ラン・ルーシー【6】
空を見上げると、私達の住んでいるこの世界はどれだけ広いのだろうか、幼かった私はそう考え想像を膨らませた。知らない生き物、知らない植物、知らない食べ物、知らない街の風景、知らない自然……それらを考えるだけで、知らないのがなんて勿体ないことなのか、そう思った私は鳥籠のような森から抜け出し羽ばたきたいとお空の太陽に願った。神は太陽を生み出し、世界を創造した。神は更に善と悪を与え、私達に試練を課した。人は善と悪の狭間で葛藤しながら生きなければならなくなった。それでも、宗教は時々私達に教えてくれる。常に善を求めよ、と。父はよく、神のいない世界は想像しただけで恐ろしいと言った。そこは善と悪の認識もなく混沌として、人はそこでは生きていけないのだと語った。無法地帯となり、人々は争い続けるのだと。だが、父は知らないのだ。お互いの違った宗教同士がぶつかり、過去にそれで人々が大きな戦になったことを。父は表意文字が苦手だった。家にある本は本当は父の父が持っていた本だった。私はその本を読めた。そこに記されてあった色々な知識が私の脳に入り込み、言葉がイメージへ変換されていった。一気に本を読もうとするとサボっていると思われる為に少しずつ読むことにした。
そして、あの本に出会う。世界を旅した詩人、その人が全ての世界を見たという冒険譚、それを記した本に。
それから私は住んでいた森を抜けるタイミングが運良く訪れる。初めての街、初めての出会い、初めての知らないこと。私にとっては刺激のある日常である筈なのに、森にいた時のような閉塞感がまだ抜けなかった。それは別の鳥籠へ移動され飼われる小鳥のように。私はその鳥籠から抜け出し自由に羽ばたく夢を冒険譚を通じた外のイメージを眺めながら、そのチャンスをずっと待っていた。
そして、その時が訪れた。
鳥籠から小鳥が抜け出し、それを追いかけ鳥籠へ戻そうとする大人達の大きな手を回避しなが、遠くへ、手の届かない場所へと小鳥達は逃げる。そして、上手く逃げ出せた小鳥達は都会行き幌馬車を見つけその中に入り足を休めた。その間に幌馬車は動き出し、街の門を出た。
都会行きのルートは幾つかあるが、幌馬車が向かうのは港町のあるルートだ。そこから船に乗り海側から都会へ向かう。毒砂へのルートは大人でも危険でサンサとジャスミンがそのルートにはバツをした。
さて、港町の港は都会に比べればそれ程大規模ではない。むしろ、都会の港には大型の貿易船や輸送船が沢山あって、その港の露店では毎日賑わっているのだとか。そこは自分達の国『アトロ王国』において最大の街になり、その街の名は『マーニ』という。そこには沢山の人がいて、さっきまでいた街『アストル』よりもいるのだとか。どんなところか見てみたいものだ。その前の港町にも興味はある。その港町は『モナ』と呼ばれた。そこから、私達は本当に遠くへ行くのだ。
世間は子どもだけで世界を旅するなんてと冷罵するに違いない。けど、成し遂げてしまえば世間の評判は一変する。だから、それまでの評判なんて所詮自ら生み出した常識という殻に籠もって満足する連中の戯言に過ぎない。世界は私達が知らないだけでもっと広い。それを知りたいのなら行動あるのみ。私はロジャーを誘った。ロジャーにも来てもらいたかった。でも、ロジャーは私が知るよりずっと一般人だった。常識人だった。非常識極まる私達とは歩めない。そこが別れだった。私達は行く。私達は更に自由へ羽ばたく。例え危険でも、渡り鳥のようにいつかこの土地に戻り、詩人のように語るのだ。その時、ロジャーに聞かせる。私達の冒険譚を。私達だけの物語を。その旅は能動的ではない。むしろ逆だ。それは時に空間、時間の旅になるだろう。詩人が記した本のように。
◇◆◇◆◇
私達を乗せた幌馬車はモナに到着した。気づけば空はあかね色に染まっている。海の香りがしたので、近くに海があると鼻で分かる。
だが、もう時間も遅く出港する船はないだろうから、この町で泊まれそうな場所を探すことにした。すると、一人の老人が私達に声を掛けた。
「おい、お前達。どこから来た?」
老人の服は古ぼけた襤褸で、髭も髪も伸ばしきり、靴はつま先に穴があいており、足の死んだ爪先が顔を出していた。その老人からは異臭が漂い、無視して立ち去ろうと考えた。だが、そんな私達を猫背でベンチに座る男は呼び止めた。
「怪しい者ではない」
「怪しい者が自分を怪しい者ですって紹介すると思う?」とルーシーは言い返した。老人は枯れた声で笑った。その歯は黄ばんでいて、前と奥歯の上下で幾つかは欠けていた。
「確かにお前さんの言う通りだ。だが、答えてはくれないか?」
「『アストル』という街だよ」
「ルーシー!」とサンサは老人を警戒したが、それは正しい。でも、老人は多分誰にも話さないという謎の確信がルーシーにはあった。
「『アストル』か……なら、ガーゴイルが分かるな」
「ガーゴイル?」
「この町にもガーゴイルの像がある。もうじき夜になる。そうなればガーゴイルは単なる像ではなくなる。まるで生きた怪物のように夜道を出歩く者を襲う」
「あなたは? 見たところ住んでる家がありそうに見えないけど」
「鋭いな。そうだ。だから、俺のような者はとりあえず一晩屋根のある場所を探す。馬小屋とかな」
「馬小屋……」
「ここには宿があるが、どの部屋も満室だ」
「そんな!?」
「この町の宿はずっと満室のままさ」
「え、どうして?」
