第三章二節 風光る雛月の寿ぎ その14
「美味しかったですね。雰囲気も落ち着いていてとても居心地が良かったですし。」
「はい。それに帰りも花逍遥ができるとは、なんとも贅沢な場所ですね」
一人と一柱はすでに路地を抜け、行きと同じく並木路を歩いていた。
相変わらず人も桜もあたり一面にひしめきあい、それぞれの美しさを楽しんでいる。
翡翠は行きに見た幻想的な桜吹雪の光景を思い出しながら桜の木を見上げていると、東雲が不意に顔を覗き込んだ。
「……最初にお会いした時よりも、だいぶ表情が柔らかくなりましたね。」
「えっ、そうでしょうか?」
「はい、とても。以前はもう少しつまらなさそうな表情をしていらっしゃいました。」
翡翠は少しの驚きを含んだ表情で、東雲の瞳を見つめた。
それに合わせて、東雲も翡翠を見つめ返す。その瞳に映る自分は、思った以上に心のうちが顔に出ていた。
東雲のいう通りだ。
私は、祖母が帰らぬ人となってからあまり『楽しい』という感情を持たなくなった。
何をしていても、自分はどこか別の遠いところからそれを眺めているように感じられて、いつの間にかそれが当たり前になっていたのだ。
そのころを思い出して、翡翠は表情を曇らせた。
「東雲のおっしゃる通りです。…………でも、今はそれを一つの思い出として懐かしむことができます。
当時の私にとっては、つまらないだけの時間だったかもしれませんが、今の私にとってはその時間も傷を癒すために必要な時間だったことは間違いありません。」
そこまで口にして、翡翠はふっと息を吐いてから、自分にできる一番の笑顔を向けた。
「それに、そのお陰で東雲と出会うことができましたから。……私からしてみれば、東雲とはまだ出会って言葉を交わしてからまだ数ヶ月しか経っていませんが、今の私の一番の宝物は、東雲と言う一柱の神様との出会いです。私を守護の対象に選んでくださってありがとうございます、東雲」
少し気恥ずかしかったが、それでも今私が言ったことは全て本心だ。それを示すために、翡翠は東雲から目を逸らさずにいた。
しばらくの間沈黙が流れた後、東雲は顔を地面に向けたまま、それはそれは深いため息をついた。
東雲の様子が明らかにいつもと違うので、翡翠は心配になり長く白い髪の間から表情を覗こうとしたが、東雲に軽く手で制されたことにより、それは叶わなかった。
「……すみません、我慢をしていましたが限界です。今こちらを見ないでください。あなたの言葉が嬉しすぎて、頬が緩みきっていますから。」
一瞬、東雲の言葉の意味がわからなかったが、その意味がわかると自然と翡翠の表情も緩んでいった。どうやら、翡翠の気持ちはちゃんと伝わったようだ。
人間でも神様でも、ちゃんと言葉にしないと自分の思っていることは伝わらない。
「失礼しました。先ほどのことは忘れてください。……それよりも翡翠さん、この辺りでお約束していた写真を撮りませんか?ここでしたら、丁度桜並木も美しく写真に収めることができると思いますので」
そう言いながら、東雲が指さした先に視線を向けると、翡翠と同じ背丈ぐらいの桜の枝が目に映った。
「確かに、ここでなら綺麗な桜と素敵な写真が撮れそうです!ありがとうございます、東雲。……それでは、お言葉に甘えて」
東雲にお礼を言いながら、翡翠はカバンから電子端末を取り出し、写真のアプリを立ち上げる。
普段はほとんど使用することのない内カメラ機能に変更してから、目一杯腕を伸ばした。
「画面より上に黒い点があるので、そこを見ていただけますか?」
「黒い点……。こちらですか?」
そう言って東雲は内カメラを指差した。
「はい、そこです!私が“はい、チーズ“と言ったらシャッターを押して写真を撮影するので、東雲はお好きな格好で静止してください。それでは撮りますよー!はい、チーズ!!」
カシャッというスマホのシャッター音が聞こえたことを確認し、翡翠は掲げていた電子端末を胸元まで下ろす。写真フォルダーから、今撮った写真を見てみると……
「どうですか、この写真!すごく綺麗に撮れていますよ!!」
そう言って翡翠は東雲にスマホの画面を向ける。花をたくさんつけた桜の枝が風に靡いており、あたりには桜の花びらが舞っていた。
そしてその中心には、柔らかい笑顔を浮かべる、一人の少女と一柱の神様がしっかりと写っていた。
「とても素敵な思い出ができましたね。翡翠さん、ありがとうございます」
「いえいえ、とんでもないです……!こちらこそ、一緒に写真に写ってくださってありがとうございました!____また一つ、宝物ができました。後日印刷をして、東雲にもお渡ししますね」
「それは嬉しいですね。ありがとうございます。楽しみにお待ちしています」
「はい!」
東雲に微笑み返した後、翡翠はふと周囲を見回した。
そこには今の翡翠や東雲と同じように写真を撮りながら、老若男女問わず幸せそうに笑いはしゃぐ人々の姿があった。
何故だかその光景に心惹かれ、桜の木々とともに、画面に収めた。
東雲は、ただ静かに翡翠のことを見守っている。
「……昔は、人が写り込まないように写真を撮っていたんですけど、最近東雲と一緒に出かけているうちに、道行く人々も含めてこの日常を写真におさめておきたいと思えるようになりました。
東雲と出会ったことで、色がなかった日常がとても華やかになったんです。
今まで目を向けてこなかったものも、最近では綺麗でとても尊いものだと思いながら見れているような気がします。本当にありがとうございます。」
「そんな言葉を人の子からもらえる日が来るなんて、思っても見ませんでした。嬉しい限りですね。こちらこそ、私に色んな体験をくださってありがとうございます。私の中で、あなたと過ごす日々はかけがえのない大切な宝物です。終わりの時まで、一緒に楽しませてくださいね。」
終わりの時、という東雲の言葉に翡翠はハッとなった。
この日常が、幸せな日々が、いつまでも続くように錯覚していたが、その期間は限られており、もうあと半年ほどしかないのだ。
「そうですね、その時まで、共に。」
心の中に生まれた寂しさを感じさせないように、なるべく穏やかに翡翠は微笑んだ。




