瑠璃子の事情
瑠璃子は春仁に嫁いでからはあまり家を出ることが少なくなった。
家での何もない日々を最初こそはのんびりと楽しんでいたのだが、それはすぐに退屈へと変わっていった。
瑠璃子は元々東京の貧困な家で育った。
瑠璃子が十五の時に母が亡くなってからは父が仕事のために家にいなくなることが増え、下の兄弟達の面倒を瑠璃子が見るようになった。
そのため、高校を出ると、瑠璃子は金を常に必要とし、金になることならなんでもやり、瑠璃子の処女は十八の時に、五十代の中年の男に奪われることになった。
真面目気質な彼女はそれでも犯罪には決して手を染めなかった。薬などが近くにある状況でもそれが身を滅ぼすことはわかっていたため、それには目を背け続けていた。自分の体は自分のためにあるのではなく、家族を楽にさせるためにあるのだと思いながら生きていた。
夜は身体を売っていたが、昼間はカフェで仕事をしていた。
休みはほとんどなく、たまの休みでも、街へ出て、自分の身体を買ってくれる男を探し続けていた。
そんな瑠璃子は自分の美貌には昔から気づいており、この手は自分の不幸の代替え品なのだと思っていた。なので男に言い寄られることは慣れており、金を持っているかが男に近づく理由である。
カフェで仕事をしていた時に、ある客の男に声を掛けられた。
「仕事中なので」
流石に仕事の時はそんな事を言っていたが、男の身につけているネックレスや服などからこの男が金持ちであることは明白だった。
そしてこの男がカフェを出て行く際、会計をしていた瑠璃子は小さな声で
「今夜、私空いてます」と言った。
男は目を少し大きく開いたが、驚いた様子はそれ以外見せることはなかった。
「渋谷は行けるかい」
「はい」
「なら、夜の七時にハチ公の前に待ってるよ。君がわかるように、青く目立つジャケットを着ているから」
男はそう言うと、店を後にした。瑠璃子はこの男が金を積んでくれるかを聞くのを忘れていた。
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瑠璃子は頭が良く勉強ができた為、記憶力も良い方であった。そして男の特徴を覚え、この俳優に似ているなどと思いながら記憶をしていた。
その夜に仕事を終えた瑠璃子は一度家に戻ると、服を着替えた。
料理は最近は妹がよくやってくれて、瑠璃子よりも料理の才能があった。
そのため、妹にご飯の支度を任せて、急いで家を飛び出した。
ハチ公に着いたのは七時になる十分前のことであった。
辺りを見回しても昼間の男らしき姿は確認できなかった。
人がたくさんいる場所から男を探すのは容易ではなかったが、青い目立つジャケットがどんなものかはわからないが、それらしきものと男の顔を思い出しながら、通る人を細い目をして凝視しながら立っていた。
たまに声を掛けられるが、待っている人がいると言い断った。だが、それでも付き纏う男はおり、瑠璃子は迷惑がりながら無視を決め込み、そのうちに男は機嫌を損ねてどこかへ行き、人混みに消えた。
瑠璃子のシャツの腕の部分に引っ張られた跡が残り、声を掛けた男に不快感を示した。
五十八分を時計が差した時、肩をとんとんと叩かれた。
全身に電流が走ったように硬直し、後ろを見ると、そこには昼間にあった男がいた。
「お待たせ」
「いえ」
瑠璃子の声は緊張した声になっていた。少しずつ、緊張も解け、安堵してきたが、いきなり、肩を叩くことに瑠璃子は些か馴れ馴れしさを感じずにはいられなかった。
男は瑠璃子をバーへと連れて行った。初めて行くバーに瑠璃子は緊張と戸惑いにより、足先が進むのが遅くなっていた。
瑠璃子はまだ十八であったが、雰囲気に飲まれ、アルコールを飲まざるを得なくなっていた。瑠璃子はそこで白ワインを口にした。男は蒸留酒を飲んでいた。
初めてのアルコールは瑠璃子を今までにないほど饒舌にさせていた。それはアルコールが奏されるのは明白であるが、それと同時に男の持つ柔和的なものがそうさせるのもあった。
そこで瑠璃子は自分の生い立ちを男に洗いざらい全て打ち明けてしまった。これは後日、瑠璃子は悔やみ、思い出すたびに溜息をしているほどであった。
そして生い立ちと共に自分の境遇における不公平さ、その不満を男に言うと、その男は何を言うでもなく、瑠璃子に水を勧めた。
