4話
後日、俺は琴葉に電話をした。
琴葉は、俺が何か言葉を発する前から、ごめんなさい、ごめんなさい、と泣きながら訴えていた。
ちょうど仕事で忙しい時期だった俺が、急に電話をしてきたのだから、何か察するところがあったのだろう。
だが、俺を裏切った彼女の言い訳なんて、聞きたくもなかった。
「別れよう」
それだけを伝えて、俺はすぐに電話を切った。
琴葉が俺に何を話したかったのかはわからなかったが、別れを告げた後、やがて聞こえてきたすすり泣く声が、強く印象に残っている。
琴葉の声を聞くだけで、いつもあんなに心が揺さぶられていたというのに、それがずっと騙されていただけだったなんて、信じたくなかった。
琴葉の方には、もう俺への気持ちなんて欠片もなかったんだ。
どうせ金目的でしかなくて、稼ぎの良い俺に嫁いで、俺のお金で王子と遊んで暮らすつもりだったのだろう。
現実を知ってしまった俺は、ショックのあまり仕事でも失敗を重ねて、帰国後は昇進ルートから外れた。ただただ忙しいだけの部署に左遷されることとなって、今に至る。
♢♢♢
「…カズにい?ねぇカズにい??」
ふと気づけば、俺の両肩を掴んで春乃がゆっさゆっさと揺らしていた。
「大丈夫?急にぼーっとして?」
いったい、どれほどの時間、俺は上の空だったのだろうか。
春乃が心の底から心配してくれているのが伝わってくる。
こんな娘を不安にさせてしまうなんて、大人として終わっている。
「…ごめんね、カズにい。言いたくないことなら、言わなくていいよ…」
春乃の優しい声が聞こえて、いつの間にか俺は、彼女に背中をさすってもらっていた。
―――俺は、泣いていたのだ。
全然、気がつかなかった。
そんな俺の情けない姿を見た春乃は、それにもかかわらず、俺に優しく接してくれていた。
ああ、なんてみっともないのだろう。
―――だが、それが、俺という人間なんだ。
長年愛していた女性に裏切られて、心に傷を負ったまま、1人みじめに暮らしていくことだけが、俺に残された未来なんだ。
「そっか、カズにいは今、恋人とかいないんだ」
ようやく涙が枯れて嗚咽が止まったときだったから、春乃が呟いたその言葉は俺にははっきりとは届かなかった。
しかし、俺が泣き止んだのを確認した春乃の表情は急に引き締まって…
何か覚悟を決めたかのような顔つきになって、俺の目をじっと見つめて、こう言ったのだ。
「…春乃が、カズにいと結婚する!カズにいのお嫁さんになる!」
それは、思いもよらぬ発言だった。
俺のことを、励まそうとしてくれているのか。
どんな顔をすればよいのかわからなくて、泣いてくしゃくしゃになった顔をどうにかしようと試みるけど、どうにもならなかった。
今日の俺は、春乃に驚かされてばかりだ。
俺は春乃のことを、1人の子供として大切に思っている。
だから、春乃が俺を好いてくれることは、何よりも嬉しいことだ。
だが、この春乃の言葉は、そういった関係を超えていて…
子供の戯言として、受け取るべきなのだろうか。
「…この年になって独り身の俺に同情でもしたか?」
―――こんなことを言いたいんじゃない。
だけど、春乃の意図するところが読み取れなくて、俺の口をついて出た言葉はそれだった。
30過ぎたくらいで、独身の男なんて山ほどいるし、今どき結婚せずに自由に人生を歩むことを選ぶ人だってたくさんいる。
なのに、憎まれ口を叩くかのように、冷たく言ってしまった。
俺は最低だ。
結婚。お嫁さん。
そういう言葉を軽い気持ちで使う春乃に対し、怒りに似た感情がこみ上げてきてしまったのだ。
あんなに辛い思いをするくらいなら、恋愛なんてするんじゃなかった。
恋人なんて、つくるんじゃなかった。
何度もそう思って生きてきた。
同年代と比べて少し多めの給料を使い、趣味に没頭している会社の同僚を何度羨ましいと思ったことか。
傷心の俺には、もうそんな気力は残されていなかった。
しかし春乃は、素直に嬉しいと伝えられず、こんな嫌味のような言葉しか返せない俺に、優しい声で、答えてくれた。
「そんなんじゃないよ。私…ずっと、カズにいのことが好き。大好きだった。だから、優しいカズにいが誰かに取られちゃうんじゃないかって、ずっと不安で…」
春乃の真っ直ぐな瞳は、その言葉が本心であることを訴えていた。
…こんなおじさんに。
信じられないことだ。
そしてそれは、いけないこと。
俺と姉は血が繋がっていないけど、それなら良いって話じゃないってことくらい、俺はわかってる。
しかし、春乃は十分大人っぽいという事実を今日、知ってしまった。
看病してあげた時の、幼かった彼女とはもう違うのだ。
きっと、春乃にとって、同級生の男子たちはひどく幼く見えることだろう。
そう考えると、身近な男性で大人っぽい、というか大人なのは俺くらいしかいないのだから、春乃がそういった感情を抱いてくれるのは自然なことなのだろうか。
…いや、考えても答えは出ない。
それに、いつも春乃には大人っぽく見せてきただけで、本当の俺はこんなにも子供であることを、今日、目の前で見せてしまったというのに。
「私が、結婚できる年になるまで―――」
もう俺は春乃から、目を逸らすことはできなかった。
「―――待ってて、くれる?」
必死に訴える彼女の瞳は、どこまでも綺麗で。
だからそれを濁らせたくなかった俺は…
「ああ」
と、その言葉の責任も考えずについ、そう言ってしまったのだった。