第三章一節 弥生の邂逅 その10
「具合はどうですか?」
目を開けると、真っ先に飛び込んできたのは心配そうにこちらを覗き込む東雲の姿だった。
まだ意識がはっきりとしないが、少なくとも意識を失う前の酷い頭痛は治っていた。
「もう、大丈夫だと思います。すみません、ご迷惑をおかけしました。」
声がだんだん小さくなって行ったのが自分でもわかった。
意識が途切れる前に東雲に運んでもらったことを思い出し、急激に申し訳なさが込み上げてきたのだ。
そんな翡翠の様子を見て、東雲が声をかけた。
「大丈夫ですよ。人とは脆い生き物です。誰でも絶対は他の人に助けてもらいながら生きているのですから。それに、私は人間を助けるために生まれた神です。気にする必要なんかありません。」
そう言った東雲の声音は小さい子を諭すような、優しいものだった。
翡翠は東雲の優しさ、温かさを噛みしめるように少しの間沈黙してから、ポツリ、ポツリと話し始めた。
「……意識を失っている間、とある光景を見ていたんです。
雨が降っている中、碧泉さんが和傘をさしながら私に近づいてくるような、そんな光景です。私は碧泉さんと何度か言葉を交わしていました。
何を言っていたかまでは聞き取れなかったのですが、しばらくしたら急に私の体が傾いたんです。私は気を失ったようでした。それを、碧泉さんが受け止めてくれました。
そこまでは、ああ、私は体調が悪くなってしまったんだと思っていました。
すると、そこで映像が切り替わるようにして、私の体を受け止めてくれた碧泉さんの表情が見えました。その表情を見た時、身体中に寒気が走ったんです。」
「彼は、どんな表情だったんですか。」
見た光景を思い出し、早くなる心臓の鼓動を落ち着けるために翡翠は大きく深呼吸をした。そして、少しためらいがちに口を開いた。
「笑って……いたんです。上手く言えないんですけど、その笑顔がこう……どこか狂気じみたもののように感じられてしまって……。
しかも、人が倒れたタイミングで笑みを浮かべ田ことにも、何かがおかしいという違和感を感じました。
その二つの異様さに気づいてしまった時、怖くて怖くて仕方がなくなりました。
……どうして、私はこんな光景を見てしまったのでしょうか。
碧泉さんは、一体何者なんですか。」
翡翠に縋るような視線を向けられた東雲は、ほんの一瞬だけ瞳を揺らした。
翡翠にどのような言葉をかけるか迷っているようだった。
「翡翠さんはもうお気づきかもしれませんが、碧泉は私と同様、一柱の神です。
彼の治める領域は、私が任されている領域のすぐ横ですので、この辺りは彼の勝手知ったる庭でもあると言えますね。」
そこで、一度口を閉ざした。何か思い当たることでもあったのだろうか。
逡巡のうちに、東雲はこぼすように呟いた。
「________以前、翡翠さんが碧泉と会った際に、何かあったのかもしれません。」
最終的に東雲の口から出た言葉は、この一言だけだった。
ただ、断定を避ける言い回しとは裏腹に、その語気は強かったように思う。
翡翠は、東雲がこの件に関して知っていることがあるんだな、と漠然と感じた。