瑠璃子はその水を飲み、しばらくは項垂れていたが、少しだけ、男に対して、申し訳なさに対する後悔が込み上げてきた。
「君、僕とお付き合いしてみないかい?君を夜の世界に行かなくて済むようにするよ」
男がそう突然言ったように瑠璃子は思え、頭の中にはその言葉がこだましていた。
男は金を持っているように見える。瑠璃子自身、この男と付き合えば、知らない男と身体を重ねなくても金を稼ぐことができるのではないか、事実、男も水商売に行かなくてもいいようにできると言っている。
多数の男に抱かれた金を稼ぐよりも、一人の男に抱かれて金を稼ぐ方が効率も良く、瑠璃子自身の精神的なものも幾らか安らぐものである。
こんな上手い話はないと瑠璃子は思い、その場で男に付き合う事を了承した。この機会を逃せば男とはもう会うことがなくなるのである。逃さない手はないのである。
そうして瑠璃子は男もとい、山本春仁と付き合うことになった。春仁は瑠璃子の境遇を聞いて、慈悲に溢れ、このような事を言っていた。瑠璃子が付き合うと了承した時、自分の金目当てなのは明白であったが、それでも彼女が下の兄弟の為に日夜働いている事を知ると、何かできないかと思てならなかった。
瑠璃子はその後、カフェの仕事は続けたが、水商売からは足を洗った。その代わりに春仁に身体を授けることにした。だが、春仁は瑠璃子を抱こうとしようとはしなかった。それなのに、月に幾らかの大金とも思える金を瑠璃子に差し渡していた。
瑠璃子にとってはありがたいこの上ないが、何か、春仁に懐疑的な目を向けざるを得なかった。
そしてある時、瑠璃子は春仁にその事を言い出した。
「それは、貴方に同情を持ったからです。僕は貴方の財布になっても構わないつもりでした。どうぞ、家族のために使ってください」
瑠璃子の目からは涙が溢れ、それ以上は何も言わなかった。
それから、瑠璃子の態度には今までとは違う、ものが見えるようになっていた。それは愛情とでも言うのだろうか。前のように金を常に欲しているようには見えなかった。それとは別に愛を求めているのがわかった。
「僕と結婚してくれませんか?」
それから二年が経ち、瑠璃子が二十歳を迎えた日のことであった。
東京の帝国ホテルのレストランで春仁はそう言い、指輪を瑠璃子に差し出した。
その頃はもう、瑠璃子の家族は貧困に苦しむことはなく、瑠璃子の妹は大学に行き、弟は高校へと進んだ。父も仕事漬けの日々ではなくなった。
指輪の箱を手に持つと、春仁に指輪をつけていいか聞いた。
春仁は頷き、瑠璃子は指輪を薬指にかけた。そしてその薬指を大事そうに反対側の手に包み込み、胸のほうに近づけ
「こんな私でよろしければ」
涙ながらに春仁にそう言った。
そうして、春仁の細君となり、苗字が山本へと変わった。
結婚式は軽井沢で行われ、亡くなった母の遺影を持つ、妹は姉の花嫁姿に幸せの涙を流した。父も春仁の人柄を気に入り、涙をほんの少しだけ流していた。弟は涙こそ流さないものの、その綺麗な姿を本当に姉なのかと疑うような心持ちで式に参加していた。
その後、瑠璃子は家族の元を離れ、春仁と共に暮らすことになった。
春仁の家は三鷹にあり、瑠璃子は何度も訪れた事がある。
家は元々は大正時代に建てられたもので祖父が昭和に入って買い取ったものであった。戦後になると屋敷はGHQに接収され、春仁の祖父は後ろ髪を引かれながらこの屋敷を後にしていた。そして実業家の父を継いで、同じ職業に就いた春仁がこの屋敷を買い戻したのであった。
この祖父の部屋であった場所には祖父の大きな写真が飾られていた。
家の中には使用人が一人いるだけであった。今まで春仁はその使用人と二人暮らしをしていた。
そして瑠璃子はこの家に来るなり、春仁にカフェの仕事もやめるよう言われ、やり甲斐を感じ始めていたカフェの仕事をやめた。
春仁としてはこれまで散々苦労という苦労をしてきた瑠璃子を楽にさせてやろうと言うものであったが、返って瑠璃子のような働き人が仕事をしなくなると何をしていいか悩ましい問題に直結することは彼には想像もつかなかった。
事実、瑠璃子は冒頭のように家を出ることも少なくなり、毎日を退屈していたのであった。
時間は午後三時であった。瑠璃子は階段の踊り場に立ち、淡い日差しが差し込むぼやけた窓を見つめていた。
「瑠璃子様」
