第三章二節 風光る雛月の寿ぎ その7
「なるほど、桜の花びらが挟まってしまったのですね」
「はい。髪の結び目のところにちょうど挟まっていましたので、綺麗とは思いつつも取らせていただきました」
「そうでしたか。取っていただきありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらず。きっと、私たちが綺麗な桜に惹きつけられるように、桜の花びらも神聖で美しい東雲に吸い寄せられたんですね」
「貴方は本当に……。いえ、なんでもありません。それにしても、今の春風で道が桜の絨毯のようになって、風流度が増した気がします」
そう言って足元を指し示した東雲の指先に視線を送ると、東雲が表現した通りの桜の絨毯ができていた。
「うわあ……!本当に絨毯みたいです……!桜は咲いている姿も散り行く姿も美しいですが、散った後も趣があって素敵ですね」
「ええ、桜の趣深さは実に見事な物です。
散った後といえば、奥州の城郭の中には桜の花筏が有名なところもあるらしいですが、翡翠さんはご存知ですか?」
「多分、弘前城のことですね。写真でしか見たことありませんが、外堀の水面を桜の花びらが埋め尽くしている風景が本当に綺麗で、いつか行ってみたいと思っています」
翡翠の言葉を聞いていた東雲の表情に一瞬影が差したような気がしたが、次の瞬間にはいつもの優しい笑みを浮かべていた。
「____それでは、いつか共に行きましょう」
予想だにしない東雲の言葉に、翡翠はだらしなくポカンと口を開けてしまったが、その言葉の意味を理解した時、慌てて言葉を返した。
「それはとても魅力的なお誘いなのですが、その……もし私がここではい、と答えたら、私は神様……東雲と約束を交わしたことになりますか?」
「ええ、そう言うことになります」
東雲の言葉を聞いたときに、不意に祖母の言葉が頭の中で響いた。
『神様との約束は、違えてはならない。だから、もし翡翠にそんな機会が訪れたとしても、人ならざるものとの約束はしてはいけないよ』
祖母の言葉は、いつも正しかった。
今回も、祖母の言葉に従うのがきっと正しいのだろう。
しかし、翡翠にはすぐに否とは言えない事情があった。
翡翠が東雲と過ごしてきたこの半年ほどの間で、東雲に対する感情の変化があった。
翡翠と出会う前は大好きな祖母が亡くなったこともあり何事にも悲観的だったが、東雲と日々を過ごしていくうちに、少しずつ前向きになることができた。
それに、東雲と一緒にいると安心感があり、自分の気持ちに素直になれる。その事実に気がついてからは、目の前で笑ってくれているこの優しい神様に、できるだけ自分が感じている気持ちを与えることができたらと思うようになっていた。
だから翡翠は、できるだけ東雲と共にあることができる期間を増やしたいのだ。
心の中で渦巻く相反する感情にどう返答して良いのかが分からず、翡翠が俯いたまま黙っていると、東雲が再び口を開いた。
「数年後でも数十年後でも、翡翠さんの魂が存在し続けるのであれば、必ずその機会は訪れますから」
その言葉を聞いた時、翡翠は妙な言い回しをするな、と思いつつも、気がつけば頷いていた。
一年という期間が過ぎても、東雲とまた共に話せる機会があるかもしれないという可能性を、少しでも高くしたかった。
だから、軽率かもしれないが翡翠は首を縦に振った。
翡翠の返答を受けた東雲は、それはそれは嬉しそうに、そして悲しそうに、美しく笑みを浮かべた。
後から思えばこの時からすでに翡翠の行く末は決まっていたのだが、今の翡翠には知る由もなかった。