「商人や金持ちが月や年契約で部屋を貸しきってるからだ」
「それじゃ他の人達が困るじゃない」
「他の連中のことなんてそもそも考えちゃいないのさ。だから、お前達はワシと一緒に来るしかない。一晩明けるのをな」
ルーシーはとりあえず皆に相談した。
「どうする?」
それに対する皆の答えは以下の通り。
「確認してみてもいいけど、本当だとしたらまずいよ」とサンサは言い、ジャスミンは「私は皆に合わせるけど」と言い、ベルは「私は馬小屋でも構わないよ」と答えた。
「それじゃ決まりね」
ルーシーは老人に私達も一緒に構わないか尋ね、老人は「勿論」と答えた。
「ささ、夜はもうじきだ。こっちへ」
サンサは口にはしなかったが、老人の勿論と言った言葉に不信感を抱いた。
馬小屋は町の行商人達の馬がいて、壁と屋根がある。裏口から入り、馬のいない草の上で私達は尻を置いた。老人はというと靴を脱ぎ、足を伸ばし寛ぎ始めた。
「見回りとか来ない?」とルーシーが念押しすると、老人は手を振って「来ない来ない」と即答した。
「夜はガーゴイルが出ると言ったろ? だから、夜に馬小屋に鍵をかける必要もない。この小屋はガーゴイルから守れればそれでいいのさ。ついでにワシらも守ってもらおうってわけだ」
そう言いながら老人は襤褸からライ麦パンを取り出し、それをちぎっては口の中へ放り込んだ。硬そうなパンはやはり硬いようで、口の中でゆっくりと柔らかくしながら食べた。それを見たルーシーは一つ白いパンを老人に差し出した。
「食べる?」
「いいのか?」
「私が働いてたパン屋のパンなの」
「おぉ……」
老人はありがたくそれを受け取ると、そのパンをちぎってみた。パンは老人がちびちび食べていた黒いパンよりずっとふっくらしていて簡単にちぎれ柔らかかった。老人はパンを鼻で匂いを嗅いでから「パンの香りがするパンを食べるのは久しぶりだ。ありがとう」とルーシーにお礼を言った。
「聞いてもいい? あなたはどうしてここに?」
「あぁ……昔は『マーニ』で働いていたんだが」
「『マーニ』? 私達、そこへ向かうところなの」
「君達だけでか? 確か『アストル』と言ったな。そこから『マーニ』へ君達だけでか?」
「子どもだからってナメないでよね、おじさん。ここから『マーニ』行きの船に乗っていけば私達でも行けるでしょ?」
「あぁ……君達は知らないんだな」
「ん? 何を?」
「今『マーニ』へ行くのはよした方がいい。流行り病で病院は満床状態だと聞く。都会は人が多い分犠牲も多い。人は見えない敵には弱い生き物だ。いくら気をつけていてもな。それに、君達だけで旅をするなんて危険だ。まぁ……想像はつくが」
「言わないでいてくれるんでしょ?」
「あぁ、言わない。だから、理由を教えてくれ? 何故君達だけでこんな無謀な旅をしている」
「私達は逃げ出したんです。大人達から」
「それでか?」
「それだけじゃなく、世界を見てみたいんです」
「世界は甘くはないぞ。お前達なんぞ簡単に飲み込んでしまうぐらいに世界は広い。悪い奴らも騙す奴らも大勢いる。人攫いだっているんだ。悪いことは言わない。朝になったら引き返すんだ。旅は大人からでも間に合う」
「なんでよ。可愛い子には旅をさせよと言うでしょ?」
「あぁ、確かに旅は辛い。だが、何故旅なんだ?」
「おじさん、世の中本当にクソだよ。どうせ学校であのまま学んでも、そこから卒業して実家に戻れば学校で学んだことを活かせることもなくただ時だけがダラダラと流れ年をとっていくんだ。お前は子どもなんだから、お前は女なんだから、大人達はそう言って大人達の常識を押し付ける。それからの私の人生を想像したら、例え困難が待ち受けていようとも旅をするに決まっている。だったらやってやろうって。未だ一人しか成し遂げられなかった世界の旅を私達でって」
「……」
老人は何も言い出せなかった。少女の語る夢が壮大だからでも、現実離れしているからでもない。自分が若い頃に抱いていた、そして大人になってすっかり忘れていた夢と同じだったからだ。であるならば、笑い者にするわけにもいかない。
「そうと決めたのならば成し遂げてみよ。そして、その冒険がどんなものかワシに教えてくれ」
「いいよ」
これが、老人と少女の約束。
「私はルーシー」
「ルーシーか……覚えておこう」
◇◆◇◆◇
何かを決断した若者の朝は早かった。老人は『マーニ』へ出港する港までルーシー達を案内した。漁師が住む民家や魚市、その先には海が見えた。人生初めて見る海。
「これが海……」
それは一面ブルーで穏やかな波と青空と太陽が似合う絶景であった。
既に漁師達が自分達の木造船の出港準備に取り掛かっていた。たくましい筋肉と日焼けした肌、縄を縛り、船の状態を確認していく。それより離れた場所に『マーニ』行きの赤い大型船が見えた。
「あれに乗れば『マーニ』だ」
「ありがとう」
「いいんだ。これぐらい」
「おじさんはこれからどうするの?」
「ワシか? ワシはもうこの年齢だ。何も変わらん。大人になれば分かることだが、一年が若い時より短く感じる。時の流れは変わらず同じ筈だというのに、どうしてこうも違うと感じるのか不思議でならない。だが、少し分かるのだよ。時間は単なる数字的な意味というわけではないのだと。それに気づくのにワシは遅すぎた。今では失うことの方が多い。君達は得るものが多いときに沢山経験するとよい」
「お別れ?」
「あぁ、お別れだ。よい旅を」