であり、物理的な食事を必要としない』。
曰く、『活動限界は、本体の意識が及ぶ範囲内であれば、約二十四時間』。
曰く、『受けたダメージや疲労は、存在が消滅する際に一定割合が本体にフィードバックされる』。
……などなど。
(……ご飯はいらないみたいだね。なんか、そう感じるよ)
口に出す必要はなかった。分身のステータスが、まるで自分の手足の情報を把握するかのように、自然に理解できたからだ。
へー、便利だなぁ。
零は心の底からそう思った。
分身は、ドアノブに手をかけ、軽く会釈すると、ガチャリ、と音を立てて外の世界へと出ていった。やがて、アパートの階段を降りていく足音が聞こえ、それもすぐに聞こえなくなった。
後に、彼は様々な異名で呼ばれることになる。
ある者は、彼の行いを指して、『最悪の邪神』と呼んだ。
ある者は、その存在そのものが人類の罪の顕現であるとして、『人類悪』と断じた。
またある者は、彼が人間の欲望から生まれたことを認めつつも、その超越的な力を畏れ、『人類が生み出した神』、あるいは『観測するだけの邪神』と称した。
そして、幾多の世界をループし、彼の存在を認識した極僅かな者たちは、血の涙を流しながら、彼をこう呼んだ。『存在を許してはいけない、虚無の邪神』、と。
だが、今の彼、空木零は、そんな未来など知る由もない。
彼はただ、自分が行かなくてもよくなった会社のこと、そして手に入れたこの奇妙で便利な力のことだけを考えていた。
部屋には、再び静寂が戻る。しかし、それはもはや、昨日までの退屈な静寂ではなかった。
空っぽだった彼の人生という器に、初めて「可能性」という名の、底なしの液体が注がれた瞬間。
それが、全ての始まり。
空木零という、一人の平凡な中年男性の、初めての朝だった。