1-2.丘
彼女は、僕に気づいていたのかいなかったのか、
ただそこに、ふわりと立っていた。
冬と春のあわいをまとうように、静かに。
しばらく、何も起きなかった。
声もなく、動きもなく。
けれどその沈黙は、ひどく優しかった。
まるで、音楽が始まる直前の、息をひそめた時間のようで、
触れれば壊れてしまいそうな、張りつめた静けさが、そこにあった。
気づけば、心が少しずつ熱を帯びていた。
理由はわからない。ただ、目が離せなかった。
その存在のすべてが、どこか現実ではないように思えた。
それなのに、どうしてだろう
見つめるほどに、胸の奥がざわめいていく。
僕は立ち上がった。言葉もなく、ただ彼女の隣に立つ。
木の影が、二人の足元に重なる。
その瞬間、たしかに、何かが始まっていた。
彼女がこちらをゆっくりと見た。
目を細めたその表情は、微笑みにも、哀しみにも見えた。
まるで──どこか懐かしさを帯びたまなざしで。
けれど、彼女の唇は一言も語らなかった。
僕もまた、声を出せなかった。
言葉にすれば、この空気が崩れてしまう気がして。
彼女の輪郭が、今よりも遠ざかってしまう気がして。
沈黙は名もなき約束のように、そっと二人の間に流れていた。
やがて、彼女は静かに歩き出す。
僕は、躊躇いもなくその背中に続いた。
なぜだろう。
彼女を見送る、という選択肢が最初からなかった。
理由はまだわからない。
ただ、確かに思った。
この手が届かなくなる前に
この光が消えてしまう前に、
今ーー触れておかなければいけない。
その感情だけが、ずっと胸の奥で震えていた。