1.丘
薄曇りの空の下、沢城和音はひとり、初めて訪れる丘へと向かった。
そこは風景の中に、ひっそりと佇む一脚のベンチだけが、無言の物語を語る場所。
まだ冬の冷気を秘めた風が、頬をそっと撫で、春の兆しをほのめかすように漂っていた。
和音は、はっきりとした理由があるわけでもなく、ただその日だけはこの場所へ行きたかった。
漠然とした気持ちに身を委ね、ベンチに腰を下ろすと、本ではなく楽譜を手に取った。
五線譜に記された音階は、彼の心に届くことなく、ふと胸に広がるかすかな虚しさだけを残す。
幼い頃から、彼は鍵盤の前に座ることに慣れていた。
中学を卒業するまでは、ただ惰性的に、なんとなく弾き続けた日々。
そして、今日がその最後の日だ。
小さな決意と共に、ふと彼は呟いた。
「……まあ、よく続けた方かな」
その言葉が風に乗って消える頃、和音の視界の端に、一人の少女が現れた。
薄曇りの空の色を背に、彼女は静かに、白いコートをまとい、ベンチの向こう側に立っていた。
どこか儚げな表情とともに、少女の存在が、まるで冬の名残と春の息吹とを重ね合わせるように、柔らかく差し込む光となって和音の心を打った。
言葉を交わすことなく、ただ互いの存在を感じるその瞬間、二人はしばし静寂の中に溶け込んだ。
和音は、これまで紡いできた音楽の日々が、今新たな一ページへと続く予感を覚えながら、ゆっくりと少女へと視線を向けた。