使用人の春川が下の階から顔を出した。
「そんな所で何を?珈琲でもお入れしましょうか?」
「ええ、お願いします」
瑠璃子はそう言って下の階へと行った。
リビングの中に存在する応接間で瑠璃子は春川と珈琲を飲んだ。
「春川さん、暇ですね。働きにでも出たいくらい」
「働きに出たらきっと旦那様にお咎めがあるのではないでしょうか?」
「ええ、でも無理に働きに行きたいとかではないんです。家から出て何かをしに行きたいんです。例えば旅行にでも行きたいです」
瑠璃子はそう言うと、窓越しに庭を覗き見た。カーテンの隙間からは草木が姿を見せていた。
「いいじゃありませんか?新婚旅行にはまだ行っておりませんし、旦那様の仕事が落ち着いたら二人で時間を忘れて行かれたらどうでしょうか?この家は私がいますので」
春川の言葉を瑠璃子は真に受けることはなかった。新婚旅行の話は結婚してから何度も上がっているが、春仁は休みなく働く人で、結婚する直前からそれがより一層のものになっていた。朝と夜にか瑠璃子は春仁に会えず、夜の時間も結婚してからは少なくなっていた。
瑠璃子自身、愛する人と愛し合えないのは寂しさと共に溜まっていくものがあった。
それでも一応、話をしてみようかと瑠璃子は思った。春仁自身行きたくないわけではないであろう。ただ、忙しい彼は一緒に行ける時があるかどうかである。
「とりあえず、今夜、その話を春仁さんにしてみようかと思います」
「ええ、話すだけでもいいと思いますよ。何もしないよりは全然」
珈琲を飲み終えると、瑠璃子はサンルームに行き、庭へと続く扉を開けた。
そこにある靴を履き、テラスへと出た。庭を一周すると、秋になり初めの少しばかりの冷気を帯びた涼しい風が流れ、瑠璃子は東家に身を潜めた。来月にはもう紅葉が姿を見せるのだろうかと思い、この前まで桜を見ていたことを思うと季節はあっという間に過ぎていくのであった。
そして池にある鯉を観察した後に、肌寒く感じ始めたので、瑠璃子は家の中へと逃げていった。
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その夜、春仁は家に帰ると、階段を登って右にある書斎へと入った。それを見た瑠璃子は部屋に入ると、春仁の着替えを手伝った。
「悪いね」
春仁はそう言った。
「春仁さん、お疲れではないですか?体を触っても移って行くかのようですわ」
瑠璃子の言葉に春仁は自身の鋭さで瑠璃子が何か訴えようとしている事を悟った。
「疲れてなどないよ。でも、瑠璃子は何か言いたそうだね」
「私は退屈です。毎日、春仁さんのように仕事をしているわけではないのに、こんなに体が窮屈に感じるのです。せめて仕事をしていたらそのせいにでもできるのでしょうけれど。私は何もしておりません。なのに贅沢なことに今の生活に不満を持っています」
春仁はその言葉に離婚というものが込み上げてきたが、瑠璃子の様子を見るにそれは違うとすぐに理解した。着替えを終えると慌てて瑠璃子を連れて書斎を後にし、和室へと移動した。
「仕事をしたいのかい?」
「それもいいですけれど、貴方は駄目と仰るのでしょう?」
「駄目ではないが」
だがその声色は言葉とは真逆であった。
「仕事でなくてもいいんです。旅行に行きたいです。新婚旅行に」
春仁の顔は意外ととでもいうものでもなかった。
「僕はいいけれど、一体どこに?」
瑠璃子は春仁が了承したことに驚いた。
「一緒に行ってくださるんですか?」
「二人じゃなきゃ新婚旅行じゃないじゃないか?」
「けれど、仕事は」
「休みの日ならなんとかなるよ。けれどどこにしよう?」
春仁はどこでもいいと言うのは瑠璃子にはわかっていた。
「山梨はどうですか?」
「山梨?」
「私の生まれた場所ですの」
だが、瑠璃子に山梨にいたと言う記憶にはなく、それは父から聞かされているものであった。
「僕はいいよ。山梨に一緒に行っても。だけど、休みは来週しかないんだ。それ以降だとしばらくないかもしれない」
「それでは来週にしましょう。急でも私は構いません」
「瑠璃子がいいなら僕はいいよ」
その言葉で二人の新婚旅行は突然に近い形で決まることになった。
瑠璃子は行き先を決めてしまった罪悪感からこんな事を言った。
「今度は春仁さんの行きたいところに行ってみたいですわ」
「そりゃ、家か仕事場かな」