3話
俺の言葉を聞いて、心の底から悲しそうな顔をする春乃。
それを見た俺も、引きずられるように悲しい気持ちになる。
「…!!どうして?」
訊いちゃいけないのかもだけど、と呟いてしまってから慌てて春乃はそう言い、俺の顔色を伺う。
こんな幼い子供にまで、気を遣わせてしまう俺はいったい何なのだろうな、と思う。
みるみるうちに春乃の表情はさらに寂しそうなものへと変化していく。
「だって…ことはさんのことを話しているカズにい、すごく楽しそうだったから」
言われるまで、気づかなかった。
俺は、別れたショックで、全てが嫌な思い出にしか感じられなくなって、心に蓋をしてしまっていた。
しかし、春乃の言葉を聞いて、当時の若かった俺が抱いていた感情が、少しずつ蘇ってくるのがわかる。
あの時は、本当に楽しかった。
昔の思い出などすべて壊れてしまったと思っていたが、実際はそんなことはなかったのだと知った。
一緒にいて楽しかったのに、どうして今は離れ離れなのか?
…それは、幼い彼女にとっては純粋にただただ不思議なことなのだろう。
学校という社会の縮図が全てである今の彼女にとって、仲の良い同級生と会えなくなるなんてことは、もし経験していたとしても、転校くらいしかないはずだ。親の都合で別れてしまうのは、子供にとってはどうしようもないこと。
しかし、大人になったら、自由だ。
俺は何度も言い聞かせるかのように、海外での色々な人間との出会いについて話してきたし、転校するくらいの距離感で二度と会わなくなる、なんて話をしたら、不自然に思われてしまうに違いない。
―――それに、何より。
俺は春乃に、どうしても嘘をつきたくないのだった。
「そ、それは…」
「それは?」
「…う、」
「う?」
だから俺は、うっかり口にしてはいけないところまで、語ってしまいそうになっていた。
胸が苦しくて、今すぐにでも吐き出してしまいたい。
楽になりたい。
そんな気持ちに押しつぶされそうになっていた。
『浮気されたから』
そう言いかけたところで、はっと我に返った。
これ以上は、まだ10歳である春乃に、話してはいけないことだろう。
最初こそ、プライドもあって色々内容を選んで話していたが、いつの間にか、自分の過去を誰かに話すことで気持ちが軽くなる旨味を知ってしまった俺は、つい自分の心の傷を、こんな幼い少女に打ち明けてしまいそうになっていたのだ。
―――しかし、口を閉ざして思いとどまったとはいえ、一度開いてしまった記憶の扉は、閉じてはくれないようだった。
♢♢♢
「お前の彼女、浮気してるぞ」
一大プロジェクトの重要なポジションとして、海外でバリバリ働いていた5年前、俺が27歳だった頃。
大学時代、同じサークルの仲間であった吉野から、そう連絡があった。
『あの琴葉が。そんなわけないだろう』
吉野とは特別仲が良かったわけではなかったが、あいつはいわゆる『情報屋』としてのポジションを学生時代から確立していた、ちょっと一風変わった奴だった。
当時は、ピンキリの、面白かったりつまらなかったりする彼の話を、なんとなく聞いてやっていたものだ。
しかし、今回の冗談は流石にタチが悪い。だから怒ってやろうと思い、メールをスクロールしていたのだが…
―――そこには、琴葉が路上で男に肩を抱き寄せられている写真や、脇道でキスしている写真、更には2人でビルの中へと入っていく写真があった。
信じたくなかった。
だが、吉野から送られてきた写真の風景は、俺にとって馴染み深い景色ばかりだった。
なぜなら、その景色は、日本に残してきた琴葉が1人で住んでいたアパートの近くだったからだ。
その事実が、俺に現実を突き付けてくる。
そして、海外赴任が決まるまでは、俺も彼女と同棲していたからわかる。
わかるんだ。
あのビルは…。
看板こそ目立たないが、ラブホなのだ。
混乱した俺は、気がつけば吉野に電話していた。
「おお!見たか鷺城!な?ヤバいだろ!?これ、一大スクープだろ??」
矢先、どこか嬉しそうに、興奮したようにまくし立てる吉野の声が聞こえてきた。
あいつは昔から空気が読めない。それはわかっていた。情報を集めるのが好きなだけだと俺は理解していたつもりだった。
が、あの時の俺には、人の不幸を喜んでいるようにしか聞こえなかった。
「見ろよ。この男。見覚えあるだろ?」
写真を見た直後はショックのあまり、意識がそこに向いていなかったが、改めて琴葉の隣にいる男の顔を見る。
知っていた。
王子、と呼ばれていた大学時代の同じサークルのヤツで、琴葉のことをずっと狙っていて琴葉の彼氏である俺に対し、事あるごとに嫌味を言ってきていた奴だった。
王子はイケメンで、モテた。彼女はとっかえひっかえという噂があったが、それでも彼に近づく女の子は後を絶たない。
絶対に、誰にも琴葉のことは渡さない。
そう思っていた。そう俺に強く思わせるきっかけは、王子だった。
あいつは危険すぎた。だから、ずっと、俺が傍にいると。
あの時はそう誓ったはずだったのに。
―――大手企業に就職し、金と地位を得つつあった俺はすっかり慢心して、いつしか一番大切だったはずのことを忘れてしまっていた…。
大学を卒業して3年。勤務先の会社の意向で、出世の意味合いと取れる俺の海外赴任が決まったときのこと。
社員寮の決まりで琴葉を連れていけないと知って落ち込んでいた俺に、琴葉は言ってくれたのだ。
『待つ』と。
琴葉のことをギュッと抱きしめた、あの日のことを俺が忘れることはないだろう。
あの時で付き合ってから8年だったが、俺と琴葉の心は確かに繋がっていると感じた瞬間だった。
俺は琴葉のことがずっと大好きだったが、彼女の方もずっとそうでいてくれているのか不安に思い始めていたころだったから、なおさらだった。
俺は、このプロジェクトが終わったら、琴葉と結婚する。
そう約束した。
…はずだったのに。
王子に抱き寄せられる琴葉の写真を見ていると、次第に涙が溢れてきて…
これらの写真は、2人の姿をこっそり尾行して、見つからないようにあんな角度やこんな角度から撮って大変だっただの、吉野は力説していたが、途中からあいつが何を話していたか、俺の頭には何も入ってこなかった。