第一章二節 高秋の訪問 その5
予想外の音に、翡翠はびくりと盛大に肩を揺らしたが、横にいる東雲は平然としている。
翡翠の反応を見た東雲は、何かを思い出したように「ああ」とつぶやいた後、翡翠に向き直った。
「お伝えするのを失念していましたね。驚かせてしまい申し訳ないです。
私の神社では、正午になるとこうして鈴を鳴らす仕組みを採用しています。いわば時計の代わりですね。」
「なるほど、徳川幕府が民衆に時刻を告げるために鳴らしていた太鼓みたいなものですね!よかったです。何か緊急事態でも起こったんじゃないかと思ってドキドキしちゃいました。」
まだ普段より早く波打つ脈動を感じながら、翡翠は胸を撫で下ろした。
そのまま短い廊下を渡り切きり、先ほど庭から見えた一番大きな建物へと辿り着いたところで、東雲は足を止めて翡翠の方へ振り返った。
「ここが、寝殿と言われる建物です。来客の際は、基本的にこの場所で応対しています。私の上司に当たる神に何か仕事を言いつけられた際も、この場所で行っています。
ですので、私にとってはあまり寛げない空間とも言えます。
平安時代には、この寝殿が主人の起居の部屋でしたが、私は仕事部屋と就寝部屋を一緒にしたくはなかったので、この奥にある北の対を寝室として使用しています。」
東雲の説明を聞きながら、翡翠は遠慮がちに室内に視線を巡らせた。
他者が生活する空間をあまり凝視するのはよくないかなと思いつつも、やはり平安貴族の屋敷を模した空間となると、気になってしまうのだから仕方がない。
それにしても……広い。
外から見ても規模が大きかったため予想はしていたが、実際に中に入ってみると、外観以上に広く感じる。
遠慮がちに四方に視線を彷徨わせている翡翠を見て、東雲はたおやかに微笑んだ。
「何だか、不思議な感じがします。普段は自分の眷属以外の者が出入りすることはまずないのに、自分の生活空間に私と眷属以外の存在が、ましてや神ではない人の子がいるなんて」
長生きはしてみるものですね。そう言って笑った東雲は、殊の外嬉しそうだった。
きっと、身内以外が自分の生活空間にいるのが新鮮で、その新鮮さを楽しんでいるのだろう。
翡翠はその姿を微笑ましく思うと同時に、内心ほっとした。
もしも東雲が嫌々この空間に招き入れてくれているのだとしたら、申し訳ないという気持ちがあったのだが、東雲の様子からそれは杞憂だったことがわかった。
翡翠の思いを露にも知らない東雲は、眩しいほど美しい笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「そうそう、翡翠さんが持ってきてくださったおはぎですが、この次に案内する場所で食べようと思っているんです。喉も乾きましたし、そこへ向かいましょうか。」
「はい」
東雲に促されるまま透渡殿を通り、西の中門廊を進むと池が近くに見えてきた。
池に突き出て作られているこの場所は_________
「釣殿、ですね」
翡翠が呟くと、東雲が満足気に頷いた。
「よくご存知でしたね。翡翠さんにおっしゃっていただいた通り、ここは釣殿と呼ばれている場所です。池の辺りに設けられることが多いことから、泉殿と言われることもあったそうです。
古の人の子はこの場所で自然を愛で、心の慰めを行っていたようですね。」
横から吹き抜けてきた風に髪を揺らしながら、翡翠はその心地よさに目を閉じた。どこからか、チュンチュンという鳥の囀りが聞こえてくる。
「…………なんとなく、わかります。ここに立っているだけで、心がとても穏やかに、澄んでいくような心地がするので。本当に、素敵な空間ですね。」
翡翠の感想を受け止めた東雲は、嬉しそうに目を細めた。
「そうでしょう。ここは私もお気に入りの場所なので、良く言ってくださるのは嬉しい限りです。それでは、ここで休憩としましょうか。」
言いながら、東雲は畳の上においてあった座布団の上に腰掛けた。それに倣って、翡翠も隣に置かれている座布団に腰を落ち着ける。
畳が周囲よりも高くなっているため足を伸ばすことも可能だったが、流石に行儀が悪いと思い正座をすることにした。
釣殿の四方には御簾が張り巡らされているが、今は景色を楽しみたいと言うことで全て上げてもらっている。
綺麗な組紐でまとめられた御簾が風にゆらゆらとたなびく姿は、どこか冷涼で、夏を思い出させる。
もう一つ、翡翠に夏を感じさせる要因があった。
蓮の花の存在だ。
池の至る所で花を咲かせている蓮の鮮やかな桃色は、夏を象徴すると言っても過言ではない。特に池の青と葉の緑と相まってその存在が際立って見える。
「綺麗……。こんなにたくさん蓮の花が咲いているところ、初めて見ました。」
翡翠はその美しさに、池に咲く蓮から目を逸らすことができなかった。しばらくの間、何も考えずに目の前の瑞々しい花を見ていたところで、一つの疑問が浮かんだ。
確か、蓮の花は六月から八月に咲くはずだ。今は長月の下旬、現在の暦に直すと九月の下旬である。この時期にこんなに綺麗な蓮の花を見ることが、可能なのだろうか。
そんな翡翠の胸の内を感じ取ったのか、東雲が解説を始めた。




