<第二章:降竜祭> 【12】
【12】
呼んで助けなど来るはずがない。
その程度で救われるなら、同じ場所で10年も苦しんだ俺は何なのだ。
自分を救いたきゃ、自分で救わなきゃならない。
自分の手で、足で、血で、救いたいモノを全部救わなきゃならない。
立て。
いいから立て、俺。
走れ馳せろ。
痛みがなんだ骨がなんだ内臓がなんだ。
救えない心の痛みに比べたら、全てカスみたいなもんだろ。
おびただしい血が流れ、折れた骨がこぼれ落ちる。切断される意識を、無理やり繋ぎ直して体に命令し続ける。
ただ走れ。
瓦礫にぶつかりながら走る。
ハティに覆いかぶさり、大きな瓦礫を背中に受けた。
奇跡的に潰れるのは避けられる。
彼女を抱えて走り出した。
お互い真っ赤だ。
どちらの血かわからない。
視界が明滅する。
意識が混濁する。
断片的に目の前の光景が写った。連続写真を見ているかのようだ。
10年と通った道。
破壊された人気のない街。
無限に続く石畳。
白い塔。
青い空。
血の気のない女の顔。
血の雫。
そして、何も見えなくなった。
風が吹いている。
強い風だ。何も聞こえない。
感覚は泥だ。どこもかしこも温く鈍い。出ようとすると恐ろしく冷たい。
今はどこだ?
どこにいるのだ?
「………ハティを」
俺の声は、誰かに届いたのか?
何もわからない。ただただ全部が暗い。やがて、音すら聞こえなくなった。
泥のような死の眠りに包まれる。
忘れていた悪夢が蘇った。
叩き潰される女の夢。
最近忘れていた夢。
10年以上見続けた悪夢だ。
結局のところ、心の傷は治らないのだ。幸福という鎮痛剤で一時的に忘れることはできても、それが尽きると同時にぶり返す。
違うな。
幸福だけが鎮痛剤じゃない。
怒り。
そう、怒りだ。
怒りこそが最も強力な鎮痛剤だ。
こんなことも俺は忘れていたのか? 怒りこそが、俺の血というのに。
奮い立たせろ。
「きゃっ」
目覚めると、目の前にいる女の手を掴む。
「奴は! どこだ! 鉄鱗公はどこにいる!?」
「旦那様、落ち着いて! 重症なのよ!」
「落ち着いている! だから、奴の居場所を言えッッ!」
アリスに掴みかかり、彼女に頬を叩かれた。
良いスイングだ。アゴに入って脳が揺れ、体がベッドに沈む。
「死ぬよ? 本当に。次、暴れたらアタシが旦那様を殺す。こ、殺すからぁ!」
アリスは、震える手でナイフを握っていた。
俺と一緒に自分も刺しかねない。
「………………わかった。落ち着いた。本当だ」
歯を食いしばり落ち着く。
「旦那様、しばらく黙って聞いて。アタシの血が運よく適合したから輸血で助かったの。あくまでも助かっただけ。傷は全く、これっぽっちも治ってないの! 全身に打撲、背中に裂傷と刺し傷、左わき腹が特に酷い。深く抉れていて、あばら骨が2本損失してる。おまけに高熱。絶対安静、後遺症抜きにしても完治に半年はかかる。わかってる? 重症なの。こんな短期間で、意識取り戻しただけでも奇跡なの。わかった!?」
「お前も落ち着いてくれ」
アリスは息切れしていた。
白い肌がいつもより蒼白なのは、血を抜いたせいだろう。そんな状態で興奮したら、息切れも起こす。
落ち着いたら周囲が見えてきた。
ベッドのある個室だ。窓から見える景色が高い。たぶん城の一室。
上体を起こす。
「ぎっ」
痛みの奔流が全身を駆け巡る。体を半分に裂かれるような激痛だ。
「寝て!」
「………駄目だ」
ベッドの端には、ルミル鋼の剣がかけてあった。
当然、ロングソードはない。
「だから!」
「無駄よ。こういう男はベッドの上じゃ死ねないの」
いつの間にか、ランシール王女がいた。
背後には近衛兵もいる。
「鉄鱗公は、どこだ?」
「草原にいるわ。不気味に翼を休めている。白鱗公に人を送ったから、真相は時期にわかる。今回のこれが、竜の長の奸計なのか、馬鹿の一存なのか、それとも事故なのか。返答次第では竜と全面戦争よ」
「真相なんてどうでもいい。俺は奴を殺す。それだけだ」
「それだけで終わるなら、ワタシも頭を悩ませてないわ。アリスちゃん、こいつ立てるわよね?」
「立てません。死にます。寝かせるので帰ってください」
アリスはそう言うが、俺はベッドから出て立ち上がった。
一瞬、痛みで気絶して、その痛みで覚醒する。
モタモタと椅子にかけてある着替えに袖を通し、ルミル鋼の剣を手にすると、アリスが腕に抱き着いてきた。
「行かせてくれ」
「死にますよ!」
「死なん。絶対死なん」
奴を殺すまでは、いやあの神を殺すまでは、殺されても死なない。
「アリスちゃん。冒険者なんて皆こういう“ろくでなし”なのよ。そういう男の妻なのだから、覚悟して見送りなさいな」
「ぐっ」
アリスがランシールを睨む。
しばらく睨んだ後、俺の手を離した。
「旦那様、これ痛み止め」
