8.2
ざわついていた教室に、担任の声が響く。
「じゃあ、席に着いたところで……えっと、黒板見えにくいとか、目が悪い子がいたら前の席と交代してもいいよー。動きたい人、いる?」
何人かの手が上がり、小さな移動が始まる。
騒がしさが一瞬、増した。
そしてーー
「あ、ごめんね、ちょっと詰めて。そこの席、一個ずつ後ろにずらしてもらっていい?」
その“たった一言”で、運命の配置が変わった。
ーー雫の隣。
そこに、和音が座ることになった。
(……何なんだよ、これ)
動揺が喉元までせり上がる。
それでも顔には出さない。机を持って静かに移動し、雫の隣の席に収まる。
距離は、近すぎるほど近い。
手を伸ばせば触れてしまいそうな距離。
彼女の呼吸が、わずかに聞こえる気がした。
しかし、雫は何も言わない。
窓の外を見ている。
和音も、そのまま何もなかったように前を向いた。
席替えが一段落し、担任が手を叩いて注意を促す。
「はいはい、じゃあ静かにしてー。ホームルーム始めます。まずは自己紹介からいこうか。一人ずつ、その場でいいから」
また、ざわつきが戻る。
和音は無意識に隣を意識していた。
ーー知られたくない。
願うように。
祈るように。
浮世離れしたその雰囲気。
白く透き通る肌。長く揺れる黒髪。淡い光をまとったような静かな存在感。
如月雫は、間違いなくとんでもない美少女だった。
和音の視界の端で、雫はただ座っているだけ。
けれどそれだけで、教室の空気が少し違って見えた。
(誰にも、気づかれたくない)
そう願っていた。
そしてーー
ついに、彼女の番が回ってくる。
椅子を引く、静かな音。
教室のざわめきが、自然と収まっていく。
そして、教壇に立った雫の口から、静かで凛とした声が響いた。
「如月雫です。……佐伯中学校から来ました」
聞いたことのない中学の名前に、数人が小さく顔を見合わせる。
都会の学校らしい。誰も知らない。
そして、誰もまだ彼女の“存在”にうまく言葉を与えられていない。
そのまま、雫の自己紹介はあっけなく終わった。
拍手が起き、何人かが「よろしくー」と声をかける。
何も起きなかった。
驚くほど、何も。
(……良かった)
和音は、知らず知らずのうちに肩の力を抜いていた。
そして、ほんの少しだけ視線を隣に向ける。
その瞬間ーー
雫が、こちらを見ていた。
くすぐったそうな顔。
いたずらが成功した子どものような、無邪気な笑み。
そして、誰にも聞こえない小さな声で、唇が動く。
「……はじめまして、沢城くん」
まるで、秘密を共有するような距離で。
まるで、前から知っているような瞳で。
和音の心臓が跳ねた。
(……やめろよ)
口ではそう思った。
けれど、もう手遅れだった。
感情が、胸の奥で暴れている。
平然を装うだけで精一杯だった。
「……からかうなよ」
ようやく絞り出した声は、驚くほど乾いていた。
言葉になっただけでも奇跡だった。
雫はまた、ふっと笑って前を向いた。
和音はそれを横目で追うこともできず、机の木目だけを見つめていた。
思考が止まっていた。
ただ、彼女の「はじめまして」が、頭の奥で何度もリピートされていた。




