第三章二節 風光る雛月の寿ぎ その2
秋頃に東雲直々に案内してもらった時は、東中門から廊下を上がって見学しながら釣殿へと辿り着いたが、今回は寝殿前の中庭を通って西門廊から直接釣殿へと向かった。
階段で靴を脱ぎそれを揃えてから、建物に上がった。
相変わらず心地の良い風と、ギシ、ギシ、という床板の軋む音を楽しみながら、そのまま階段を上って釣殿に敷かれている畳の上に腰掛けた。
吹き抜ける風に乗って、井草の香りがふわりと漂う。
『ああ、やっぱりここはとても素敵な場所だな。』
眼前に広がる大庭園を目にしながら、翡翠は改めて実感した。
周囲の景色を眺めてみると、以前来た際に綺麗だと思った蓮に加えて、池のほとりには水仙の花がちらほらと白い花弁を開いている。
その白さがまた幻想的で、この空間の特異性____高位の神が創り出した空間である、ということを際立たせているような気がした。
それにしても心地が良い。
この社が位置するのは山際のため、普通であればもう少し涼やかで、この季節だと肌寒いと感じてもおかしくないのだが、寒さは全く感じない。
東雲はこの空間の気温調節もできるのだろうか、などと考えながら目を閉じていると、ホーホケキョという鶯の鳴き声があたりに響いた。
翡翠は真っ直ぐで耳に心地よく響く声音だと感じると同時に、『今年初めて鶯の鳴き声をきいたかもしれない』と思っていた。
視覚だけでなく、聴覚からも春の訪れを感じながら、翡翠は瞼を下ろしたまま、その心地よさに身を委ねた。
目を閉じたまましばらく過ごしていると、背後からカタンと何かが床に置かれる音がした。
振り返ってみると、黒漆のお盆に、湯呑みが一つ置かれていた。
まだ淹れたてらしく、湯気が立ち上っていた。
持ってきてくれたはずの存在の姿は終始見えず、翡翠は不思議な心持ちがした。
まるで、突然そこにお盆が現れたかのように錯覚してしまう。
そんな芸当ができるのは、やはりお茶を用意し運んできてくれたのが、この世ならざるものであるからだろう。
最近の東雲があまりにも人間らしいので忘れてしまいがちだが、彼と関わる中で人には到底できないような現象に接したときに、私が今関わっているのは陣地を超えた存在なのだと思い出す。
『きっとお盆を運んでくれたのは、東雲の眷属だよね。どんな姿をしているんだろう』
まだ見ぬ存在に想いを馳せながら口にしたお茶は、とても美味しかった。




