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逆さまの蝶  作者: あさき
21/22

8.1

チャイムが鳴るまでの時間、教室はざわめいていた。

新しいクラスに緊張する空気と、久しぶりに再会した中学の友人たちの騒がしさが、入り混じっている。


「なー、沢城! おまえの席ってどこ?」

田中が笑いながら肩を叩いてくる。和音はその指差す方向に視線を向けた。


「ん……そこ」

短く返して、前列の席に鞄を置く。

雫の斜め前、少し距離がある位置。


(……結構近いな)


これ以上近づくと、呼吸が保てない気がした。

これ以上遠いと、彼女の姿が見えなくなる気がした。


その間に座る数秒のうちに、何人かのクラスメイトが和音の近くに集まってくる。

「え、てか中学どこ?」「あれ、田中の友達?」「イケメンじゃん」

知らない女子や男子の声が飛び交う。


田中が照れたように笑いながら言う。

「こいつ、寡黙系だから。話しかけても『ああ』くらいしか返ってこないけど、悪い奴じゃないってフォローしとくわ」


「クール系ってやつだ」

誰かが冗談めかして言い、笑いが起きる。


和音はその輪の中にいながら、ほとんど何も聞いていなかった。


ーー視線が、ぶつかった。


ふとした拍子だった。

誰かの声に合わせて顔を上げたとき、彼女の顔が、正面にあった。


長い髪のすき間から覗いた瞳が、まっすぐこちらを見ていた。


「……!」


思考が止まった。

けれど、彼女の表情はどこか柔らかかった。

驚いたようでもなく、怯えたようでもなく、ただ静かにーー微笑んだ。


ほんの少しだけ、口元が緩んだ。

それだけの笑顔だった。

でも、和音にはそれが、世界を揺らすほどの重さを持っていた。


(……気づいたんだ)


誰にも気づかれずに見ていたつもりだった。

けれど彼女は、ちゃんとこちらを見ていた。

認識して、笑ってくれた。


「おーい、沢城。聞いてんのか?」

田中の声が飛んできて、和音は軽く目を細めて頷く。


「ああ」

ただ、それだけ。


平然を装う。

いつもの自分を演じる。

誰にも気づかれないように、雫に視線が集まらないように。


自分が日常の一部であるふりをして。

この教室という舞台の、何の変哲もないひとりでいるふりをして。


心臓がうるさい。

だけど、顔は動かさない。


それが——今、彼女を守る唯一の方法だと思った。

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