2話
「知り合ったのはいつ?」
「こ、高校の時、だよ」
冷汗が止まらないが、正直に答える。
頭の中が全く整理できていない状況で、春乃の方から一問一答のように尋ねてくれるのは、逆にありがたいのかもしれない。何から話そうか、悩まずに済むのだから。そう思えば、少しだけ冷静さを取り戻すことができた。
「ど、どんな人なのかな」
春乃がいつにもまして俺の話に食いついているのが気になるが、俺はゆっくりあいつのことを思い出していく。
ゆっくりなら、大丈夫だ。
きっと大丈夫。
「大人しくて、少し人見知りで。…あー、けど意外と甘え上手でさ。人形のように整った顔は綺麗で。あ、あと笑ったときなんかは、最高に可愛かったよ」
ふと、別れてからもう5年だというのに、あいつのことは今でも色々と覚えているのだな、と気づく。
そんな自分が情けなくて、ちょっと笑えてくる。
過去について思い出すことは最初こそ苦しかったが、何故だか春乃にあいつのことを話していると、少しずつだが気持ちが軽くなっていった。
そういえば、『あのこと』は結局、近しい人には誰にも打ち明けていなかった。
俺に長年彼女がいたことを知っていた姉には、『別れた』としか伝えていない。
大人になって幸せな家庭を築いている彼女に対して、まるで幼い頃のように、これ以上心配をかけたくはなかったから。
だから、俺は過去の辛い思い出を一人で抱え込んで、そのまま記憶の奥底へと眠らせて、見て見ぬふりをして生きてきた。
―――まあ、姉は俺がその後新しい彼女を作っていないことを知っているし、考えてみたら、逆に心配をかけてしまっているのかもしれないが。
「へー。く、詳しいね」
しかし、そんなことを考えていた俺に、春乃はそう言った。
そこで俺ははっとした。
春乃は、俺に『初恋の人』について尋ねているだけで、俺の『恋人』について訊いていたわけではなかったのだ。
春乃の質問に対する答え方をちゃんと気を付けていたら、嘘をつくことなく、ぼんやりと誤魔化すことだってできたかもしれないのに。
辛い過去を一人で抱え込んでいるのは限界だ、なんて気持ちがなかったといえば嘘になる。
が、その過去を打ち明ける相手が、よりにもよって10歳の少女だなんて、1人の大人がとる行動として、あってはならないことである。
初恋の相手について、甘え上手なところとかを知っているのは、実際に付き合っていた過去でもないと、流石に不自然だろう。
俺は知らないうちに墓穴を掘っていた。
もう後戻りはできそうになかった。
「も、もしかして…その人と付き合ってた?」
そう訊かれてしまっては…
―――正直に答えるしかなかった。
「ああ。付き合ってたよ」
途端、春乃は自分の手で口元を抑える。
彼女の顔は、みるみるうちに赤くなっていく。
最初は茶化しているだけとも取れたが、どうやらそういうつもりで俺に話題を振ったわけではないらしい。今どきの小学生は、小4で既に男女の交際に興味があるのだろうか。
―――まあ、小2で由乃姉さんに見とれてしまった俺が言えたことではないかもしれないけれど。
何度も言うが、あの頃は恋愛的な、そういった感情はなかった。
…決して。
「こ、告白したのは、どっち?」
「琴葉さんの方からだよ」
「そっか…。ふーん、ことはさん、ていうんだ」
しまった。動揺して、さらに余計なことをつい口走ってしまった。
『ことは』
その名前を口にしたのは、すごく久しぶりで、だが不思議とすんなりと言えた。
それだけ、何度も呼んできた名前だということだろう。
さっきまでは気持ちが軽くなっていくほどだったというのに、その名前を呼んだ直後から、なぜだろう。俺の胸はきゅっと締め付けられたように痛い。
ことは。ことは。
…ことは。
頭の中で、何度もその名前がこだまする。頭がぐわんぐわんとして、まるで乗り物酔いでもしたかのような感覚。
だが、俺は春乃の前でだけは、カッコ良いお兄さんでいたい。
いや、もうおじさんかもしれないが、とにかく彼女の前では理想の自分でいたいのだ。
それが、俺という人間に残された、異性の子に対する僅かなプライドだったのかもしれない。
―――10歳の少女に向けられている時点で、何とも情けないプライドだが。
「カズにいって、モテるんだね」
春乃は、俺が告白された、という点にショックを受けたようだった。
散々、良く思われようと振る舞ってきたつもりの相手に、そんなことを言われては、かえって男としての自信がなくなってしまう。
そんな風に思うこと自体が情けない、なんて考えながら、それから、俺は琴葉との高校、大学時代の思い出話を語っていった。
学校祭で一緒にお化け屋敷に入った話や、レンタカーを借りて2人だけでドライブに行った話とか、飲み会でお酒に弱い琴葉がつい飲み過ぎて、俺にめちゃくちゃ甘えてきた話とか。
春乃に幻滅されないように、できるだけ彼氏としてカッコ良かったエピソードだけを思い返す。
そうすれば、俺が心に負うダメージも少ない。
ある程度話し尽くせば、春乃も満足してくれるだろう。
そう思って、俺は次々とテンポよく話した。
春乃は本当にいつにも増して俺の話を真剣な眼差しで聞いていた。
いつもみたいに笑ったりせず、表情もどこか引き締まっていたから、俺はそこが少し不思議だったが、まあ楽しんでくれているなら良いだろう。
やがて、ひと通り話し終えた。
これで春乃は満足してくれるだろう。
俺はそう思ったのだが…
「カズにいって、け、け…結婚!…してない、よね…」
春乃の質問は、俺が語った思い出話を飛び越えた、その先にあった。
結婚。
その言葉を聞いた瞬間、『ことは』の名前を呼んだ時以上に、俺はさらに強いめまいを感じてしまった。
「…してないよ」
何とか、できるだけ素っ気ない感じで返す。
「じ、じゃあ今は…」
そう呟いて、春乃はしまった、と口を押さえた。
幼いながらに、訊いてはいけないことだったと感じたのだろう。
しかし、その仕草はあまりに純粋で可愛らしくて…
不思議と苛立つことはなく、俺は10歳の少女に、素直に言ってしまった。
―――決して語ってはいけない、幼い子供の夢を壊すような現実への入り口を。
「別れたよ」