第五章 長月の真実 その8
「消える……ですか。」
「あ、えっと……。さっきはそう言いましたけど、消えるとはまた少し違うような…….。なんていうか、体が渇望してるんですよ。今ある幸せをとり逃さないようにって。
____何かほんの小さなことでも一つのことが崩れて仕舞えば、もうこんな風に東雲とカフェに来る日常が、なくなるような気がするんです。漠然と、ですけど。……て、すみません。変なことを言って」
謝りながら、翡翠は不思議と納得感で満たされていた。
そうだ。私の中に漠然とあった不安の正体はこれだ。
大切な日常が、突然崩れ去ってしまうような。もう後戻りもできない状況にあるような、そんな心地が最近ずっとまとわりついてくる。
でも、その日常を失うことと引き換えに、何か大切なものが帰ってくるような、そんな予感もある。
色んな気持ちが混ざり合って、何とも表現しにくい。
少しの間自分の世界に浸っていると、クスクスと笑う声が聞こえてきた。
翡翠が顔を上げると、向かい側に座っている東雲がこちらを見ながら口元に手を当てて笑っている。
「すみません。翡翠さんが眉間にシワを寄せながら考え込んでいる姿が何とも微笑ましく見えてしまいまして。」
翡翠はぽかんと口を開けたまま東雲の言葉を聞いていた。多分、すごい顔になっていただろう。
「人が真剣に悩んでいたのにそれは酷くないですか!?…………まあでも、おかげさまで今抱いている悩みがどうでもいいことのように思えてきました」
翡翠の前向きな言葉に、東雲は満足そうに頷いた。
「そうですよ。基本的に人の子のそういった不安は杞憂に終わることが多いんですから、あまり気にしないのが正解です。それに、もしその不安が現実のものとなってしまったとしても、翡翠さんなら絶対に大丈夫ですよ。」
穏やかに、けれどはっきりと言い切った東雲に、翡翠の心にじんわりと暖かいものが広がっていくように感じられた。そして、不思議と“この先何が起こっても大丈夫“、という気持ちが沸き起こる。
『神様からの言葉だからかな。』
一瞬そう思ったが、すぐにその考えを否定した。
たとえ神様からの言葉だったとしても、翡翠を大切に思ってくれるような気持ちがこもっていなければ、こんな風に思うことはできないだろう。
翡翠は自分の胸に手を当て、目を閉じてから大きく深呼吸した。
そして、東雲からの言葉を逃さないようにぎゅっと手を握り締め、瞼を開く。
「ありがとうございます。東雲が大丈夫だと信じてくれた私を、信じようと思います。」
「ええ、そうしてください。あなたは自身で思っているよりもずっと強くて芯のある人の子です。どうか、そのまま突き進んでくださいね」
そう言って微笑んだ東雲の表情は、少しだけ憂いを帯びているような気がした。
まただ、と翡翠は思った。
彼は以前から憂いを帯びたような、寂しそうな表情をすることがあったが、今日はその表情を見せる回数がいつもよりも多い気がする。
東雲が意図的にその表情を翡翠に見せているのか、それとも無意識に溢れ出てしまった感情がそうさせるのか。
翡翠には何が真実なのかはわからなかったが、東雲が懸案を抱えているのは確かだろう。
そしてそれはきっと翡翠、正確にいうのであれば、人には解決できないことなのだと思う。
私にも、東雲を助けられるような力があればよかったのに。
そう思いながらも、翡翠はただ東雲がかけてくれた言葉に、「はい」と頷くことしかできなかった。
そのあと暫くまったりとしてから、どちらからともなくお店を出ることにした。
席を立ちお会計を済ませてお店を出る直前、翡翠がもう一度写真フォルダを確認してみると、身に覚えのない写真たちは依然としてそこに姿をとどめていた。




