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悪夢楽曲

作者: 黒森牧夫

 それまで全く経験したことの無い圧倒的な恐怖に怯える幾つもの声を、無数の悲鳴を圧し潰して、どろりとした濃泥の様な悍ましくも穢らわしい黒い塊が、凄まじい重量で以て地表に広がって行った。発端となった割れ目からは間断無く、しかし不気味な停滞を交え乍ら後続が溢れ出し、その互いの余りの密度に犇めき合い、(せめ)ぎ合って、予測の付かぬ捻れを生み出し乍ら盛り上がり、或いはひしゃげ潰れ乍ら延べ広がり、静止することを知らぬ奇怪な模様を描き出して、手で触れられそうな濃厚な熱気を、危険を表す真ッ赤な欠片と共に周囲に発散した。大きさから言えば山脈にも匹敵するその魁偉な塊は、四千度の溶岩がその儘丸々雄大な大造山活動を始めたかの様な容赦の無い変動を続け、絶えず自重によって屍体めいたぐねぐねした歪みを繰り返し乍ら、ちろりと一瞥するのさえ躊躇われるぶくぶくと醜い表層部を排泄でもしているかの様に四方に放り出し、攪拌させて行った。そこには耳を持たぬ一方的な宣言があり、高らかに下卑た声で叫ばれた意志の断定があり、それは近辺に在るあらゆる音を、声を、抵抗を、手当たり次第にその煮えたぎる騒々しい沈黙の中に呑み込み、吸収し、黙らせて行った。まるでそれ自体固形物と化したかの様な激しい動揺を繰り返す大気はそれに逆らうどころか迎合し歩調を合わせるかの如くににねっとりと闇の中を汚染して行き、碌に逃げる術とて持たない周囲の諸存在を次々と感染させ、その威力のみによって自らが目的も理由も一切の正当性を必要としていないことを証明してみせた。そこで蠢いているもの全ての背後には、より緩慢だがより確実で不可避的な、更に強大な危険が地平線の如くに広がっていたが、今はまだ差し迫った目前の危機による恐怖の方が、堅固な大樹の幹の様に堂々と大地を刺し貫き、風景を犯してその場の支配権を混濁した野太い声で喚き立てていた。それはその遊星そのものを質料として開かれる痴れ果てた大狂宴であり、凡そその地に住まう生命全てを生贄として供する重々しい大舞踏会であった。傷口は無残にもぱっくりと大きく開き、痛みを和らげるこどころか寧ろ拡大し増幅させるべく躍り出た真っ黒な真っ黒な溶岩は、狂行の上に暴行を重ねることによって、どんな悲響の上にも強引にどす黒い沈黙を押し被せて行った。

 長大な天体の歴史の上では一瞬にも満たないほんの僅かの間、そして襲われた犠牲者達にとってみれば永劫とも思える間、それは醜怪な運動を上へ下へと繰り広げていた。だが、二、三度引き攣った死に際の痙攣じみた大きな爆発を転機として、最初のひと吹きが終わってしまい、流れが次々に結合してそれらしき筋道が出来てしまうと、やがて自重によってべったり地面に這いつくばらされ乍ら、より広い地平を求めてと云うよりは今居る所が余りに手狭なので転げ出たと云う感じで不様にあちこちへと垂れ広がって行き、その無駄に溌溂とした勢いを分散させて行った。するとそれに呼応するかの様に、各地から閉じ込められたり圧し潰されたりした大気が噴水の様に噴き出し、どう仕様も無くみっともない事後の後悔の雰囲気も撒き散らし乍ら、遠方へとバラバラに逃れ去って行った。或るものはその場で滞留し、また或るものは蜷局(とぐろ)を巻いてその辺りをうろうろしていたが、やがてそれも雲散霧消と云う極く曖昧だが真っ当な仕方でその場から退場して行った。全体から見れば小蛇に過ぎない彎曲した流れが幾つか、道筋の一寸した破れ目を突破して支流を作り、小さな滞留を繰り返し乍らより低きを求めて頭を伸ばして行ったが、それらは(いず)れより大きな支流に呑み込まれるか、或いは勢いを失って行き詰まったりした。最初の頃に比べて個々の箇所の運動エネルギーは大分落ちてはいたが、それは力が余りに広く散らばった為にそう見えているだけで、大本の源泉から湧き出る悪鬼めいた軟体の塊は、一向に衰えてはいなかった。裂溝からは今だに光を吸い込む(かぐろ)い悪夢が獲物を求めて、或いはそんなものさえ求めたりせずに、次から次へと這い出して来ており、危険そのものはまだそこに蹲って上目遣いでにたにたと笑っているのだった。

