第三章二節 風光る雛月の寿ぎ その3
春の陽気に包まれ、少しだけうとうととし始めたところで、背後から足音が聞こえてきた。と言っても、バタバタと忙しない大きな音ではなく、急ぎながらもあまり音を出さないように配慮していることが十分に伝わってくるような音だ。
『多分、というか十中八九東雲だろうな』
翡翠はそう思いながら振り返ってみると、案の定、そこには少し息を弾ませた東雲の姿があった。
「すみません、思った以上に手間取ってしまい遅くなりました」
「素敵な空間を堪能していたので、気にしないでください。
朝からお仕事のご対応お疲れ様です。大丈夫でしたか?」
質問を投げかけたところで、東雲の表情に疲労の色が見て取れたので、翡翠は自分の横に置かれている座布団をポンポンと叩き、一緒に座ってもらうように促した。
東雲は一瞬不思議そうな表情をしたが、翡翠の意図が伝わったようで「では、失礼します」と言って座布団の上に座り、はーっと深いため息をついた。
「ご心配くださりありがとうございます。大丈夫です__と言いたいところですが、流石に少し疲れました。今朝、まだ日が昇ってもいない時分に、突然大神から依頼を受けまして……。
さらにその依頼というのが、少し厄介な代物___重大かつ早急な対応が必要な依頼でしたので、早暁から先程まで対応に追われていたという次第です。翡翠さんにはご迷惑をおかけしました。申し訳ないです」
東雲の言葉に、翡翠は慌てて首を振った。
「そんな!謝らないでください。私は全く迷惑を被ってなどおりません。素敵なお庭を堪能させていただきましたし、何より東雲は頑張って早く終わらせてきてくださったじゃないですか。なので本当にお気になさらないでください」
必死になって紡いだ言葉は、東雲にもしっかりと届いたようで、ようやく笑顔を綻ばせた。
「ありがとうございます。そう言っていただけると救われます」
相変わらず眩いばかりの美しさを放つ東雲だったが、やはりその表情には少しの疲労が見て取れた。
「……本当にお疲れのようですが、今日はお出かけを見合わせて、また別日を設けましょうか?」
翡翠は東雲を心配して提案したが、東雲は伏し目がちになり、ゆったりと首を振った。
「いえ、別日を設けていただかなくても大丈夫です。本日は予定通り甘味を食べに行きましょう。……翡翠さんに長い間待っていただいたのに、そのまま帰らせることはできません。
それに、朝から厄介な依頼に力を尽くした己へのご褒美でもあるのですから、是が非でも行きます。」
東雲があまりにも強い語気ではっきりと言葉を述べたので翡翠は一瞬驚いたが、その姿がなんだか可愛く思えてきて、ふふっと笑ってしまった。
「では、もう少しここでゆっくりしてから、美味しいものを食べに街へ参りましょうか」
「お気遣いありがとうございます。流石に少し疲れましたので、そうしていただけるとありがたいです」
東雲がそう言い終わった瞬間、後ろからカタンという音が聞こえてきた。
同時に振り向くと、先程まで翡翠が手にしていた湯呑みの代わりに、まだ表面に湯気が立ったままの二つの湯呑みが置かれていた。
どうやら、東雲の眷属が気を利かせて持ってきてくれたようだ。
お互いに顔を見合わせると、どちらからともなくふっと笑みが溢れた。
「気遣いが身に染みますね。それでは、冷めないうちにいただいてしまいましょうか」
「はい」
暖かいお茶、春の風、春の日差し。
心が安らぐ空間で交わす他愛のない会話がとても尊いものに思えた。
お茶の温かさが優しく身体に染み渡るのを感ながら、翡翠はほーっと一息ついた。
ついで欠伸を一つ。
『なんだか、眠くなってきちゃった』
翡翠は眠気に襲われ、一度瞼を閉じた。すると、再び鶯の軽快な鳴き声が聞こえてきた。
ああ、やっぱり春は素敵な季節だな。
春の日差しと東風とを受けながら、翡翠は少しずつ意識が遠のいていくのを感じた。




