第一章二節 高秋の訪問 その10
翡翠が考え込んでいる様子を見守っていた東雲は、口を開いて何か言いかけたが、結局何も言わずに口を閉した。
少しの間、一人と一柱の間を沈黙が流れる。
また自分の世界に入ってしまった……と反省した翡翠は、何か良い話題はないものかと思考を巡らせていた時、突然何かが視界に入り込んできた。
それは眩い輝きを放ち、翡翠の顔を照らす。
あまりの眩しさに、翡翠は思わず顔を手で覆い、釣殿の影ができている場所まで後退した。
眩しかったのは東雲も同様だったらしく、気がつくと翡翠の退避したすぐ横に佇んでいた。
「……もう、夕方でしたか。」
東雲がぽつりと呟いた。チラリと東雲の顔を見ると、そこには少しの驚きを見て取ることができた。
私たちが眩しいと感じたもの、それは西日だった。
池に反射した光と、直接降り注ぐ陽の光が重なったことで格別に眩しく感じたようだ。
見上げた空は、一面燃えるように赤く染まっている。
秋の夕焼けは格別というが、ここまで綺麗なことはそうそうないのではないかというくらい、澄んだ夕焼けだった。
「そう、みたいですね。」
翡翠も呆気に取られながら呟いた。
まるで狐につままれたようだ。会話に熱中しすぎて、夕方になっていた。しかも、陽の光が顔に当たるまでどちらも気が付かなかったとは。
きっと、空を眺めることはあったはずだが、それでも楽しい時間に気を取られて特に気にも留めずにいたのであろう。そして、それは東雲も同じだった。
であれば、東雲も私と同じように、私と話す時間を楽しいと思ってくれていたのだろうか。
断言はできないにせよ、その可能性があるだけで心に温かいものがじんわりと広がっていくように感じた。
「夏は夕涼みにこの場所に来ていたので、夏の夕焼けは目に焼き付けていましたが、秋の夕焼けはとても久しぶりです。ましてや、人の子とこの景色を分かち合っているなんて」
「きっと、東雲の記憶の中には数え切れないほどの秋の夕焼けの情景があるのでしょうけど、これはその中で何番目くらいになりますか?」
「もちろん、一番です」
その一言は尋ねた翡翠も、口にした東雲自身ですら驚くほど迷いのないものだった。
「……私は人の子のために生み出された存在です。以前もお話ししたように、現段階でその詳細をお伝えすることはできませんが、人の子と密接な関わりを持っていることは確かです。
普通の神であれば、人の子は人の子であり、個々を分別して見ることはありません。しかし、私はその性質ゆえに、しっかりと一人一人を識別しているのです。」
東雲は視線を彷徨わせながら、一言ずつ丁寧に言葉を重ねていく。
「そんな在り方をしていれば、嫌でも情が湧きます。人の子を、愛してしまいます。
出来ることなら、共に笑いあったり、食事をしたり、時には悩みを聞いたりしたかったのですが、残念なことにそれは出来ませんでした。私を認識し得た桜に対してでさえ、です。」
「おばあちゃんでも……」
翡翠の呟きに対して、東雲は静かに頷いた。
東雲は八百万の神の中でも高位とされる神の一柱であり、それ故に彼の姿を見ることのできる人間は一握りだと祖母から聞いたことがあった。
きっと、普通の人ならその話をまず疑ってかかるのだろうが、東雲の纏う他を寄せ付けない威圧を感じさせる雰囲気と、この世のものとは思えない美しさを見て、疑うという選択肢は思い浮かんでこなかった。
「長い時間の中、ずっと思い描いてきた情景を、今日やっと、やっと現実にすることができました。今見ている夕焼けは、私にとってそれほど特別なものです。
これから先のことはまだわかりませんが、今まで見てきたものの中でしたら間違いなく、一番綺麗な夕焼けです。」
東雲の横で話を聞いていた翡翠は、自分が泣きそうになっていることに気がついた。
長い年月を生きてきた神の言葉が、心が、小さい子どものように純粋で、透き通るようで。
それがどうしようもなく悲しく思えた。
顔を照らす茜色の光を遮るように見せかけて、翡翠は指で目元をサッと拭った。
それからしばらくは、暮ゆく秋の夕日を楽しんだ。太陽が見えなくなったところで、東雲が立ち上がる。
「さて、太陽も沈んでしまいましたし、そろそろお開きにしましょうか。」
翡翠は少し名残惜しく感じたが、「はい」と返答する。
「申し訳ありません、こんなに長々と引き留めてしまって。」
東雲の言葉に翡翠は慌てて首を横に振った。
「いえ、こちらの方こそ長々と居続けてしまって申し訳ないです。美味しいお茶に加えてお菓子まで出していただいて、ありがとうございました。とても美味しかったです!!」
「こちらこそ、美味しいおはぎをありがとうございました。また、一緒に甘味を食べながらお話をお聞かせください。翡翠さんの暮らす現代は、まだまだ私の知らないことがたくさんあるようですから、私にご教授いただけると嬉しいです」
「もちろんです!私も東雲に伺いたいお話がたくさんあるので、ぜひお願いします!」
東雲と翡翠は互いに笑みを交わし、釣殿を後にした。