 濛々(もうもう)たる熱気と瘴気の中で、無数の細かい動きがのたくっていた。それらは外界の刺激に触れて活性化したか刺激的な反応を惹起したかした表面部のどろどろの塊で、本体よりも動きがやや柔らかく、速かった。噴出時に巻き込まれていた空気が気泡と成り、場合によっては大きな泡と成ったが、それらは破裂せずに夢幻じみた動きですうっと萎んで行った。或る程度距離を置いて見てみると、その様子はまるで巨大な屍体がぶよぶよに腐爛して醗酵しているか、さもなくば瀕死の怪我人がゼイゼイと苦し気に喘いでいる様を思わせたが、更にまた離れてみると、それはもう重度の疥癬でも患っているかの様な気味の悪い病んだ黒い皮がべろりとずる剥けて広がっているのだった。認識を記憶とを混濁させ、不明瞭な忘却のまどろみへと誘うかの様な分厚い靄が、しかしそれらをすっぽりと包み隠し、それまでぼんやりと漂っていた不穏の気配を何処かへ紛らわせ、所在を判らなくさせてしまっていたが、それは慈悲深い恵みであると同時に狡猾な目眩ましでもあった。何千何万と云う数え切れぬ程大量の蛇がのたくり合って縺れ絡まっているかの如き狂態は、その厚いヴェールの下で黙々と悍ましい運動を続けていた。

 全篇に亘って消音器を着けて演奏された交響楽の様に、奇妙にも何かをずっと押し殺している感じを抱かせる不気味な靄の動きの海の中から、時折、他とは少し異なる動きが不規則に現れて、眠る巨人が寝返りによって(うな)された時の様に陰湿な平静を掻き乱したが、それらは所詮単なる寝返り以上のものではなく、たゆたう茫漠な白煙は時間の経過と共に益々厚みを増して行く様に見えた。靄は全体として停滞しているのかそれとも何処かへ向かって流れているのか判然とせず、唯無数の局所的な蠢きの集積としか見えなかった。その内に何の前触れも無く、海面下の濁流の様子を窺わせる大きなうねりがゆっくりと鷹揚に盛り上がり、ぐねぐねと噴き出る悪夢の様を靄の攪乱で再現して見せたが、それもまた大きな溜息でも吐く様に一層ゆっくりと無数の小さな動きの中へと沈み込んで行った。押し出された熱気が数瞬ぶわっと海面上に噴き出て、竜巻の様に軽く渦を巻き乍ら上空へ立ち昇って行ったが、その根元で何やら閃くものが微かに見えた。それは所が違えば地をも揺るがす大轟音を伴った雷の一撃だったかも知れないものだった。その後からまた怪し気な揺らぎが頭を見せ、数本の筋に分かれて虚空の中へと散って行った。

