24,雨の日の悪夢に浸りまして
「はっ……!? あ、雨……」
フルールは雨の音で目を覚ました。
どうやら外は土砂降りらしく、地面を打ち付ける雨音が響いている。
肌が嫌にじっとりしているのは、雨のせいで湿度が高いせいか、それとも夢見が悪かったせいか。
マリーや侍女達もまだ起きていない夜明け前。
フルールは額に張り付いた前髪を払うと、静かにベッドを抜け出した。
カンテラを手に、暗い廊下を進む。
そうして目的の場所に着いてみると、何故かその部屋の扉は薄らと開いていて、隙間から微かな明かりが漏れていた。
こんな時間に誰が……?とフルールが覗き込むと、薄暗い部屋の中、蝋燭の光が照らす後ろ姿はジスランのように見える。
雨の音に紛れて扉を開き、部屋へと入ると扉をしっかりと閉めた。
ガチャリと閉まった音に気付いたジスランは、ハッと顔を上げこちらを振り返る。
まるで赤い四つの瞳がこちらを見ているようだった。
「……鬼ごっこもこれで終わりか」
「隠れんぼではありませんか?」
「どっちにしたって、お前が両方とも不得手なのはよく分かったよ」
ジスランの淡々とした声に、フルールはこれまでの失態から口をへの字に曲げた。
「それで? こんな時間にまでわざわざ俺を探しに来たのか?」
「いえ、今は決して探す意図はありませんでしたわ。少し……夢を見て」
「あぁ、お前もか」
フルールはジスランの「お前も」の言葉に目を見開き、そして瞳を潤ませた。
手招きされ、応じるように中へと進む。
示された通りにソファへと腰かけ、フルールは顔を持ち上げた。
ジスランも同じようにそれを見る。
「あの日もこんな雨だったからな。――母上が亡くなったのは」
「……そう、ですわね」
見上げた先に飾られているのは、亡き母の肖像画。
ここはジスランとフルール二人の母である、ルイーズが生前使っていた部屋だ。
――そう。
春の社交の時、領地からタウンハウスに来ていたのがレジスとジスランだけだったのは、決して母が領地の番をしているからではない。
そもそも二人には、既に母が居ないのだ。
レジスの希望でそのまま残されたこの部屋には、遠い過去に失ったはずのルイーズの面影が残りすぎていて、更に飾られた肖像画を見ては胸を痛めてしまうため、滅多に近寄ることはない。
明るく天真爛漫だった母。
丁度今の季節、こんな雨の日に彼女が失われてから、兄妹の仲も、家族の関係も、歪むようになってしまったのだ。
レジスはメルレ家の跡取りでありながら、どちらかと言えば体を動かすのが不得意で、勉学や執務の方が得意な令息だった。
執務を苦に思わないので当主としては悪くないのだが、メルレ領ではどうしても視察が付き物となる。
馬に乗って領内を見て周り、時には領民の手伝いのため土まみれにならなければいけない。
そんなレジスを補うため、ルイーズとの婚約が進められたのだ。
ルイーズはとても快活で、馬をも見事に乗りこなす子爵家の令嬢だった。
二人はまるで対照的だったが、いつまでも少女のように明るく太陽のようなルイーズにレジスはすぐに惹かれ、ルイーズも落ち着きのあるレジスに心を許し、自分にはないものを多く持つ彼を尊敬していた。
そうして二人は結婚し、ジスランとフルールが生まれたのだ。
メルレ家は更に賑やかになり、幸せな日々を過ごしていた。
容姿はレジスによく似て、瞳の色だけルイーズ譲りのジスラン。
容姿はルイーズによく似て、瞳の色だけレジス譲りのフルール。
中身は二人ともルイーズに似たのか元気いっぱいで、けれど身体能力が秀でたのはジスランだった。
フルールはお転婆なだけで非常に鈍臭く、そんなフルールをルイーズやジスランはいつだって気にかけ優しく接し、レジスはその姿を見守っていた。
そうしてメルレ家は温かな家庭を築いていく――はずだった。
ルイーズが視察の帰りに亡くなってしまうまでは。
ルイーズが視察に出ていた日、酷い夕立が過ぎ去っても一向に帰ってこない彼女の身を心配し、次の日の早朝、レジスはすぐにルイーズの視察先に訪れた。
しかし領民から「夫や子供達が待っているからとおっしゃって、昨日雨の中、馬で戻っていかれましたが……」と聞かされ、レジスはすぐに捜索隊を編成し派遣した。
視察先に向かう道中、小さいとはいえ山がある。
何事もなければいいと誰しもが願っていたが、見付かったルイーズは既に事切れた後だった。
近くにはルイーズが乗っていた馬も同じく倒れており、状況から察するに、馬が泥濘で足を滑らせてしまって、そのまま一緒に崖から落ちてしまったようだった。
屋敷に戻ってきたルイーズの亡骸に、レジスは縋り付いて泣き叫んだ。
