17,私が恋をまだ知らなかった頃(sideユベール)
私はユベール・カスタニエ。
古く歴史あるカスタニエ公爵家の嫡男として生まれ、跡継ぎらしく両親の望む通り教養を磨き、学問、武道のどちらも劣らぬよう日々研鑽を積んできた。
結果として、歳を重ねるごとに両親からは認められるようにはなったが、不要な視線や声がどこに行っても纏わりつくようになった。
その中でも特に、令嬢の鼻をつくような臭いも、甲高い猫なで声も、全てが煩わしくて仕方がなかった。
そうして親に連れられて出会った令嬢達に拒否反応を示すようになった私は、物語に出てくる王子様のような男ではなく、威厳と威圧感のある寡黙な雰囲気の男になろうと決めた。
そのおかげか、多少は側できゃあきゃあと騒ぐような令嬢は減ったように思う。
だが学園に入学する際、父から「流石に卒業までには婚約者を決めなければいけないぞ」と言われてしまった。
令嬢に忌避感しかない私が、婚約者など見付けられるはずがない。
そう思いながら入学してみれば、ほとんど何処かのパーティーで見たことのある令嬢ばかり。
悪い印象がない令嬢なら一人二人居るが、良い印象がある令嬢など居やしない。
しかも、一つ上の学年に居る王太子殿下には既に婚約者が居て、学園内で一番身分が高く嫡男なのが私だったために、学年問わず多くの令嬢に付き纏われるようになってしまった。
減ったと思っていたのに、倍以上の令嬢が押し掛けてくるようになったと言えばいいか……とにかく私は辟易としていた。
ある日、令嬢達を只管避けて歩いていた時、厩まで来てしまったことがあった。
「カスタニエ様ー?」と探すような声が聞こえ、私は身を隠すためにそこへと入った。
そっと扉の影から令嬢達が消えないかと見ていると「えっ?何してるんです?」と、馬房の掃除をしていた一人の令息が驚いた顔でこちらを見ていた。
それがフルール嬢の兄であるジスラン先輩との出会いだった。
ユベールは素直に「邪魔をして申し訳ない。少し匿って欲しいんです」と言うと、周りで叫んでいた令嬢の声が聞こえたらしく、小声で「カスタニエ……公爵令息?」と私を呼んだ。
首だけで頷くと「あぁ〜〜…」と状況に納得してくれたのか、そのまま何も言わずそこに居させてくれた。
令嬢達も厩の中まで踏み込んでくる勇気はなかったらしく、暫くすると声は別のところへと去っていった。
「人気者は大変ですね」
「貴方の方が学年は上でしょう? 学内では爵位の効力は薄いはずですよ、先輩」
この学園では制服のリボンやネクタイ、あとは着ている運動着のラインの違いで学年が判別出来るようになっている。
ジスラン先輩は一つ上の学年を表す、黒の生地に深緑色のラインが入った運動着を着ていた。
ちなみに当時の三年生は臙脂色、私と同じ学年は瑠璃色のラインが入っている体操着だった。
「やだなぁ。公爵家の令息に敬語使わない日が来るなんて……。あ、俺はメルレ伯爵家の長男、ジスランっていうんだ」
「私はカスタニエ公爵家が長男、ユベール・カスタニエといいます。やだなぁと言いながら馴染むのが早くないです?」
「あはは、そうかな」
話してみるとジスラン先輩はとても気さくな男だった。
私は令嬢に追いかけ回されて困っていたことを正直に話すと、ジスラン先輩も隠すことなく「羨ましいを通り越して恨めしいね!一度言ってみたいよ」と言って笑いながら憤慨していた。
そう言いながらも、彼はこちらの苦労を否定することはなかった。
「そんなに辛いなら、ここのクラブに入りなよ。乗馬クラブ」
「乗馬クラブ?」
「そうそう。そうしたらいつだってここに逃げ込めるし、いくらカスタニエ様に近付きたいからって、厩まで入る度胸のあるご令嬢はそう居ないんじゃないかなぁ。それなりに臭うしね、ここ」
確かに臭う。
厩らしく獣や草、肥料の臭いを全身で浴びていた。
とはいえ私も乗馬は好きだし、公爵家で飼っている馬で遠乗りに行くこともある。
世話をしたことはないが、令嬢の取ってつけたような臭いと耳障りな声を聞くくらいなら、馬を愛でていた方が余程有意義な気がしてきた。
「そう、させてもらいます」
「えっ、本当に!?なんだ、言ってみるもんだなぁ」
