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入学式は、退屈だった。
校長の話は長く、声は平坦で、眠気を誘う。拍手のタイミングすら、もはや形式にしか思えない。
周囲の誰かがあくびを噛み殺し、誰かが姿勢を崩して座る中で、和音はずっと静かに座っていた。
意識だけが、どこか遠くに浮いたまま。
式が終わると、生徒たちはそれぞれのクラスへと移動を始めた。ざわざわとした足音と話し声が、狭い廊下に渦巻く。
一年B組の教室。
開け放たれたドアの向こうには、すでに数人の生徒が席を選び、友人同士で騒ぎ始めていた。
和音も何となくその流れに乗って教室に入る。周囲にはまたしても見知った顔がちらほら。
田中が後ろから肩を叩いてきたが、和音は曖昧に笑ってみせるだけだった。
そして——気づいた。
その教室の、窓際の一番後ろ。
静かに座っていた、一人の少女。
長い髪が、顔の輪郭を隠している。
指先が、机の縁をなぞるように小さく動いている。
外を見ているのか、見ていないのか。その視線の先は曖昧で、けれどその姿に、和音の胸は急激に締めつけられた。
そこにはーー如月雫の姿があった。
頭で考えるより早く、心が彼女の存在に気付く。
現実味がない。
いや、それ以上に——現実であることが、恐ろしく感じた。
心臓が止まりかけた。
けれど次の瞬間には、まるで追いつくように脈が跳ね上がった。
嬉しさ、驚き、信じられない——そういう感情が一気に押し寄せてくる。
だけど、いちばん強く浮かんだのは……。
(……この場に、いてほしくない)
教室にあふれる無数の視線。誰かが彼女の存在に気づき、話しかけるかもしれない。
名前を知り、笑いかけ、隣に座るかもしれない。
(誰にも、知られてほしくない)
心の奥でそう叫びながらも、和音は立ち尽くしたまま、彼女から視線を外せなかった。
雫は、和音の存在に気づいていない。
当然だ。
こんなざわついた教室の中、彼女はずっと静かに外を見ている。
まるで、この教室という現実にもまだ触れていないように。
「……っ」
静かに息を呑む。
かつての彼女は、和音にとって非現実だった。
淡い夢のようで、静かな夜の中だけに存在する、誰にも触れられない場所にいたはずだった。
それが今、目の前の「日常」にいる。
変わらない姿で、何も知らない顔で、教室の光の中に座っている。
和音は、席に向かうふりをしながら、何度も彼女を盗み見た。
誰にも気づかれずに。
誰にも悟られずに。
まるで、何か大切な秘密を守るかのように。




