4-5.非日常
彼女の「君に会えるかなって思って来たの」という言葉が、まだ胸の奥に残る。
僕は何も言えずに、ただ静かに微笑みを返すしかなかった。
それだけで精一杯だった。
けれど彼女は、僕の沈黙を否定しなかった。
むしろ、受け止めるように、そっと言葉を重ねてくれる。
「なんか変、だよね」
ちゃんと名前も知らないのにさ」
「……和音だよ。沢城 和音」
名乗った瞬間、彼女の目がぱっと見開かれる。
「和音くん……うん、似合ってる」
彼女は小さく笑いながら、ベンチの上で指を少しだけ寄せる。
僕もそれに気づかないふりをしながら、同じように手を近づけた。
指先が触れそうで、まだ触れない。
けれど、今のこの空気は、それだけで充分だった。
「……じゃあ、君の名前も教えて」
その問いかけに、彼女は少し迷ったように目を伏せたあとーー、
小さく、でもはっきりと名前を口にした。
「私は雫、如月雫」
まだ始まったばかりの、彼女との距離。
けれど確かに、今、少しだけ近づいたことを実感していた。
「……そっか」
それだけを、少しだけ照れたように、けれど確かに伝えた。
雫は何も言わず、ただ微笑んでいた。
風がふたりの間をそっと通り過ぎていく。
その風までもが、どこか優しく思えた。
ーー3月が、終わりに近づいていた。
けれど、ふたりの時間は、まだ始まったばかりだった。