3.日常
家に帰ってからも、彼女の姿がふと脳裏に浮かんだ。
名前も知らないはずなのに、まるで以前から知っていたような感覚だけが、じんわりと胸に残っていた。
翌朝。
目が覚めると、カーテン越しに差し込む朝の光が、部屋をやわらかく照らしていた。
日差しはあるけれど、空気はまだ冷たい。春は、足踏みをしている。
春休みが何日目かなんて、もう曖昧になっていた。
スマホには、友人達からの通知がいくつか届いている。
『駅前のカフェ来ない?』『カラオケ行くやつ集まってる』
既読だけつけて、スマホ画面を閉じた。
別に嫌いなわけじゃない。
声をかけてくれる連中とは、それなりにうまくやれていると思う。
ただ、それ以上に踏み込みたいと思ったことがない。
どうせ、何を話しても、すぐに忘れてしまうような会話ばかりだ。
その場は楽しい。でも、あとには何も残らない。
ただ、それを見透かすように消したはずの画面が光り、一件の通知が表示されてた。
『和音は絶対来い。既読つけてんの分かってるからな』
そんなメッセージに、多少のだるさを感じながら、
「……ほんと、暇なんだな」
と小さくつぶやいて、適当なスタンプで返事を済ませた。
出かけるにはまだ時間が早い。
昼頃に行けばいいか。
そんなことをぼんやり考える。
天井を見つめながら、不意にあの丘の空気を思い出した。
乾いた風。
色の少ない木々。
少しだけ冷たい静けさ。
ーー今日も、あの場所は変わらず、そこにあるんだろうか。
時間を見ると、まだ午後の早い時間だった。
でも、動こうと思えば動ける時間だった。
スマホに連絡は来ていたが、返信はしないまま、立ち上がる。
薄手の上着を羽織って、玄関へ向かった。
ちょうどそのとき、母が買い物袋を抱えて帰ってきた。
「あら、出かけるの?」
「うん。ちょっと、外に」
それだけ答えて、ドアを開ける。
いつもと変わらない家の中から、少しだけ違う空気のなかへ。