捜索隊の部下達も悔しげな表情や涙を流している者ばかりで、どれだけルイーズが慕われていたかを表していた。
そこへレジスの悲痛な叫び声に釣られて、フルールが顔を覗かせた。
「お……かあ、さま……?」
ジスランがその背を追い、その目を塞ぐように抱き締める。
「見るな、フルール!!」
けれど、風呂上がりのように濡れた髪に、生気を失った肌の色で横たわるルイーズの姿を、フルールはしっかりと見てしまった。
「おかあ……さま? いや……っ、いやぁっ! お母様っ!? お母様ーーっ!!」
フルールはジスランの腕の中で藻掻き叫んだ。
叫び狂うフルールをエンゾが抱き上げ、子供二人は別室へと移されたが、フルールの心は壊れてしまった。
ジスランが八歳、フルールが六歳の頃に起きた、痛ましい事故だった。
ルイーズを失ってから、レジスはこれまで彼女に任せていた領地視察を全て背負わなければならなくなった。
レジスはルイーズを失った悲しみを頭から追いやるために、視察と執務に明け暮れる日々を送り始める。
ジスランやフルールの様子は、家令や使用人から上がってくる報告をぼんやりと聞き流す程度。
忙しさを言い訳にして、レジスはルイーズの面影を残す子供達と距離を取り始めてしまったのだ。
ジスランはというと、そんなレジスの姿を影から見ていた。
そしてジスランはルイーズの穴を早く埋められるようにと、必死で学び始めるようになる。
しかしルイーズに似て勉学が苦手なジスランは、人が一回やれば学べることを二~三回やらなければ身に付かなかった。
そもそもまだ十歳にも満たない少年がいち早く大人になりたいと、レジスを支えられるようになるためと言って、年齢より高度なものを学ぼうとしているのだ。
本人が望むより進捗が遅かったとしても致し方ないだろう。
それでもジスランは、自分の不甲斐なさを嘆きながら、好きだった乗馬や剣術の時間を削って、勉学の時間に当てるようにしていた。
そしてフルールは、ルイーズを亡くしてから部屋に引き籠り、ベッドで泣き暮らしていた。
脳裏では今も鮮明に元気な母の姿を思い描けるのに、最後には雨に濡れ、血の気を失って眠る姿に変わってしまう。
その現実が辛くて、フルールはまともに食事も喉を通らない日々を過ごしていた。
そうしてひと月が経つ頃、フルールは夢を見た。
ルイーズが生きていた時の、懐かしい夢を……。
ルイーズはいつだって、ジスランとフルールを肯定してくれていた。
いつだって明るくて優しく、領民のために尽力するルイーズにフルールは憧れ、そんな母によく似た瞳と性格のジスランのこともフルールは大好きだった。
フルールは覚束ない足取りで二人を追いかけ、レジスはそんな三人を微笑んで見守っている……そんな仲の良い家族風景にフルールは涙を流す。
もう二度と手に入らないルイーズの居る光景を、フルールは噛み締めるように見つめていた。
暫くすると場面が移り変わり、三歳ほどの幼いフルールはルイーズの膝の上に座っていた。
ルイーズは楽しそうにフルールの髪を梳いている。
「フルールはとても目がいいから、きっとレジスやジスランの力になれるわ。物覚えもとてもいいもの。フルールは私より、すぐ頭がよくなっちゃいそうな気がするわ」
「おかーたまより?」
「えぇ。ジスランは私に似てしまったから、勉強には苦労するかもしれないけれど、ジスランはジスラン、フルールはフルールだもの。得意なことを伸ばして、不得意なことを補ってくれる方と結婚すればいいのよ」
「おとーたまと、おかーたまみたいに?」
「そうよ。私とレジスのようにね」
それは昔、ルイーズに言われた言葉だった。
にこやかに微笑んだルイーズは花びらに姿を変え、風に攫われて消えていく。
ぽつんと残されたフルールは、キョロキョロと周りを見回す。
そこには、ルイーズを失ってから家のためと忙しなく働くレジスの姿と、苦手な勉学にも必死で取り組むジスランの姿があった。
部屋に籠り切りでも、当時侍女見習いだったマリーや他の使用人達の話から、二人がどんな生活をしているのかは凡そ予想がついた。
この光景が、今のメルレ家の状況なのだろう。
(わたくしだけがお母様の死に縋り付いて、何もせず泣いていただけだった……。お父様もお兄様も、お母様を失って苦しいはずなのに)
フルールは再びその瞳からぽろぽろと涙を流した。
けれどその涙は、決してこれまでのような後ろ向きな涙ではなかった。
(お母様、心配をかけてごめんなさい。かつてお母様が言ってくれたように、わたくしもお父様やお兄様の力になれるよう、努力しますわ)
祈るように心の中でそう呟くと同時に、フルールは目を覚ました。
そして長らく閉ざしていた扉を開き、フルールは漸く前を向いて歩き出したのだ。




