5.変化
翌日。
風は昨日より少しだけあたたかくて、空には雲ひとつなかった。
和音が丘の坂を登ると、やっぱり、彼女はいた。
白いコートの裾をひらひらと揺らしながら、ベンチの背に肘をかけて空を見上げている。
その姿はまるで、季節の中に溶け込んでいるようで、
どこか現実じゃない世界から迷い込んできたような、不思議な存在感をまとっていた。
「来たんだ」
「……うん」
和音が隣に座ると、雫は顔を向けて、小さく笑った。
「今日の空、なんだかミルクみたいじゃない?」
和音は少しだけ眉を上げて、空を見上げる。
淡い水色に、ほんのり白がにじんで、どこかやわらかい。
「……ミルク、ね」
「そう。ミルクに、すこーしだけ青インクを混ぜたみたいな感じ」
「なんか、分かりやすいな」
「ふふ」
嬉しそうに雫が笑う。
つられて和音も、くすりと笑った。
「じゃあ……昨日の空は?」
「うーん……昨日はね、
レモンシャーベット、かな。
冷たくて、ちょっとすっぱい」
「例えのクセ強いな」
「沢城くん、真顔でつっこむのズルいよ」
無邪気に笑う雫の声が、風に乗ってやわらかく響いた。
沈黙が訪れても、それは気まずさじゃなく、ただ心地いい間のように流れていく。
「……如月さんは、音楽とか聴くの?」
ふと和音が尋ねると、雫は目を輝かせてうなずいた。
「聴くよ。最近はね……雨の音とか、焚き火の音とかばっかり聴いてる」
「環境音?」
「うん。なんか、気持ちが落ち着くから」
「……それ、わかるかも」
「ほんと?」
嬉しそうに頷く彼女の横顔を見て、和音はふと胸の奥が静かにあたたかくなるのを感じた。
「沢城くんは? なんか、こう……好きなものとかある?」
「……落ち着く時間、かな」
「ふふ、らしいね。君って、風が止まったときみたいな人だもん」
「それって……静かすぎるって意味?」
「ううん、違うよ。
止まった風って、なんだか次の瞬間に、何かが起こりそうでしょ?
静かだけど、ちゃんと“動いてる”感じ」
和音は言葉に詰まりかけて、でもすぐに小さく笑った。
「……そんなこと、言われたの初めて」
「ふふ」
手を口に当てて、くしゃりと微笑む。
「沢城くんのこと、ちゃんと見てるもん」
その言葉に、どこか胸の奥がじんわりと熱くなる。
こんなふうに、会話のひとつひとつがどこまでも自然で、
だけど何気ない一言で、心がふわりと揺れる。
そんな時間が、静かに確かに、和音の中に積もっていった。
風が丘を吹き抜け、春の匂いをふたりの間に残していった。
ーー好きという感情が、少しずつ形を帯びていく。
雫という存在が、ただの“誰か”ではなくなっていくのを、
和音は自覚していた。