第三章二節 風光る雛月の寿ぎ その12
翡翠が頼んだ自家焙煎のブレンドコーヒーは、注文が入ってから店主が豆を挽いてドリップしてくれるこのお店の名物である。
表面に立ち上る湯気を息で揺らめかせることを数度繰り返したのち、翡翠は下を火傷しないよう慎重に一口含んだ。
と同時に、コーヒーの苦味と豊かな香りとが押し寄せてきた。苦味は普段口にしているよりも強かったが、それだけに重厚感があり、美味しかった。
いつもとは違う口当たりに驚きながらカップを口元から離し、一息つく。
翡翠の手の中にある、焦げ茶色の丸っとしたフォルムのコーヒーカップは、まるで長年愛用してきたものであるかのように、驚くほどよく手に馴染んだ。
「このカップ、よく手に馴染みますね。」
中身は違えど、同じ種類のコーヒーカップ__正式にはマグカップかもしれない__を手にしている東雲に思わず声をかける。
「私も同じことを思っていました。しっくりときすぎて逆に怖いくらいです。」
「そうですよね!あ、甘酒のお味はいかがでしたか?」
「とても美味しいですよ。口当たり滑らかで優しい味なのですが、さして甘すぎると言うこともなく丁度良いです。これなら、何杯でも飲めてしまう気がします」
冗談めかして笑っているが、翡翠は今までの東雲の甘味好きの度合いを知っているので、東雲であれば本当に何杯でも飲めてしまいそうだと、心の中で独り言ちた。
「翡翠さんの方はいかがでしたか?」
「こちらもとても美味しいです!私が普段口にしているものよりも苦味が強かったので最初は驚きましたが、味わっていくうちに段々とその良さがわかりました。
これ以上深煎りをしてしまうと苦味が強くなり味が損なわれてしまう一歩手前のギリギリのラインをいく、まさに絶妙なバランスで味わい深さが成り立っている一品です。」
翡翠の言葉に、東雲が口元に手を添えながら笑う。
「本当にこーひーがお好きなのですね。それに翡翠さんの今の発言の節々から、このお店のこーひーの素晴らしさがよく伝わって来ました。……私も共に嗜むことができたら良かったのですが」
「こればかりは好みですから、仕方ありませんね。それでも、お陰で私はこのお店の甘酒が、甘味好きの東雲のお口に合う美味しい甘酒だと知ることができました」
東雲が一瞬寂しげな表情を見せたような気がしたので、翡翠は東雲に同じものを共有しないからこその発見があったことを伝えようと、言葉にした。
「ふふ、ありがとうございます。そう言っていただけると、こちらとしてもとても嬉しいです」
先ほどよりも表情が柔らかくなった東雲の姿を見て、翡翠も思わず笑顔になる。
温かい気持ちになった後、翡翠は注文したデザートに手をつけることにした。
このコーヒーのお供に選んだのは、自家製のプリンだ。
生クリームは不使用とメニューに記載してあったので、どんな味や食感なのだろうと思いながら、一口食べてみる。
口に含んだと同時に、翡翠はその美味しさに驚き、目を見開いた。
『何これ……!生クリームを使ってないことが信じられないくらいに滑らか。しかもコクもあってすごく美味しい……!』
灰色がかった丸みのある陶器のお椀にのせられたプリンを、もう一度凝視する。
今度は黄色の部分だけでなく、カラメルも一緒に掬って食べてみようと、翡翠はスプーンを柔らかなプリンに入れた。
パクッと口に入れた瞬間、コクのあるほのかな甘味とカラメルのほろ苦さが溶け合い、見事な調和を生んだ。
そしてこのバランスは間違いなくプロの技なのにも関わらず、どこか家庭的な味を思い出させるこのプリンは、間違いなく翡翠が今まで食べたことのあるプリンの中で一番美味しかった。
自家製のコーヒーとも相性抜群で、本当に美味しい。
『……また来よう』
プリンの滑らかな舌触りを楽しみながら、翡翠は密かに心に誓ったのだった。




