第一章一節 長月の出会い その10
「少し、この椅子にかけて待っていてくださいますか?」
「わかりました」
祖母との思い出が詰まった畳の間の前で佇んでいた翡翠と東雲だったが、しばらく経った後、翡翠は東雲にお茶を淹れるという当初の目的を思い出し、慌ててダイニングテーブルに東雲を案内した。
キッチンの近くにあるダイニングテーブルは四人掛けだが、今は一人で使っている。
四つある席の内の一つを指差して東雲に座ってもらっている間に、翡翠は戸棚を開け、緑茶の茶葉を取り出し、やかんに水を注いで火にかけた。
水が沸騰するのを待っている間に、急須、湯呑み、そして小皿とお菓子を取り出す。
お茶うけのお菓子は親戚からもらったお饅頭が残っていたので、それを出すことにした。
一瞬だけ、神様に対して貰い物を譲るというのもどうかと思ったものの、無いよりはマシだと思って用意を続ける。
丁度おまんじゅうを小皿に盛り付けたところで、シューッという水蒸気が噴き出す音が薬缶から聞こえてきた。
その音を合図に翡翠は火を止め、茶葉をあらかじめ入れておいた急須に沸騰したばかりのお湯を注いだ。
湯呑みから立ち上る湯気と香りに表情を綻ばせていたところで、ふと疑問が浮かんだ。
『神様は、人間の食べ物を口にできるのだろうか。』
本当は準備を始める時点で気がつくべきだったが、今となっては後の祭りだ。
仕方がないので、翡翠はそろそろと東雲に近づき、聞いてみることにした。
「一応用意は終わったのですが、大切なことを確認し忘れていました」
「大切なこと……ですか?」
「はい。あの、神様は人の食べ物を食べることってできるんですか?私、何も考えずに用意してしまったんですけど……」
翡翠の言葉に、東雲は驚いた表情をしたあと、ふっと微笑んだ。
「食べられますよ。本来私たちは食事を必要としませんが、食物を処理することはできます。神社の祭事で、献饌として食べ物が祀られているのを見たことはありませんか?あの食物たちは、全てそこに住う神々が美味しく頂戴しています。
さらに神の中には、現世で食べたうぐいす餅が忘れられず、餅のためだけに人の子に紛れて店に並ぶような神も存在しているのですよ。」
「それは……大丈夫なのでしょうか」
「もしそれが本当に禁じられるべきことであれば、大神から罰が下されます。しかし、今のところそのような話は聞いたことがないので、さしたる問題ではないのでしょう。」
東雲の言葉を聞いた翡翠は、思っていたよりも数段緩い神様の理に、ただただ驚いていた。
「へー…………。神様って思っていたよりも自由に動くことができるんですね。」
「どうでしょうか。それぞれの領分がありますので。
____そんなことよりも、お茶を用意してくださったんでしたよね、ありがとうございます。翡翠さんも早くこちらにきて、一緒に休みましょう。」
「そうでした!!すっかり忘れてた!!!今そちらに持って行きますね」
翡翠は慌ててキッチンへと踵を返し、置いていたお盆を手にして、東雲の待つダイニングへと向かった。
トレーを机に置いたときに、ふと、翡翠は東雲の帯から垂れる房飾りが目についた。
なぜかはわからないが、その房飾りの形に妙に惹かれたのだ。
以前祖母から、房飾りの結び方にも種類があり、それぞれ名称がついていると聞いたことがあったが、翡翠は房飾りの結び方の種類について知らない。
せっかくの機会なので、東雲に聞いてみることにした。
「東雲が身につけている房飾り、とても綺麗ですね。何て名前の結び方ですか?」
翡翠の問いかけに、東雲は赤い房飾りを撫でながら答える。
「吉祥結び、という名称がついています。
____ふふ、この房飾りとても気に入っているので、綺麗だと言っていただけると嬉しいです。ありがとうございます。」
そう言って笑った東雲の表情のうちに、どこかあどけなさを見出した。彼の持つ優美で大人な雰囲気には似つかわしく無い一面を見て、ほんの少しだけ、東雲の過去が気になった。
何となく複雑な過去を抱えているような感じがして気になったが、別に急いで聞き出すようなことでもなかったので、翡翠はひとまず今は流すことにした。
翡翠が何も言わずにいると、東雲はお盆から器を移動させている翡翠の手元を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「お茶請けまで用意してくださったんですね。ありがとうございます。」
「お礼なんて結構ですよ。突然呼び出したのは私の方ですし、これくらいは当然です。
……と言っても、今この家にあるお菓子は、このお饅頭くらいなんですけど」
「今では普通に家庭の食卓に登場しますが、昔は饅頭を含む甘味は貴重でしたからね。嬉しい限りです。」
翡翠は湯呑みにお茶を注ぎながら東雲の話を聞いていた。歴史を専攻する中で常々思っていたことだが、今の時代は恵まれているんだなということを改めて実感した。
神様の言葉だからなのか、翡翠が神様の言葉を特別なものだと認識しているからなのかは分からないが、東雲の放つ言葉は、普段世の中に溢れている言葉よりも、翡翠の中で強く響くような気がする。
そう思いながらも用意を完了させた翡翠は、キッチンからダイニングへと移動して、東雲の前の席に座った。
「お待たせしました。どうぞ、召し上がってください」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えていただきます」
東雲がお茶とお菓子に手をつけるのを見て、翡翠もお茶を飲み始める。
しばらく他愛のない会話をしながら、翡翠と東雲は時の共有することを楽しんだ。
会話を重ねる最中、お饅頭を食べる東雲がとても幸せそうな表情を浮かべているのを見て、翡翠は、この神様は甘いものが好きなのかもしれない、と思った。




