第三章二節 風光る雛月の寿ぎ その6
「うわあ、すごい人ですね」
翡翠はあまりの人の多さに思わず驚きの声が漏れ出た。ご年配の夫婦から子ども連れの家族、友達同士でいたり、カップルで来ていたりと、歩くこともままならないほどの大勢の人で、公園は賑わっていた。
翡翠はげんなりとしたが、そんな翡翠とは対照的に東雲はどこか嬉しそうな表情を浮かべている。
「本当ですね。予想はついていましたが、これは人に酔ってしまいそうです。」
今日は青空が広がっているため、ポカポカとした暖かい春の日差しが世界をひだまり色に染め上げている。つまりは、絶好のお出かけ日和だ。
最近は雨が続いていたので、陽が出ている今日を逃すまいと出かけてきた人も多いだろう。
人をかき分けながら、少しでも桜とお店に近づくべく、翡翠は足を前へと進めた。
そこかしこから話し声が聞こえ、時折笑い声が起こるこの桜並木は、県内でも屈指のお花見スポットで、遠くからも多くの人が訪れる。
狭い土手に人々がひしめき合っているため、特に案内の人がいないにも関わらず、お互いに落ちないよう配慮しながら、自然と奥に行く人と入り口に戻る人の列が形成されていた。
翡翠と東雲も、その陽気な列の後ろについてゆっくりと歩き始めた。
人々の視線を独り占めするのは、土手沿いに列をなす桜の樹々だった。
誰しもが皆咲き誇る薄紅色の花を見ようと、視線を上にあげている。
「綺麗ですねー!少し早いかもと思っていましたが、ほぼほぼ満開の姿を見ることができてよかったです」
「本当に。……とても美しい光景ですね。毎年桜には目を向けていますが、この桜は格別な気がします」
「それは良かったです。……あ」
一陣の風が通り抜け、翡翠の髪を攫う。
その風の強さに翡翠は思わず腕を翳し、目に舞い上がった砂が入らないようにした。
風が弱まり、もう大丈夫だと思ってから、翡翠は徐々に瞼を上げた。
ぼんやりとした光が差し込み、その光が瞼の動きと一緒に少しずつ輪郭を持ち、視界がはっきりとしてくる。
半分ほど目を開いたところで、眼前に広がる光景を知覚できるようになった。
その光景を認識した瞬間、翡翠は驚きに目を一気に見開いた。
翡翠の瞳には、満開の桜の樹々から一斉に薄紅色の花弁が枝を離れ、方々へと舞い散る様子が映る。
まるで粉雪が舞っているかのような幻想的な光景に、翡翠は瞬きも忘れてしばらくの間見入った。
「翡翠さん」
それからどれほど経っただろうか。東雲に声をかけられたことで、翡翠の意識は現実世界へと引き戻された。
「は、はい!なんでしょうか」
耳に心地の良い低音の東雲の声が、耳元で囁かれたかのようにはっきりと、そして唐突に翡翠の脳に届いた驚きもあり、翡翠の鼓動は早鐘を打っていた。
「申し訳ありません、驚かせてしまいましたね。周囲の人の子からの歓声が上がっても、翡翠さんが全く反応を示さなかったので、どこか具合が悪いのかと思って声をかけさせていただきました」
そう言った東雲は、心配の色を浮かべている。
「こちらこそ、ご心配をおかけしてしまい申し訳ないです。体調は全く問題ないので、ご心配はご無用です。……風に舞う桜の花びらがなんとも綺麗で、思わず見入ってしまっていました。
周囲の方々も花吹雪の美しさに感動して歓声をあげていたんですね。目の前の光景に集中しすぎたのか、全く耳に届きませんでした」
素直に桜に見入っていたことを告げると、東雲はふふ、と上品に笑った。
「体調は問題ないようで安心しました。……翡翠さんが見入ってしまうのも仕方のないことです。あんなにも幻想的な光景、そうそうお目にかかれる物ではありませんからね」
「本当に。桜吹雪で前が見えないくらいの光景、生まれて初めて見ました。それにしても、すごい風でしたね」
翡翠の言葉に、東雲は首肯した。
「春疾風、というものでしょう。春は風が強い日が多いですからね。翡翠さんは大丈夫でしたか?」
「大丈夫です!ありがとうございます。東雲は大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」
「それは良かったです。あ……少し失礼しますね」
東雲に断りを入れてから、翡翠はそっと東雲の絹のような髪に指を近づけた。
手を戻した翡翠が、反対の手のひらの上に摘んだものを載せる。
翡翠の手元を不思議そうに覗き込んだ東雲は、手のひらの上にある物を見た瞬間、合点がいったように頷いた。