 気の抜ける様な静寂があった。その寝惚けた様な漠然とした靄の海の動きは、まるでそれまでに起こった一切の出来事が、目覚めの直前に大慌てで叩き起こされた時に脳裏に名残り惜しそうに閃く夢の残滓に過ぎず、到頭思い出されなかったより厖大な部分を成す非現実の時間が、何処かその辺り、掴み所の無い動きの彼方か、或いは底の方にでも取り残されて、何を待つでもなく只ごろんと寝転がっているのではないかとさえ思わせた。時折ふと思い出した様に、まだ去ってはおらず単に見えなくなっただけの筈である脅威が肅然と再現されたが、最早その風景全体が恐るべき汚穢の噴出に興味を失ってしまった様にも見えた。仮令それがどんなに恐ろしいものであったにせよ、それは所詮パンドラの箱から逃げ出して来た訳でもなく、その紛い物、派生品、模造のそのまた模造に過ぎないのだと、その風景自体が直観しているかの錯覚さえ覚えさせたかも知れない。実に静かに、平穏に、風景は澱んでいた。この先に待ち受ける腐蝕や自壊の可能性などまるで頭から考えてもいない様だった。

 表面の一隅から、泡と云うか瘤と云うか、纏まった塊がぽこんと浮き出て、まるでおどける様に次々と表面を更新し乍ら、余裕を見せる気紛れな川の様に幾つもの角度を織り成して複雑な針路を描き乍ら、上方へ向かって曲がりくねった。その歪な煙の柱に呼応するかの様に、数瞬、周囲の雲海の表面がざわっと鳥肌の様に騒ぎ立てたが、それはそのおふざけに一緒に参加して、確信犯めいた嘲弄の影を上空に放散する様を思わせた。それからそこから細い柱が何本か、と云うよりも、翼竜の翼の様に間に細い支骨を何本か挟んだ極く薄い皮膜の緞帳めいた幽玄な霧の壁がぬっと飛び出て来て、更に歪な曲線を描いて上昇する最初の柱の後を追って行ったが、それはほんの少しの間だけ、根元の雲海と微妙な陰影を映し合って複雑怪奇な色彩を描き出した。緞帳の速度は速かったが、上へ上がるにつれて自重が負担になったのか、急に痙攣を起こした様に泡の塊となってぶるぶると震え、息を止めて窒息し始めた様に震え始めた。その幕が落ちた衝撃によって反動が起こったのか、それともそうでなくても雲海の下で新たな動きがあったのか、恐らくその両方だろうが、その幕が津波の様に捲れ返って下の波間に落ち掛かって行き、衝突する直前にぶわっと火気が収縮と破裂を起こして八方に叩き付けると、それを待ち受けていたかの様に、更に遥かに強大な波が下から沸き起こり、曖昧さを許さぬ明確な輪郭を持って、柱の束もその周囲も全て蹂躙し尽くした。大きなうねりが二度、三度と繰り返し、それからその動きをなぞる様にして、それらと似たうねりがまた二度、三度と繰り返された、濃淡の付いた巨大な溜息じみた余波が、まるでスクランブル発進をするジェット機の様に猛然と四方へ飛び出し、息の詰まるカーヴを描いて上方へ反り返り、そこで待ち受けていたより大きな大気の攪乱と合流した。それから、それらのうねりよりも更に巨大な力が一気に爆し掛けて、直ぐに引き戻される様に引っ込むと云う、未遂に終わった咳めいた動きを何度か繰り返したが、その場所はその儘その動きに引き摺り込まれる様にして、可成り広い範囲に亘って陥没を起こした。突如出来上がった窪地はまるで海峡の真ん中であんぐりと口を開けた大渦巻きか、さもなければ巨木の根めいた歪んだ形をした巨人の足跡を思わせた。窪地の縁の部分で、まるでデコレーションケーキの悪質な飾りの様な捩じくれた断片がざわざわと立ち上がり、窪地とは逆に上へ吸い上げられる様にして外側へ向かって上昇し、プロペラの様に捩れを繰り返し、形を或る程度保ち乍らワァッと拡散して行った。その後を更に、その周囲からわらわらと湧いて来た煙の柱達が追い、丁度火山の火口の中からではなく、逆に火口の外側の周囲一帯で爆発が起きた様な奇妙な光景を作り上げた。それらは木霊めいた大小様々の捩れを暫くあちこちで繰り返していたが、やがて目覚めの直前に何かの間違いでうつらうつらと思い出された夢の断片の様に、何処か非現実のあわいへと溶け去って行った。