そんな軽いノリと勢いで乗馬クラブに入部することになった私は、一年の最初の頃は特に、本当にこの厩に世話になりっぱなしだった。
あまりにもずっと居て馬の世話をしているものだから、余程の馬好きなんだと先輩方から思われていたらしい。
実際には令嬢から逃げるために馬の世話をしているだけ、と途中でジスラン先輩にバラされ、全員から「馬に蹴られろ!」と言われたのをよく覚えている。
私が「誰の恋路も邪魔した覚えはありませんが!?」と言うと、総ツッコミで「お前が相手を選ばないから、令嬢達がお前から狙いを変えないんだ!余り物さえ回ってこないんだぞコッチは!!」と言い返されてしまった。
私はそれから暫く、そんなものまで知るもんかと不貞腐れ、先輩からそれを弄られ続けていた。
今思えばあの頃は少し童心に帰っていたように思う。
乗馬クラブに入る部員は高くても伯爵位くらいで、ほとんどが子爵位や男爵位の者が多かった。
領地で自ら馬に乗る機会が多い者や、御者や厩務員を多く雇えず、馬の世話をある程度自分達で行える必要のある令息達が所属していた。
社交界に出れば話すこともそうないような令息達ばかりで、二年生も三年生も、初めは「本当に敬語じゃなくていいのか……?」とオドオドしていたのに、いつの間にかすっかり先輩面で弄ってくるようになった。
その雰囲気を作ってくれたのも、間違いなくジスラン先輩だった。
私にとってはそれが新鮮で居心地が良くて、とても嬉しかったのだ。
しかし三年生が卒業していき、自分が二年生になった時、入ってきた一年生は私に対してそんな気軽に話すことは出来なかった。
更に二年になったタイミングで生徒会入りをした私は、厩ではなく生徒会室という逃げ場も手に入れたために、乗馬クラブに行く頻度も減ってしまっていた。
先輩や同学年だから許されていたものが、学年的にも一つ上で爵位は公爵位となれば、何か粗相をしてしまったらと一年生達を怯えさせることになってしまったのだ。
その間を取り持ってくれたのも、ジスラン先輩だったのだと思う。
思う、というのは実際には見ていないからだが、同学年の令息達からジスラン先輩が一年生達に「アレだって悩める男なんだぞ?」と言っていたと聞かされた。
何をどう話したかは知らないが、身分の高い怖い男から親近感の持てる男になった……のかもしれない。
そうして少しずつだが一年生達も話してくれるようになってきて、ふと思ったのだ。
私が居る以上に、ジスラン先輩が厩に居ることが多いことに。
確かに元々馬の世話が好きな人ではあった。
だが、見る度に朝から晩までジスラン先輩が厩に居続けていて、去年はこんなに居なかったはずだと違和感を覚えたのだ。
何かあったのだろうか……そう思って聞いてみたことがあった。
「ジスラン先輩、最近ずっとここに居ませんか? 私、先輩より先に来たり後に帰った記憶がないのですが……まさかここに住んでませんよね?」
「そんなわけあるか! ちゃんと家から来ているし、帰っているよ。……顔を合わせづらいのが居るんだ」
ジスラン先輩には珍しく、歯切れの悪い物言いだった。
誰にでも親しみやすく接していく人だから、苦手に思う人が居ることに私はとても驚いた。
「顔を合わせないようにということは、ご家族ですか?」
「そう……妹なんだ。今年から一年生で学園に通うために、領地から出てきてこっちのタウンハウスで一緒に暮らしていてさ」
妹――つまり令嬢だ。
令嬢と、たったそれだけで私は嫌な気持ちになってしまったのだろう。
ジスラン先輩の妹がどんな人間かも知らず、悪質な令嬢なんだろうかと勝手に決め付けてしまい、私はポロッと口を滑らせた。
「先輩が嫌に思うご令嬢ってことは、妹であっても余程酷いんでしょうね」
何気なくそう言うと、気付いた時には私は胸倉を掴まれていた。
「フルールは良い子だ! あいつを馬鹿にするのは、俺が許さないぞ!!」
「えっ!?」
あまりの剣幕に驚き、その通りの反応をした私を見て、ジスラン先輩は慌てて手を離した。
「……ごめん、誤解させたな。お前の言う他の令嬢達と一緒じゃないよ、あの子は。とても……とても良い子なんだ」
そう言ったジスラン先輩はとても悲しそうに笑っていた。
何故――そう聞くのも躊躇われるくらいの悲痛な表情に、私はただ息を飲んで立ち尽くしていた。