第二章一節 師走の雪 その15
「ええ、わかっています。ですが、今回ばかりは私も譲ることはできないのですよ。なんせ、彼女は私の与えられた使命にも該当する存在ですから。」
そう言った東雲の瞳には確かに強い意地が感じられた。
碧泉はそんな東雲を無言のまま睨みつけた。
お互いの視線がぶつかり合ったまま、時が流れていく。先に視線を逸らしたのは碧泉だった。
彼は視線を足下に向け、ふう、とため息を吐き出した。
「…………君の気持ちはわかった。だけど、僕は考えを変えたりしない。せっかく久しぶりに気にいる人の子を見つけたんだ、それを僕がホイホイと他の存在に渡したりするような性格じゃないってことは、東雲も知ってるよね?」
そう言って微笑んだ碧泉とは対照的に、東雲は苦虫を踏み潰したような表情をしていた。
碧泉の笑みは、側から見ればとても美しい。万人が彼の笑顔に魅せられることだろう。
でも東雲は知っていた。その笑みは毒花のそれだと。
一度彼に囚われて仕舞えば、抜け出すのはほぼ不可能。
それを知っているからこそ、東雲としては彼の標的に手を出すようなことはしたくなかった。
だが、もうすでに賽は投げられている。
東雲は、握りしめた手にぎゅっと力を込めて言い放った。
「それは重々承知しています。もう何千年という付き合いですから。
ですが、先ほども言った通り、私が彼女をあなたに引き渡すようなことは絶対にありえません。諦めてください。」
「何を言っても無駄のようだね。なるべく穏便に済ませようと思って、わざわざ顔も見たくない君の社まで足を運んだと言うのに。君が彼女の魂を渡すつもりがないと言うのであれば、力尽くで奪うまで。
というか一度は僕が手中に収めたのだから、手に入れる権利は僕にあると思うんだよね。」
「やはり、あなたとは相入れないようですね。いいでしょう、受けてたちます。
私は、私の使命を全うするだけです。あなたに彼女の______翡翠さんの魂は渡しません。」
「君ならそう言うと思った。今回の件は暇つぶしも兼ねているから、精々僕を楽しませてくださいね、東雲さん。」
碧泉の目は東雲をまっすぐと見抜いていた。彼の瑠璃色の瞳に映る東雲は、赤色の目を細めただ碧泉を見つめていた。その顔には、少しの侮蔑が現れている。
「話は終わりですか?それならもうお引き取りください。あなたと話していると、こちらの気分が悪くなりますので」
「それは重畳。今回僕がここに来た理由は、交渉の他にもう一つ、君への嫌がらせだったんだ。君は殊の外あの人の子に対する思い入れが強いようだったから、僕がこうして君の前に現れたら嫌な顔をすると思ったんだけど、大成功だったみたいで何より。」
碧泉はそこで一旦言葉を切って、東雲に対して満面の笑みを見せた。
「それでは、また近々お会いすることになると思いますので、よろしくお願いします。」
そう言い残して、碧泉はその姿を消した。碧泉の気配が完全に消えたことを確認して東雲ははーっと息を吐き出すとともに、不快感に表情を歪めた。
碧泉の思い通りになるのが癪だったため、碧泉がいる間はできる限り無表情を貫き通していたのだ。
昔からそうだ。彼と話しているとどうも調子が狂う。一言一言が癪に触るのだ。特に最後。
彼は私と話す時だけ丁寧口調ではなくなるが、今回最後だけ嫌味ったらしく口調を変えてきた。
「忌々しい……」
そう呟いて、東雲は未だ降り頻る雨粒を見つめた後、空を仰ぎ見た。
翡翠さんと碧泉が鉢合わせなくてよかった。
後々には顔を合わせてしまうことになるだろうが、今はまだその時ではない。
もう少し、翡翠さんが様々なことに触れてから。
「まったく、考えなければならないことも、対処しなければならない面倒事も多いですね」
口について出た不満とは裏腹に、その表情はどこか楽しげであった。
提灯に灯る明かりに顔を照らされながら、東雲は本殿へと足を進める。
これから起こるであろう出来事の数々に思いを馳せながら、独り境内の静寂の中で、思考の海に意識を沈めていった。
[第二章一節 完]