 その後、ひとつの文明が勃興し滅亡し去る位の間、靄の海は全体に比すればとても微かな息衝きをゆっくりと繰り返すばかりで、一見穏やかな、しかし決して緊張を解いてはいないうねりを遊ばせていた。窪地になっている部分は徐々に元に戻って行ったが、それはとても緩慢な動きで、それまでの動きを見分けていた目によってその動きを見分けるのは恐らく不可能であったろう、靄の中ではまだその窪地を引き留めている何か強大な力が、或いは力の残滓が働いていることを窺わせたが、時々視界の中の小さなゴミの様に、本当に気付くか気付かない程度の規模で起こる雷や棚引きも又、そのことを証している様であった。

 巨大な真実は暴かれるべきものや探究されるべきものとしてではなく覆い隠されているものとしてその前に横たわり、直視されることや解剖されることを厳然として峻拒していた。一見すれば鈍重な眠気が覇権を揮い、曖昧で希釈された混沌が支配している様に見えたが、その実その景色の本質は能動的な隠蔽と韜晦であって、穏やかそうに見える表面の下では、攻撃的な欲望がその余りの苛烈さにひとつの意志と化して息を潜めていた。節操の無い怠惰の仮面の下では、牙を研ぎ澄ました暴力の獣が偽りの微睡みの中で虎視眈々と機会を窺っているのが判った私は、それでも、この暫しの不気味な無言を利用して、この風景の素地が生み出され、そしてそれが展開し得た許諾可能性のひとつを探し当てることに成功した。元々それは、非縮の時間で三分程の間(わだかま)った欲望を苗床にして生まれたものだった。それが地球時間で三十余年程の間に様々に変容を来し乍ら、次々と肥え太り、幾つかの候補から受肉時間を手に入れたのだった。生誕時に掛けた時間の中途半端な長さの所為で、急激に大爆発を起こして膨張するでもなく、さりとて数年から数十年掛けて累続的に強度を増して行くでもなく、小規模の儘或る程度の形状を決定してしまって、そこに付加的に成長乃至深化した分が増援されて行くと云う生長方法を採った為に、こうして今尚強力だが限定された局所的風景の儘に留まっているのだった。私が観察を行ったことによる変化率をざっと計算してみたが、それは当面無視し得る程度のものだった。私は半ば震え乍らもほっと安堵の息を吐くと、この恐るべき風景を覗き込むのを中断した。この漆黒の恐怖の中にどれだけの悲鳴が呑み込まれ、またこれから呑み込まれるであろうかは、今は考えないことにした。学究への意欲だけでは些か支え切れなくなっていた知の負担が疲労となって、私の両眼を閉じさせた。

 暫しの黙想の後、気が付くとセグクレヒト408が傍らに立ち、私の視界を覗き込んでいた。私が気付いたことに気付いていた彼/彼女は、探究の進捗状況の報告と、私の見解と感想とを求める端的な言葉を、厳格だが慈愛の込もった口調でそよがせて来た。私は最初若干躓き乍らもそれらの問いに答え、その勢いで問われなかったことにも答えて行った。彼/彼女は、恐らく微笑にでも該当するであろう緊張緩和の信号を送り、ゆっくりとそれについての見解を示した。私は少し落ち着いて、ゆったりとした姿勢の儘、再び視界の中を、今度は覗き込むのではなく少し距離を置いて一瞥した。偽りの微睡みはまだ解けてはおらず、茫漠とした靄の海が一面におどろおどろしく広がっているばかりだった。私は、宇宙の真実相に肉迫すると云う作業の困難を改めて認識し、この呪われた小宇宙がその寿命を全うするまでに、この先更に知らねばならぬことの膨大さを思えば、今の目の前の恐怖など無に等しいことを、まだ四分の三以上の更に恐るべき時空間が展開されなければならないことを自らに思い出させた。次の惨劇までにはまだ間があった。私は一度目を閉じると、まだ見なければならぬ悪夢の続きに対して姿勢を整えた。

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