差し出された小瓶を受け取る。
「痛覚を麻痺させる劇薬だよ。一時的に動けるようになるけど、後遺症は覚悟して。傷が開いたら死ぬってことも忘れないで。絶対」
「わかった」
クソ苦い液体を飲み干す。
喉の奥がチリチリする。呼吸するだけで苦い。
「鎧直す時間なかったけど、マントだけは繕ったよ」
前よりも赤が濃くなったマントを、アリスに羽織らせてもらう。
重い。
ただの布が恐ろしく重く感じた。帯びたルミル鋼の剣も、倍以上の重さに感じる。
「で、どこに行けと? すぐにでも鉄鱗公を殺しに行きたいのだが」
「あんたが好きな牢よ。アレが、何なのか検めなさい」
「アレ?」
嫌な予感と共に、彼女の顔が思い浮かぶ。
「ハティは、どこだ?」
「“一緒”よ」
見慣れた城の牢にやってきた。
薬が効いてきて、痛みは薄くなってきた。だが、疲労感がとてつもなく重い。二日間、不眠不休でダンジョンをさまよった時よりも酷い体調である。
熱もかなり高い。汗が一滴も出ないほど熱い。
だから、なんだ。
手足は揃っている。武器もある。戦える。問題ない。
「フィロちゃん。先に言っておくけど、あいつは人を挑発するのが得意よ。決して乗らないように。ここで無駄な体力は使っちゃ駄目よ」
「………………」
理解している。
ただ余裕はない。
「あらぁ~無事だったのね【獣の王】。良かったわぁ」
牢の中で、裸のハティが手足を鎖に繋がれていた。その頭部には角が2つあり、頬には鱗が見え、艶めかしい足の間からは尻尾が覗く。
そして傷。
俺が付けた傷がない。
「フィロちゃん、あなたにはアレがどっちに見える?」
答えられるわけがない。
女は、ハティのように微笑んで言う。
「フィロさん。ここから出してくださいな。2人で王女を倒して国を乗っ取りましょう」
「少なくとも、ハティには見えない」
「いやですわ。私はあなたの恋人。肌を重ねた仲ではないですか、そんな悲しいこと言わないでくださいまし」
全く。
最悪だ。
鉄鱗公だけでも手一杯なのに、こいつまで相手しないといけないとは。
「おい、邪竜。ハティはどこにいる? その姿はなんだ?」
「はいはい、答えてあげますわ。この体は聖女様の物よ。鉄鱗公に入れられたの。竜に仕える聖女の中には、後に竜と成れる者もいる。この体が正にそう。姉妹となる者の体に邪竜を入れるなんて愚かの極みですわ。でも理由は、フィロさんがわかっているわよね?」
「俺から、力を奪うためだ」
飛竜を差し向けたのも、奪うに値する力を探すためだろう。
「力を成長させると同時に奪うっていうね。あなたは歴代の【獣の王】の中でも、かなり珍しい存在ですわ。血肉にではなく、剣に力が宿っている。奪いたくなる竜の気持ち、私わかります。だからって、こんな馬鹿なこと。他の竜が黙って………………あれ? あれれ~? 不思議ですわー。おかしいですわー。もしかして、他の竜もフィロさんの剣で斬り殺して取り込むつもりかしら? やだー新しい邪竜ですわね」
人をおちょくる様な喋り方だ。しかも、ハティの口調を下手に真似ている。
熱が更に上がりそうだ。
「なんであろうとも斬る。剣も奪い返す。だから、そこから出て行け」
「ふふ、出て行こうにも元の体が消滅してしまったのですわ。アレ気に入ってたのに、こんなお尻の大きい体に入れられるなんて」
尻尾が動き、ハティが挑発的に足を広げる。
掴んだ格子が悲鳴を上げた。どうしようもない感情が煮え滾っている。
王女が俺の肩を叩いた。
「で、ラザリッサ。何が目的なの?」
「目的? 不思議なことを聞くのですね。私の目的は、昔と変わらず世界の混沌。【獣の王】が生まれたというのに、世界はまだ滅んでいない。不愉快ですわー。壊したいですわー」
「娘の居場所を教えると言ったら?」
邪竜に娘がいるのか?
「ははっ、アレはたまたまお腹を痛めただけの子ですわよ。………交渉材料になるとでも?」
「そう、話にならないのね。まぁ、その体でも封じることはできる。前と変わらず地下に。準備を」
近衛兵が動き、俺は剣を抜いた。
「フィロちゃん、何のつもり? 鉄鱗公を殺しに行くのでしょ?」
「………………そうだな。しかしこれは、まだハティに戻れる可能性がある」
「ないわよ。諦めなさい」
王女が下がり、近衛兵が剣を抜いた。
「フィロさーん、頑張ってくださいまし~」
「黙れ」
剣を肩に担う。
しまった。
構えが昔に戻っている。これじゃ斬れて1人なのだ。近衛は3人もいる。
刃を返して間に合うのか? クソ、頭が回らない。
熱い。
「やめんか馬鹿者。こういう時のために余がおるというのに、肝心なところで頼らんとは」
足元に蛇がいた。
こいつが今何を言っても、声が届くのは俺や一部の人間のみ、王女には届かない。
「………………嘘でしょ。父上?」
届いた。




