第8話 ホブゴブリンの洞窟へ、再び涙は置いてきた。
森の奥深く、霧に包まれたホブゴブリンの洞窟。
そこは、かつて勇者アレス・スカーレットが命乞いし、泣きながら逃げ出した場所だった。
けれど、もう逃げる理由はない。
「ヒメリア」村での日々。
剣を教えてくれたティリス、料理を一緒に作ったデフリー。
武器の整備を教えてくれたエミリー。筋トレで心も体も支えてくれたコニちゃん。
自分には、帰る場所と、背中を押してくれる師匠たちがいる。
「……行ってきます」
そうつぶやいて洞窟へ足を踏み入れるアレス。
湿った空気。低く唸るような風の音。
空気が、戦いの匂いを含んでいた。
奥へと進み、あの日と同じ、広間の扉が目の前に現れる。
重たい扉を押し開くと玉座の間
「ボスーッ! またあの泣き虫女勇者が来ましたよ!」
奥の玉座に控えていたゴブリンの一団がざわめく。
そして、玉座の上にゆっくりと立ち上がる影。
ごつい体躯、鋭い牙、重厚な棍棒を握る腕。
影の奥から、低く笑う声が響いた。
「ふふ……よく来たな、勇者よ」
その声には、不思議な余裕と懐かしさが混じっているようだった。
「貴様の運命は、ここまでだ! 死ねぇぇぇぇッ!!」
怒号とともに、魔力をまとった棍棒が地を砕く。
玉座の間に、再び恐怖と勇気が交差する。
そしてその中心に、ホブゴブリンのボス護が、仁王立ちしていた。
「死ねぇぇぇぇッ!!」
玉座の間に、重たい咆哮が響いた。
棍棒が地面に叩きつけられ、岩の床がビリリと震える。
だが、それは威嚇。ボスとしての恐怖の演出だ。
“前座のボス”としての、護の役目だった。
アレスは剣を構え、震える足をぐっと踏みしめる。
「私は……もう泣かない。逃げない! 私には4人の師匠たちがいるんだから!」
叫びながら走り出す。剣を振る。その軌道は、まだ未熟で粗い。
だが、あの日より確実に“まっすぐ”だった。
護は、剣を避けようとしなかった。
不格好な突きが、自分の胸を叩く。
(あー……これは痛くないけど、押されたな。よし、倒れるぞ)
「ぐはぁッ!!? な、なぜ……この俺が……こんな小娘に……ッ」
大げさに仰け反り、スローモーション気味に崩れる。
後頭部をぶつけないよう注意しながら、劇的に倒れ込んだ。
――ドサッ!
静寂の中、勇者アレスは立ち尽くしていた。
剣を持つ手が、細かく震えている。
「……た、倒した……の?」
「お前、すごいぞ!!」
デフリーが駆け寄ってくる。続いて、ティリスとエミリー、コニちゃんも。
「見事な構えだったわ」ティリスが微笑む。
「最後の一撃、ちゃんと刃が乗ってた」エミリーが頷く。
「おにぎりパワーが効いたね!」コニちゃんがぴょんぴょん飛び跳ねる。
アレスは信じられないように師匠たちを見回した。
「わ、わたし……ほんとうに、倒したの……?」
「ホブゴブリンを倒したとも!」
師匠たちが口々に祝福する。
玉座の奥、倒れた護はひっそりと目を開け、口元をゆがめた。
(あの泣き虫が、ここまで……。たった数日で。まったく、大した奴だよ)
(……でもまあ、努力ってのは、報われる場があってこそ、だよな)
(ま、負けたふりくらい、してやらなきゃ……師匠たちの顔、立たねぇし)
心の中でそうつぶやいて、護はそっと目を閉じた。
まるで“役目”を終えたように。
玉座の間には、仲間たちの笑い声が広がっていた。
この世界で勇者アレスとしての第一歩が、ようやく始まったのだった。